2013年05月09日

そうかい、そうかい、総会。

またブログの更新をサボってしまいました・・・。何かと慌ただしくて、すっかりご無沙汰です。読んで下さっている方(特に檀家さま)には申し訳なく思っています。(ホントです)

さて、ここ2週間は、何らかの総会やら会議やらが多くありました。
坊さんって、お経読んでるだけのイメージがあるかと思いますが、意外にお経を読んでる時間は長くありません(笑)

一ヶ寺の住職ともなれば、宗教法人法では代表役員ですし(従ってそれに準じた業務があります)、それ以外に、教区会(宗派によって定義が異なりますが、曹洞宗では「同宗近隣寺院の会」)、法類会(そのお寺の歴史的繋がりのある寺院の会)、市町村の仏教会(たいていは伝統仏教教団で構成される)とか、宗教者連絡会(通常は仏教、神道やキリスト教など)など、程度の差こそあれ、結構いろんな組織に所属しているんですね。

先日は、ここ西光寺にて、東三河曹洞宗青年会の総会がありました。(下の写真参照)
もう何度も書いているので、ご存知の方も多いかと思いますが、曹洞宗青年会は、原則40歳以下の僧侶で構成され、この東三河一円に住する若手僧侶60名弱で組織されます。

2年任期で役員交代があり、ちょうど一年前に泰明もお役を頂戴しました。

活動としては、東日本大震災などのボランティア活動や坐禅会、僧侶対象の研修会などを行っています。

今年は5月26日(もうすぐですね)に、大きな記念大会があります。愛知岐阜三重静岡4県にまたがる10の青年会が一堂に集い、檀家さんや僧侶向けの式典を行います。

担当は輪番制(順繰り)で、今回の担当は、私たちの東三河曹洞宗青年会です。そして・・・この式典の司会を、私不肖泰明めがつとめることになっています。(内心、どきどきです)
この大会のチケットもありますので、また告知しますね。





その翌日は、25年度、第一回目の護持会役員会でした。
護持会(ごじかい)というのは、各お寺の檀家さんで構成される会のことです。会長は檀家さんの中から選出され、名前の通り”護持=お寺を守り、たもつ”ことを目的としています。それだけでなく、大本山への旅行や、各種のイベントなども護持会の協力のもと、行っています。

西光寺の護持会は、十数年間、有名無実化しておりました。2年前に、新会長を選出し、役員さんも大幅に増員しました。

中々泰明が至らないものですから、役員さん始め、檀家さんにもご迷惑をお掛けしております。人間で言ったら2歳児ですから(笑)

しかし、ゆっくりとですが、確実に活動が歩んでいるという手応えはあります。ひとえに役員さんのお蔭です。無償でご奉仕いただいている役員さんには、感謝の言葉もありません。

「もう2年か」と思う一方「まだ2年」という想いもあります。
お寺のため、檀家さんの為に、少しでも良い活動にしていきたいと思っています。

GWの中日は、酉の市関係のことで、さる方にお会いしてきました。詳しいことはもう少し決まってからじゃないと、皆さんにもご報告できないのですが(のどまで出かかっているけど・・・笑)、ともあれ、「お寺」という枠組みを超えた、社会的にも意義のある活動をしよう、という流れです。

実は、4月の一ヶ月は、ほとんどこのために傾注していたと言っても過言ではない日々でした。ブログ放置もこれが原因だったかもしれません。でも、とりあえずは一山越えた感があります。

さてまた昨日は、泰明が住職をさせていただいている豊川市のお寺(満目院)関係の会議でした。いつも思うのは、西光寺と比べて「やっぱり土地柄ってあるなぁ」ということと、「どこにでもすごい(立派な)坊さんはいるなぁ」ということです。
会議以上に、懇親会でのお話に深く感銘を受ける泰明でした。

今日は今日で、これから青年会の会議です。さっきの記念大会についての会議。
何しろ、とても大きなホールですし、記念講演には、『ほんまでっかTV』でおなじみの武田邦彦教授もお招きしているので、司会の責任は重大です(笑)


長々すみません。
最後に、護持会役員会が終わった後、会長さんから頂いた言葉を書いておきます。
「あなたが『お寺は葬式や法事だけの場所じゃない。生きている人、縁ある人に、より充実した人生を送って欲しい』と思っていろいろ活動したい気持ちはよく分かるよ。
 ちょっとずつだよ、泰明さん。コツコツと継続していくことさ」

本当に有り難いです。西光寺は檀家さんに恵まれているなぁ、としみじみ思います。 合掌

  


Posted by 泰明@西光寺 at 17:07
Comments(1)ぼ~さんの日常お寺のこと
 

2013年04月21日

坊さんにとって、檀家さんは身体の一部

ここんところ、対僧侶的な記事が多くて、このブログの最初の意図(檀家さんに読んで頂く)からちょっと外れてきました・・・(汗)初心に戻っていきたいと思います。

さて、ちょっと前ですが、私の好きなテレビ番組『プロフェッショナル -仕事の流儀-』がリスタートしました。(でも以前と何も変わっていないような気が・・・)

記念すべき第一回目は、恵比寿にあるロブションのお店、シャトーレストラン ジョエル・ロブションのメートル、宮崎辰(みやざきしん)さんでした。
宮崎さん、長身でイケメン!まだ36歳にも関わらず、サービス世界コンテストで優勝したこともあるそう。

メートル、詳しくはメートル・ド・テルはサービスのプロ。それもただお皿を出すにとどまらず、サプライズのイベントやさりげない接客、お客さんの心に近づく会話や、おもてなしで”最高の時間”を提供するプロ。

実はとても食いしん坊の泰明は、本当に幸運なことにこの”心から感動できる接客”、サービススタッフの方に巡り会ったことがあります。
”良きレストランには良きソワニエ(お客)がいて、良きレストランは良きソワニエを育てる”というような言葉を聞いたことがあります。
レストランは、ただ”食べ物を食べる”以上の場所だと私は思っています。正直、それに見合うほどのレストランは多くはありませんが、だからこそ、こうしたサービスという仕事自体にスポットが当たるのは、良いことかもしれませんね。
(余談ですが、そもそも現在のようにシェフがお皿に盛りつけまでしてお客に提供するのはそんなに古い話ではなく、更に前の時代はサービスの方が切り分け、取り分けをしていたそうです。今以上に、重要で、かつ広範な知識や技術が求められていた時代なのかも)

で、その宮崎さんも全てが順風満帆だった訳ではありません。
現在のレストランにヘッドハンティングされた直後、その重圧から精神的に追い込まれ、体調を崩します。ロブションと言えば、フレンチの神様、そしてこのレストランはミシュラン東京発刊以来、ずっと3つ星を保ち続けています(たしか)
このような環境でプレッシャーと戦いながら仕事をすることの大変さは、想像に難くない。


目の前が真っ暗になり、頭から滝のような汗が出る。薬を処方されますが、”全てを捨てて逃げたい”、”電車に飛び込んだら楽になれる”とまで思ったそうです。

しかし、そんな状況を救ってくれたのも、またお客さんでした。

お客さんの「ありがとう。」「また来るよ」の一言が何よりの薬。どんなに体調が悪くてもお客さんの前でなら平気でいられた。そうした中で、気付いたことがあったそうです。それは・・・

「お客さんは自分の身体の一部」「お客さんがいるから、自分は生かされている」

いい言葉だなぁ、と思いました。

僧侶にとっては、檀家さん、或いは有縁の方が「お客」になるのかもしれません。

ずっと前、私は葬儀や法事に明け暮れる毎日がどうして好きになれず、忸怩たる想いがありました。もちろん、葬式仏教と揶揄されることにもです。でも、実際に、葬儀をつとめさせてもらって、お施主様が泣きながら「おつとめしてもらえて良かったです」と言ってくださったり、「ありがたいご葬儀でした」とお褒めの言葉をいただいたり、そうしたことで、ちょっとずつ、自分の考えが変わっていくことに気がつきました。

 ”僧侶のつとめって何だろうか?””葬式ってそもそも何だろう?いつから始まってたんだろう?”、あるいは”僧侶がご遺族にできることは何だろうか?”という原点に立ち返り、考えるきっかけにもなりました。悲しむ人々を目の前に、ほってはおけない、何とかしたい、これが僧侶の慈悲心であり、葬儀の原点なのかもしれません。

さて、曹洞宗の大本山總持寺をお開きになられた瑩山禅師(けいざんぜんじ)という方が、『洞谷記』「尽未来際置文」の中でこのようなことを書かれています。

「仏の言葉に『信仰に篤い檀家がいれば、仏教が滅びることはない』、『檀家を敬うことは、仏にするように(敬い)しなさい』また『仏教の基本である三学(戒定慧)も、みな檀家の力があってはじめて完成されるのである』ともある。
だから僧侶と檀家が、それこそ水と魚のように和合し、同じ家に住む肉親のように、お互いに信頼し合い、仏教をともに敬う気持ちを忘れてはいけない」(原漢文・訳は泰明)


檀家さんと共に在るお寺。これは私の理想でもあります。
このお言葉を胸に、日々進んでいきたいと思います。 合掌。
  


Posted by 泰明@西光寺 at 15:30
Comments(4)
 

2013年04月13日

『未来の住職塾』を終えて(後編:覚悟)

あらら、気がついたら『住職塾』第二期が始まってました。急いでアップしなきゃ・・・。

前編・中編からの続き、最後の後編です。

さて、1年の住職塾を通して、実は最後まで通奏低音のように私に鳴り響いていたのは「お寺とは何か?」「僧侶とは何か?」という問いでした。
もう少し詳しく申し上げるのならば「お寺とは、そもそもどのような起源を持ち、どのような機能を持ってきたのか?」ということと「曹洞宗の僧侶として生きるという事は自分にとってどのようなことになるのか?」ということです。

はずかしながら、今、その2つながらはっきりと答えが出ているわけではありません。(まぁ一生掛かっても出ないかもしれない)

今から一年少し前、この住職塾が始まる前、最初のプレセミナー@光明寺に参加したときのこと。
セミナー冒頭で、真宗学の泰斗 金子大榮先生が書かれた『住職道』による住職の心得が紹介されました。(余談ですが、近代の眼蔵家として夙に有名な岸澤惟安老師と親交があったようです)

即ち、住職とは「仏祖崇敬>学問>教化」であると。

私は、心から「その通り」とは思ったものの、覚悟(=道心と言い換えてもいいかもしれません)が脆弱なばかりに、理念としては受け入れることができるのですが、「じゃあ実際どうしたらよいのか?」「やっぱりイベントとかやるべきでは?」とか、要するに表層的なことばかりが気になっておりました。

しかしながら、やや逆説的に聞こえますが、この住職塾を通して、一見、横文字の経営に於けるテクニカルタームやフレームワークを学ばせてもらったことが、結局はこの2つへの「覚悟」を浮き彫りにした結果となりました。
ここでいう覚悟、というのはつまり、お寺や僧侶ということに「深入する」、「受容する」という覚悟。
あるいは「菩提心」というようなニュアンスもあるかもしれません。要は「どんな状況におかれても、やはり曹洞宗の僧侶でいる」という覚悟。

・・・「え?これって当たり前のことじゃない?」「そんな覚悟もなくて、よく坊さんやっていられるね?」
まぁ確かに、そうかもしれません。

ただ、これって口で言うほど簡単なことでもないのかも。少なくとも私にとっては。

「いやいや、それってあんたがお寺の生まれだからでしょ?」

これも確かにそうかもしれません。
では、自ら出家した方が全て良くて、お寺生まれの僧侶は全て悪いのでしょうか?
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻に、戯れでお袈裟をつけた遊女が、ついには発心し得道するという話もあります。

菩提心を発して出家することを誠に尊いことです。
では、菩提心を発すことだけで良いのでしょうか?1回発動することで完了でしょうか?
その観点から行くと、お寺生まれの人間には、一生掛かっても「まともな僧侶」になれない、と言われているような気がしてしまいます。

また、世俗的な”やる気”に満ちあふれているのが、理想の僧侶でしょうか?

私自身は、「自分が僧侶としてやりたいこと」を大見得切って言うことに、ちょっと違和感があります。
別に悪いことではないと思うのです。
ただ、「お坊さんとしてやりたいこと」を大きく言うと、「自分が”お坊さん”という虎の皮を借りて、やりたいことを正当化しているだけ」という、自分のいやらしさが目についてしまうのです。(これは私だけだと思うけど・・・)

何故こんな風に思えてしまうのか・・・。たぶん、次の話にヒントがあるんだと思います。

+++

いきなり話は変わります。
今年のお正月くらいだったと記憶しておりますが、NHK『プロフェッショナル-仕事の流儀-』で、楽焼の当代 楽吉左右衛門さんが特集されていました。私個人的に(詳しくはありませんが)その歴代の作品、もちろん当代も含めて、が、とても好きなので食い入るように見ておりました。
その中で、非常に印象的な言葉がありました。

曰く「自分の焼き物は、”伝統”と”革新”とが振り子のようになっている。両方があることで、進んでいる」

つまり、吉左右衛門さんの作品って、東京芸大の彫刻科出身ということもあってか、非常に屹立とした感じ、空間を拒絶するような孤高の造形があります。一方で、伝統的な楽焼も見事に踏襲されている。どちらかだけではダメで、どちらもあるから進化している。

まったく、この通りかもしれません。
付言すれば、もし振り子のようなら、実は伝統と革新には境界線があまり意味をなさず、もしかしたら、その概念すらも”とりたたて騒ぐほどのことでもなくなる”のかもしれません。
さりとて僅かにでも軌跡外れれば、振り子の運動ではなくなる。一毫でも外れれば、すでに「楽焼」ではなくなる。
肝要なのは、”振り子になること”。
まさに、以心伝心というか、師や仏祖の行履(あんり=生き様)をそっくり受け継いだとき、そして歩みを始めたときに、好むと好まざると「革新」がはじまる。

じゃあ、”革新”ばかりが目に入り、心にちらつく自分に、はたして”伝統”はあったのか・・・?
すなわち、僧侶の生き方、祖師の行履を学んでいたのか?

本当に偶然ですが、住職塾と同時に『正法眼蔵』の講義を東京に受けに行き始めました。
当時は言語化できなくても、漠然としたイメージがあったのかもしれません。
結果的に自分にとって誠にラッキーだったと思います。もしこれを受けていなければ、住職塾での学びも、もっと表層的なものになっていたかもしれない。また、逆に「一生の学び」を気付かせてくれたのが『正法眼蔵』だったと思います。

+++

で、さっきの話に戻ります。
あまりに有名な一節なので、ご存知の方も多いと思います。
『正法眼蔵』「現成公案」の中に、

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」

あるいはまた
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。・・・」

+++

と言うことで、これは自分への戒めと、もしかしたらこれから受講されるされる方にとってお役に立てるかもしれないので、最後のまとめを書いておきます。

1.仏祖崇敬、道心、彼岸寺風にいえば「菩提心に火をつけろ!」は必須アイテム(笑)

2.自らの頭で考えましょう。実は教えてくれること以上に、考えさせられることの方が多いです(涙)
特に「当たり前」のこととしていることこそ、一番危険な罠です。また、学んだことがそのまま”寺業興隆”に繋がる訳ではありません。お金になるとか人が集まるとか、それ以前に”なぜそうしなければならないのか”を考えないといけません。

3.終わりは始まりです。セミナーは終われど、お寺の、そして僧侶としての歩みはこれからです。実行してはじめて意味をなします。共に学ぶ仲間です。そのご縁と行動が何より尊いことです。


・・・口では偉そうなことばっかり言って、実際何にもできてない泰明・・・猛省ですface07

(未来の住職塾に関しての感想は以上です。本当に乱文を最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。これはあくまで小原泰明個人の意見ですので、どうぞその点だけご了解ください。このセミナーで出逢えた全ての方に感謝です。 南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧 合掌)
  


Posted by 泰明@西光寺 at 17:02
Comments(0)ぼ~さんの日常仏教のこと
 

2013年04月08日

今日は坊さんの「クリスマス」?!

今日は僧侶にとっての「クリスマス」!!

・・・え?!何のこと?と訝しげられましたか?

今日は、ブッダ、つまりお釈迦様のお誕生日とされる日です。
西光寺でも、花御堂(はなみどう)という”赤ちゃんのお釈迦さんをまつる”お堂をたてて、お祝いします。
お像には甘茶をかけてお参りします。

で、先週末。花まつりを記念して、特にお子さんに楽しんで頂けるように「甘茶のディーバッグ+ぬりえセット」を準備し、お持ち頂けるようにセットしたのですが・・・↓


そう、あの天気でお参りの方はほとんど来られず(涙)ですから、たくさ~~~~~ん余っています。

まだお参り頂いていない方は是非!!

いつも同じ事を書いていますが、この「花まつり」(誕生日)と12/8の「成道会」(悟りを開いた日)と2/15の「涅槃会」(亡くなった日)の3つの日は「三仏忌」(さんぶっき)といい、大切な日です。

西光寺では、この三仏忌に『大佛頂萬行首楞嚴陀羅尼』(略して楞嚴咒)というお経を読むのですが・・・泰明はおよそ年に3回しか読まないので、舌カミカミ・・・。永平寺時代は夏の特別修行期間(夏安居、といいます)にて毎日読んでいたので、何とも思わなかったんですが・・・
まったく、修行が足りん!!!
  


Posted by 泰明@西光寺 at 14:53
Comments(2)仏教のこと