2011年04月12日

仏教Q&A お供え物ってどうしてるんですか?

<ご質問>
位牌堂とかにお供えされた数々のお品…かなり沢山になると思いますが、あれってどうしてるんですか?
まんじゅう、せんべいが多いと思いますが、当然食べきれないと思います。
特にお彼岸、お盆の時期などは…檀家の世話役(?)に分けるんですか?
それとも…
むか~~し聞いた事があるのが「あーゆう物を引き取ってくれる業者がいる」
ホントのところどーですか?




<回答>
基本的にお供えは、仏前に供えた後にありがたくいただいています。
食べ物で食べきれない量の場合は、親族や近所の方におすそわけさせてもらうこともあります。
またお盆やお彼岸などでお手伝いいただいた方にもおわけすることもあります。

お供えを引き取ってくれる業者さんについては聞いたことないですね・・・。ホントにあるんですかね?ってか儲かるのかなぁ?(笑)  


Posted by 泰明@西光寺 at 13:02
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2011年04月01日

仏教Q&A 総代さんって?・・・

エイプリルフールだからって、真面目に答えていないわけではありません。今日も真面目にお答えしています(笑)
<ご質問>
お寺の総代さんっていったい何をやっているのですか? またどのように選ぶのですか? お寺によって総代さんの人数は違うのですか? 発言力とかあるのですか?
立候補したら総代さんになれるのですか?


<お答え>
こりゃまた難しいです(笑)

まず「総代」というのは、平たく言えば、そのお寺の檀家さんの中の長(リーダー的存在)でして、通常複数名で構成されているのが一般的ですが、そこに権限・選出方法などの統一的なルール(どのお寺も共通するルール)はありません。

つまり、お寺によって全然違うし、「総代」というのはある意味俗称なので、その名称を使わないお寺もあると思います。他には「世話人」「世話役」「護持会役員」などの名称があって、それらにきちんと役割・責務の区分があるお寺もあれば、そうでないお寺もあります。

で、ですね。ごく一般的に言って、総代さんのやっていることは、お寺からの案内文を各檀家さんに配ったり、お彼岸やお盆の準備(飾りつけとか食事の用意とか)をお寺でしたり、その時に受付をしたりしています。
選出方法は・・・よく分かりません。すみません。立候補のお寺もあれば、校区のように各地区が決まっていてそこから1名選出とかもあります。ですので、人数もお寺によって違います。

それから会議(総会)の回数もお寺によって違うので、発言力も・・・どうなんでしょうか?それもまちまちだと思います。
ただ、お檀家さんの中で”責任役員”という役をされている方は、実質的にお寺の運営(収支など)へ発言・決定権があります。これは宗教法人法で決められているもので、お寺に限らず神社など、全宗教法人それぞれにその”責任役員”がいらっしゃいます。前述の「総代」「世話人」「世話役」などの俗称と違って、これは法律で定められている役名です。

今回は曖昧なお答えばかりで、もうしわけないです。「総代」というのが、どういう方を指しているのか、それ自体が既にお寺によって違うので、お答えするのも難しいのです。再度ご質問があったら、何なりとお申し付けください。  
タグ :豊橋お寺


Posted by 泰明@西光寺 at 12:39
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2011年03月11日

仏教Q&A 坊さん、肉食っていいのか?

今回も”非常に身近だけど、ホントはどうなの?”と思える、骨のある(?)ご質問をいただきました。

<ご質問>
和尚様って肉、魚、食べても良いんでしょうか? 生きているものは食べちゃいけないというイメージが強いので教えてください。
また、我々仏教徒が口にしてはいけない物ってあるのでしょうか?


<お答え>
これはまた一口に言い切れない、難しい問題です。要するに「僧侶は精進料理しか食べちゃダメなの?」ということだと思うんですが、最初に私の結論から申し上げます。
「どんなものでも、感謝してありがたくいただきます。ただ、お肉やお魚を食べられない期間もあります。ただし、すべての僧侶が一律同じではありません。」
それから仏教徒の方へは「口にしてはいけないものは特にありません。食べ物はありがたくいただきましょう」です。

**************

なんだそれ?という突っ込み大歓迎なんですが、どうしてこんなにへっぴり腰の曖昧模糊(?)な結論なのでしょうか。ちょっと歴史的に見てみます。

(*長くなってしまったので、「追記」にしました。ご興味のある方はどうぞご覧ください)
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Posted by 泰明@西光寺 at 20:20
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2011年03月10日

仏教Q&A キリスト教の方より

(*今回は、キリスト教の信者さんよりご質問をいただきました。極めてハイレベルな質問のため、このようにお答えが遅くなりましたこと、この場をお借りしてお詫び申し上げます。)

<ご質問>
(前略)
 自分の普段の営みが限られた範囲の「常識」であることに気付きます。聖書も教会も初めてという人が教会に行くと、とても緊張していますし、周りのクリスチャンが滑らかに行うことを自分はできないという心細さを感じます。そこでその人の心細さや緊張を緩和するような配慮ができるかどうかが、クリスチャンの信仰が内実の伴ったものかを見分ける指標になります。内側の論理を前提にして「わかっているでしょ」という態度で外の人に接しても、相手は話をしようとしません。ですから、自分の見方を一時的に凍結する、かっこに入れるのです。クリスチャンが「伝道」と言った時の言葉が相手に通じないものになるのは、自分たちの見方を相対化していないからではないか、それが私が常々感じている疑問です。


<お答え>
正直、どのようにお答えするのが良いのか、あれこれと考えておりました。
しかし、結局、私は曹洞宗の僧侶ですので「仏教的に」しかお答えできないことに気が付きました(笑)

そこで、今回は敢えて専門用語をしっかり織り込みつつお話をしていきたいと思います。

(↓全文はコチラからどうぞ)  続きを読む


Posted by 泰明@西光寺 at 12:40
Comments(4)仏教 Q&A
 

2011年03月08日

仏教Q&A 他の宗派へ

<ご質問>
私は曹洞宗ですが他の宗派に変わる事はできるのですか?


<お答え>
檀信徒として、ということでしょうか?それならできます。前にも書きました「お寺を変わりたい」をご覧ください。その際、曹洞宗→曹洞宗も勿論できますし、曹洞宗→他の宗派もできます。要は移転先のお寺次第ということになります。



<ご質問>
たとえば小原僧侶が「曹洞宗なんかやっとれん! 浄土真宗に変わる!!」
なんて事は許されるの?


<お答え>
これ、面白いご質問ですね(笑)
結論は、「曹洞宗は辞められるけど、他の宗派に成れるかどうかは不明」です。

難しく言うと、西光寺は法律上、宗教法人であるんですが、宗教法人にも「包括宗教法人」と「被包括宗教法人」とあります。前者は「曹洞宗」などの宗派、後者は西光寺などの”実際に包括されている”寺院を指しています。

いま、西光寺が曹洞宗をやめたい場合は、所定の手続きを経て曹洞宗を脱退する形になりますが、もちろん住職の一存では決められません。宗教法人は(寺院に限らず、神社や教会も)責任役員という、決定機関があります。代表役員を住職(これは決められている)とし、そのほか数名で責任役員は構成されます。通常、他の僧侶が1~2名と檀家さんの代表2~3名程度で構成されることが一般的です(お寺によって違います)

その責任役員が集まる会議(責任役員会議)において、こうした宗教法人の「俗」なる面の運営を決定しているのです。

それで、他の宗派になれるかどうかよく分からないのは、各宗派でその所定の手続きが違うからです。曹洞宗では「新寺設立承認申請書」というのがあり、その申請が通れば”曹洞宗の寺院”になれるのですが、他の宗派ではどうなっているのか不明です。

なんにせよ、簡単にはできません(笑)  


Posted by 泰明@西光寺 at 12:34
Comments(2)仏教 Q&A
 

2011年03月06日

仏教Q&A お寺離れとか

今日は仏教、とりわけ僧侶に熱い激励(と叱咤)を送ってくださる方からのご質問です。

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1.仏教は私たちを救ってくれますか?

私の答えは「Yes, We can !」です(古っ?!)
”完璧”に、とか”確実に”、とか”全ての人を”、とかは残念ながら非力な今の私には言えません。しかし、救いを求める人には全力で当たりたいと思いますし、仏教の思想・哲学は私たちが思っているより、ずっと広大で深遠で面白くて、そして柔軟です。2500年も続いてる思想だから、絶対に何かあるはずだと感じています。
それに、”自分だけではなく、みんなも救う”というのが大乗仏教の真髄ですもん。自分だけ修行して、すまし顔で悟っていればいい、という考えは大乗仏教にはないのです。



2.私たちの身近な僧侶は私たちを本当に救ってくれますか?
私、思うんですが、みなさんの周りにいる”身近な僧侶”こそ、最大のエフォートを発揮してくれると思います。
確かに、逆の立場だったら、お寺の本堂やお墓にお参りするのは簡単でも、住職とか僧侶に話しかけるのって、相当勇気のいることだと思うんです。ものすごい壁もあるような気がするし、話しかけていい存在かどうかも疑わしいですよね(笑)いや、お気持ちは分かるんです。
でも、私がこうしてブログをやっていることも「みなさんとお話をしたい。みんなで一緒に考えたい」ということの証左なんです。それに私は超能力者じゃないので、みなさんの悩みを”話もせずに”言い当てるなど不可能です(笑)だから会話が必要なんです。仏教は万能薬ではありません。「このお経を読みさえすれば、たちどころに解決!」なんてことはありません。この気持ちを分かってほしいです!

そんでもって、みなさんも”初めの一歩”を踏み出してみませんか?案外、拍子抜けするくらい簡単なことかもしれませんよ。



3.なぜ寺離れなんておこっていると思いますか?

さまざま原因はあります。
一番みなさんにとって考えやすく、しっくりくるのが、「僧侶の出番が葬式と法事しかない」ことだろうと思います。確かにそれもありましょう。しかし、『クローズアップ現代』で上田教授も言っておられましたが、「私たちは、本当にお寺と向き合ってきたのでしょうか」ということです。何も今までのお寺を100%弁護しようとか、そんな思いで書いているのではありません。しかし、問題というのは常に一方のみから発生するものなのか、ということです。

それから、すごく単純に思えますが、いわゆるサラリーマンの方は忙しすぎます。そして、あまりにも自由になる時間が少ない。これは私の同世代の友人たちと話していて、とみに思います。一週間にたった1日だけの休日を(あれば良い方ですが)、お寺だけのために費やすことなど、できるはずもないと私ですら思います。逆に自営業が多かった時代は、「ちょっと2時間くらいお寺に行ってくるわ」で済む話です。ですが、それができる方が限られてきているような気もします。

まだあります。ライフスタイルの多様化もあげられます。つまり、数世代前のお寺の役割というのは、今の比ではなく、何かの会合があり、お祭りのようなイベントあり、寺子屋あり、歌舞伎などの芸能あり、そしてお寺自身のイヴェント的法要も多数あったと考えられます。そうした「複合的」なお寺が、どんどん細分化され、切りとられ、今や「歌舞伎をお寺で見よう」とはだれも考えないと思います。

卑近な例で言うならば、現在のファッション雑誌を見てください。一世代前ならば、必ず読めば流行のアイテム(色とか、コートの種類とか)が分かるようになっていました。しかし、現在、私が読んでもはっきりわかる流行のアイテムというのは皆無です。すでにモノが溢れすぎて、何をやっても焼き直しに感じられます。そして、”みんながおっかける”流行など、どこにもないのです。そういう意味で個性化・多様化している中で、お寺だけがその波から免れる、なんてことは夢物語です。

ついでに共同体の崩壊も・・・って、めちゃ長くなりそうです。
まだまだ原因はあると思いますが、とりあえずこの辺で。



4.僧侶の仕事って何ですか?

これ、ちょっとはっきり申し上げたいのですが、私自身、僧侶は「仕事ではない」と考えています。
これには理由があって、昔、英会話教室に通っていたときのことです。
ネイディヴの先生とのフリートークの中で、「お寺の暮らし」みたいなことを話していたときです。私が" That's my work. "みたいなことを言ったら、その先生が真剣な顔で、「いいか、君のやっていることは仕事とは言わない。聖職者なんだから、それは仕事ではない」みたいなことを言われて、すごく衝撃を受けたのを覚えています。

振り返ってみると、私自身、僧侶の法事や葬式や掃除やその他諸々を「仕事」と認識したことはほとんどなく、例外的に、豊川稲荷での4年間の職務(「泰明はどこにいる?」をご参照ください)くらいを「仕事」と見做しておりました。

では何なのかと言えば、ある意味「ライフワーク」というか、ほとんど「人生」そのもの、みたいなものだと考えています。

みなさんはビックリされるのを分かって敢えて言いますが、私の中では「葬式や法事を全くしなくても僧侶と言えるが、坐禅や作務(=掃除)などを仏道と考えてやらないのであれば、いくら葬式をやっていてもそれは僧侶ではない」と思っています。

「え~~~葬式やらなくても僧侶なの?」と質問が殺到しそうですが、考えてみても、葬式をやらないお寺って歴史の中で、もちろん今に至るまで多くあります。(現在では應典院とか他にも)極端に言えば、”葬式、その中だけに”仏教があるわけではないのです。

つまり、生き様そのものが僧侶であり、かっこよく言えば、「生きざまを見せるのが仕事」と言えるのかもしれません。(カッコいいかな?・・・汗)



5.僧侶から見て良い僧侶ってどんな人?
げげげ・・・最後に超難問が来ました。(←と、ここまで打ってから、答えが出ずに数日悩む泰明・・・face07

う~~ん、完璧な人格がこの世にいないように、たぶん”良い”にもさまざまな面があってしかるべきだと思います。法話が上手い僧侶、字が上手い僧侶、国際的に活躍している僧侶、地元で愛される僧侶、口下手だけど、淡々と坐禅をしている僧侶・・・まぁ、いろいろいらっしゃるから仏教って面白いんだと思います。

ですがねぇ、僧侶から見てって言われると・・・どうなんだろ。

たぶん人それぞれ個性があるように、僧侶それぞれも求めるものが違うので、一概に「こういう人」とは言えないのですが・・・

私はやっぱり「謙虚」で「柔和」な人かなぁと思います。

謙虚な人って自分に厳しい人が多いし(だから”俺が俺が!”人間にはならない)、かつ「柔和」というのは、人の痛みや苦しみや喜びを敏感に感じられる、相当な懐の深さを持っていないと、身につかない気がします。
ある意味、本当に仏教を学び(だからこういうタイプの僧侶に仏教の質問をすると、自分に分かるレベルに落として答えてくれる)、本当に仏道を行じてきた人は、両方を併せ持つような気もしています。だからこそ、僧侶にも、そして間違いなくお檀家さんにも人気があるんじゃないか、と密かに考えています。
そんな僧侶になりたいです。


今回は、質問者さんの僧侶に対する思いのたけを感じられるような、素晴らしい質問でした。一僧侶として、いただいたご質問を肝に銘じて、これからも参りたいと思います。合掌  


Posted by 泰明@西光寺 at 21:18
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