2012年09月25日

『未来の住職塾』VS「現職研修会」2

前回のつづき

後編:僧侶は果たして”人びとのこころ”と向き合っているのか

前回からのつづきで、現職研修会、統一テーマの「人びとのこころに向き合うために」についてである。
この講義はロールプレイを行った。具体的には”相談者がお寺に来て、その相談を住職が聞く”という設定で、僧侶がそれぞれ”相談者””受け手(住職)””観察者(会話に入らずにやりとりを見守る)”の3役に分かれて演じる(=ロールプレイ)、というもの。

その”相談者の設定=シナリオ”を見て、私は驚愕した。

●シナリオ1
・男性:20歳(大学生)
・父親(52歳)を5年前に亡くした。
・父親は殆ど休みなく働いていた。
・出勤途中に自死してしまった。
・明らかに過労状態であった。
・当日の朝は、特に疲れた顔をしていたが、特に声もかけなかったこともあり、後悔している。


以上が設定である。
私が驚いたのは2点。

1つ目は、シナリオの荒さ(よく言えば自由度が高い)である。
このシナリオ、よ~く見ると、相談者の男性については、たったの2点しか書かれていない。
すなわち、20歳の大学生であること、それから、父親に声を掛けなかったことを後悔しているという2点である。

これではまず相談者の役をやる方が困る。情報量が少なすぎる。話すことがない。どんな風に感じて、何を本当に悩んでいるのか、父親とは疎遠だったのか、どこに住んでいてどんな会社に勤めていたのか、心を通わせたくても人物像が全く浮かび上がってこない。

同時に、受け手=話を聞く住職役も大変である。相談する方も自分の気持ちや置かれた状況が分かっていないのに、答えるなんて土台無理な話。

これでは「人びとのこころと向き合うために」以前の問題で、その”こころ”すら設定できていない。当然向き合えない。
「向き合うために」と言うなら、人びとのこころを正しく理解しようとするのが最優先ではないか。

ここで私が思い出したのは「未来の住職塾」で行った”ペルソナ作り”というもの。
ここでいうペルソナ(ゲームじゃないよ・・・古!)とは、企業が商品を開発する際に、統計のデータを使った平均的な数値を元にするのではなく、仮想の人物を仕立て(と言っても、実在に限りなく近い=実在しててもおかしくない)、その人物が”購入するであろう”製品を作り出す、その”仮想の人物像”のことである。

これをお寺に置き換え、あるセグメントにお寺との縁を持ってもらうイベントや製品やプロジェクト(企業でいうなら商品)を考える、というグループワークをした。つまり、ペルソナを作り(=衆生を想定し)、商品(=仏縁)を作るのである。

ちなみに、その時の我がチームは(Wさん、Mくんありがとう!)かなり気合いが入っており(笑)、作り上げたペルソナは、およそ以下の通り。

<ペルソナ>
・都内の有名私立大学工学部に在籍(エリート意識あり)する男性大学生
・両親は会社を経営。自宅は目黒。三階建ての持ち家で、家の車はポルシェ(金銭的に裕福)
・交際している彼女は、私立他大学で、テニスサークル(実態は遊びサークルだけど)で知り合う
・プログラミング能力に長け、研究室では他のゼミ生に一目置かれる存在
・主にSNSで友人たちと連絡をとり、BBQが好き
・しかし色白で背はすらっと高く、ブランドも好きなおしゃれさん
・尊敬する先輩から新興宗教に勧誘され、一応は入信しているようだが、根はさめている+友人たちに勧めたりもしない(宗教を信じるなんて、心が弱いのね的な上から目線を持っている)
・口癖は”夢はないんだよね”というニヒルな面も。だが、心底は”夢をみたい”と思っている
・バイトは塾講師+コンビニ
・・・以下略


いや、実際我がチームは数ヶ月前まで大学生という方がいたので、ありえる設定に近づけたのだが、とにかく細かい。こんな細かくしなければならない理由は、それほど人の気持ちは推し量りがたいものだから。(であればこそ、より深い理解をしようとするのは慈悲心ではないか。)もちろん、この人物が仮にいたとして、実際に話す機会があったとしても、である。

だからこそ、この人物ならどう考え、どう悩み、どう喜ぶか、見えない相手に心を配るのである。
『未来の住職塾』VS「現職研修会」2

・・・話がだいぶ脱線したが、戻して驚愕の理由2点目。
2つ目は、そもそも相談内容の前に、この設定が”相談にくる存在なのか”、ということ。

私はどうしてもそれが気になり、グループディスカッションの時、同じグループの7人の僧侶に聞いてみた。「あなたのお寺で、20歳の大学生が相談に来たことがありますか?自死された方の遺族と接したことがありますか?」と。
前者でイエスと答えたのは0人、後者は1人だった。

正直に告白すると、これを聞いたとき、かなりの虚脱感に襲われた。

僧侶は悩める方の”受け皿”???それは本当にそうなのか?それって僧侶が勝手にそう思っているだけじゃないの??

図らずも、これが現実だ、と突きつけられた気がした。
結局、我々には、人びとがお寺へ相談にお越し下さるのかどうか、という根本的な視点が抜け落ち”困ったら普通はお寺に相談来るでしょ”という何か僧侶の増上慢的な考えが見え隠れする。

かつて曹洞宗総合研究センターが発刊した『僧侶』だったと思うが、そこに「信頼できる人は?」という一般人へのアンケート結果があったと記憶している(間違っていたらご指摘を)
そこでは、”僧侶は信頼できる”と答えた人のパーセンテージは一桁だった。しかも”占い師”に僅かに負けていた(もしくは勝っていたかも・・・しかしながら同じ一桁だった気がする)

同グループの僧侶にたずねたという先の数字が図らずも表しているように、相談されたことがない、接したことがないのなら、シンパシーを感じられなくて当然かもしれない。

だったら、まず考えるべきは、”相談される信頼関係”を檀家さまと構築するのが先決ではないのか。或いは檀家のみならず”相談するに足る人物”になることが。(もし『未来の住職塾』なら、間違いなく真っ先にここを考えるだろう)

もちろん、これは言うほど簡単ではないことは明白だ。、”相談に乗る”ことより”相談される関係になる”方が、遙かに多くの手順を必要とし、遙かに多く自分自身の生き方、在り方が問われる。
(前述と矛盾するし、本論から逸れるので詳述はしませんが、”頼られる僧侶”に結果としてなるのは良いと思う。でもそれを目指すのも、また間違いです)

実際、この時のグループディスカッションでも、50代とおぼしき先輩僧侶が「現職研修では、講師の先生が偉いこと言うけど、それを実践できるかどうか(がとても難しく、不安だ) 第一、ウチのお寺がある村も田舎だが”神も仏もあるものか!”とくってかかってくる檀家もおるし。そういう人に接するだけでも大変だ」と漏らしておられた。

私も日々現実の檀務(=業務)でイヤと言うほど理解しているし、実際落ち込んだり、打ちひしがれている。「ああ言えば良かった」、「あれは言うべきではなかった」などの反省は毎日である。
特に、今は護持会活動を中心として、お寺からの案内や、イベント、そして組織の構築に非力ながら力を入れているので、余計に強く思うことが多い。
(最近、私と同世代のイケメン檀家さんに”泰明さんは、ホントに高いコミュニケーション能力をお持ちですよね”と感心されたが、内心はこんなもんです・・・とほほ)

それはテクニックとか、理論などといった次元ではないからだ。

でも、である。1ミリでも相手が心を開いてくださる可能性があるのならば、その努力を怠ってはいけないような気がする。

それは決して距離という”結果”の問題などではなく、どこまでも歩み寄ろうとして続ける行為そのものなのだから。そしてその行為こそが、いわゆる慈悲の心がおこす利他行(りたぎょう)であり、仏教を単なる理論や思想ではなく、仏道という実践たらしめているものではなかろうか。


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Posted by 泰明@西光寺 at 17:51
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