2013年04月21日
坊さんにとって、檀家さんは身体の一部
ここんところ、対僧侶的な記事が多くて、このブログの最初の意図(檀家さんに読んで頂く)からちょっと外れてきました・・・(汗)初心に戻っていきたいと思います。
さて、ちょっと前ですが、私の好きなテレビ番組『プロフェッショナル -仕事の流儀-』がリスタートしました。(でも以前と何も変わっていないような気が・・・)
記念すべき第一回目は、恵比寿にあるロブションのお店、シャトーレストラン ジョエル・ロブションのメートル、宮崎辰(みやざきしん)さんでした。
宮崎さん、長身でイケメン!まだ36歳にも関わらず、サービス世界コンテストで優勝したこともあるそう。
メートル、詳しくはメートル・ド・テルはサービスのプロ。それもただお皿を出すにとどまらず、サプライズのイベントやさりげない接客、お客さんの心に近づく会話や、おもてなしで”最高の時間”を提供するプロ。
実はとても食いしん坊の泰明は、本当に幸運なことにこの”心から感動できる接客”、サービススタッフの方に巡り会ったことがあります。
”良きレストランには良きソワニエ(お客)がいて、良きレストランは良きソワニエを育てる”というような言葉を聞いたことがあります。
レストランは、ただ”食べ物を食べる”以上の場所だと私は思っています。正直、それに見合うほどのレストランは多くはありませんが、だからこそ、こうしたサービスという仕事自体にスポットが当たるのは、良いことかもしれませんね。
(余談ですが、そもそも現在のようにシェフがお皿に盛りつけまでしてお客に提供するのはそんなに古い話ではなく、更に前の時代はサービスの方が切り分け、取り分けをしていたそうです。今以上に、重要で、かつ広範な知識や技術が求められていた時代なのかも)
で、その宮崎さんも全てが順風満帆だった訳ではありません。
現在のレストランにヘッドハンティングされた直後、その重圧から精神的に追い込まれ、体調を崩します。ロブションと言えば、フレンチの神様、そしてこのレストランはミシュラン東京発刊以来、ずっと3つ星を保ち続けています(たしか)
このような環境でプレッシャーと戦いながら仕事をすることの大変さは、想像に難くない。

目の前が真っ暗になり、頭から滝のような汗が出る。薬を処方されますが、”全てを捨てて逃げたい”、”電車に飛び込んだら楽になれる”とまで思ったそうです。
しかし、そんな状況を救ってくれたのも、またお客さんでした。
お客さんの「ありがとう。」「また来るよ」の一言が何よりの薬。どんなに体調が悪くてもお客さんの前でなら平気でいられた。そうした中で、気付いたことがあったそうです。それは・・・
「お客さんは自分の身体の一部」「お客さんがいるから、自分は生かされている」
いい言葉だなぁ、と思いました。
僧侶にとっては、檀家さん、或いは有縁の方が「お客」になるのかもしれません。
ずっと前、私は葬儀や法事に明け暮れる毎日がどうして好きになれず、忸怩たる想いがありました。もちろん、葬式仏教と揶揄されることにもです。でも、実際に、葬儀をつとめさせてもらって、お施主様が泣きながら「おつとめしてもらえて良かったです」と言ってくださったり、「ありがたいご葬儀でした」とお褒めの言葉をいただいたり、そうしたことで、ちょっとずつ、自分の考えが変わっていくことに気がつきました。
”僧侶のつとめって何だろうか?””葬式ってそもそも何だろう?いつから始まってたんだろう?”、あるいは”僧侶がご遺族にできることは何だろうか?”という原点に立ち返り、考えるきっかけにもなりました。悲しむ人々を目の前に、ほってはおけない、何とかしたい、これが僧侶の慈悲心であり、葬儀の原点なのかもしれません。
さて、曹洞宗の大本山總持寺をお開きになられた瑩山禅師(けいざんぜんじ)という方が、『洞谷記』「尽未来際置文」の中でこのようなことを書かれています。
檀家さんと共に在るお寺。これは私の理想でもあります。
このお言葉を胸に、日々進んでいきたいと思います。 合掌。
さて、ちょっと前ですが、私の好きなテレビ番組『プロフェッショナル -仕事の流儀-』がリスタートしました。(でも以前と何も変わっていないような気が・・・)
記念すべき第一回目は、恵比寿にあるロブションのお店、シャトーレストラン ジョエル・ロブションのメートル、宮崎辰(みやざきしん)さんでした。
宮崎さん、長身でイケメン!まだ36歳にも関わらず、サービス世界コンテストで優勝したこともあるそう。
メートル、詳しくはメートル・ド・テルはサービスのプロ。それもただお皿を出すにとどまらず、サプライズのイベントやさりげない接客、お客さんの心に近づく会話や、おもてなしで”最高の時間”を提供するプロ。
実はとても食いしん坊の泰明は、本当に幸運なことにこの”心から感動できる接客”、サービススタッフの方に巡り会ったことがあります。
”良きレストランには良きソワニエ(お客)がいて、良きレストランは良きソワニエを育てる”というような言葉を聞いたことがあります。
レストランは、ただ”食べ物を食べる”以上の場所だと私は思っています。正直、それに見合うほどのレストランは多くはありませんが、だからこそ、こうしたサービスという仕事自体にスポットが当たるのは、良いことかもしれませんね。
(余談ですが、そもそも現在のようにシェフがお皿に盛りつけまでしてお客に提供するのはそんなに古い話ではなく、更に前の時代はサービスの方が切り分け、取り分けをしていたそうです。今以上に、重要で、かつ広範な知識や技術が求められていた時代なのかも)
で、その宮崎さんも全てが順風満帆だった訳ではありません。
現在のレストランにヘッドハンティングされた直後、その重圧から精神的に追い込まれ、体調を崩します。ロブションと言えば、フレンチの神様、そしてこのレストランはミシュラン東京発刊以来、ずっと3つ星を保ち続けています(たしか)
このような環境でプレッシャーと戦いながら仕事をすることの大変さは、想像に難くない。

目の前が真っ暗になり、頭から滝のような汗が出る。薬を処方されますが、”全てを捨てて逃げたい”、”電車に飛び込んだら楽になれる”とまで思ったそうです。
しかし、そんな状況を救ってくれたのも、またお客さんでした。
お客さんの「ありがとう。」「また来るよ」の一言が何よりの薬。どんなに体調が悪くてもお客さんの前でなら平気でいられた。そうした中で、気付いたことがあったそうです。それは・・・
「お客さんは自分の身体の一部」「お客さんがいるから、自分は生かされている」
いい言葉だなぁ、と思いました。
僧侶にとっては、檀家さん、或いは有縁の方が「お客」になるのかもしれません。
ずっと前、私は葬儀や法事に明け暮れる毎日がどうして好きになれず、忸怩たる想いがありました。もちろん、葬式仏教と揶揄されることにもです。でも、実際に、葬儀をつとめさせてもらって、お施主様が泣きながら「おつとめしてもらえて良かったです」と言ってくださったり、「ありがたいご葬儀でした」とお褒めの言葉をいただいたり、そうしたことで、ちょっとずつ、自分の考えが変わっていくことに気がつきました。
”僧侶のつとめって何だろうか?””葬式ってそもそも何だろう?いつから始まってたんだろう?”、あるいは”僧侶がご遺族にできることは何だろうか?”という原点に立ち返り、考えるきっかけにもなりました。悲しむ人々を目の前に、ほってはおけない、何とかしたい、これが僧侶の慈悲心であり、葬儀の原点なのかもしれません。
さて、曹洞宗の大本山總持寺をお開きになられた瑩山禅師(けいざんぜんじ)という方が、『洞谷記』「尽未来際置文」の中でこのようなことを書かれています。
「仏の言葉に『信仰に篤い檀家がいれば、仏教が滅びることはない』、『檀家を敬うことは、仏にするように(敬い)しなさい』また『仏教の基本である三学(戒定慧)も、みな檀家の力があってはじめて完成されるのである』ともある。
だから僧侶と檀家が、それこそ水と魚のように和合し、同じ家に住む肉親のように、お互いに信頼し合い、仏教をともに敬う気持ちを忘れてはいけない」(原漢文・訳は泰明)
檀家さんと共に在るお寺。これは私の理想でもあります。
このお言葉を胸に、日々進んでいきたいと思います。 合掌。
2013年04月13日
『未来の住職塾』を終えて(後編:覚悟)
あらら、気がついたら『住職塾』第二期が始まってました。急いでアップしなきゃ・・・。
前編・中編からの続き、最後の後編です。
さて、1年の住職塾を通して、実は最後まで通奏低音のように私に鳴り響いていたのは「お寺とは何か?」「僧侶とは何か?」という問いでした。
もう少し詳しく申し上げるのならば「お寺とは、そもそもどのような起源を持ち、どのような機能を持ってきたのか?」ということと「曹洞宗の僧侶として生きるという事は自分にとってどのようなことになるのか?」ということです。
はずかしながら、今、その2つながらはっきりと答えが出ているわけではありません。(まぁ一生掛かっても出ないかもしれない)
今から一年少し前、この住職塾が始まる前、最初のプレセミナー@光明寺に参加したときのこと。
セミナー冒頭で、真宗学の泰斗 金子大榮先生が書かれた『住職道』による住職の心得が紹介されました。(余談ですが、近代の眼蔵家として夙に有名な岸澤惟安老師と親交があったようです)
即ち、住職とは「仏祖崇敬>学問>教化」であると。
私は、心から「その通り」とは思ったものの、覚悟(=道心と言い換えてもいいかもしれません)が脆弱なばかりに、理念としては受け入れることができるのですが、「じゃあ実際どうしたらよいのか?」「やっぱりイベントとかやるべきでは?」とか、要するに表層的なことばかりが気になっておりました。
しかしながら、やや逆説的に聞こえますが、この住職塾を通して、一見、横文字の経営に於けるテクニカルタームやフレームワークを学ばせてもらったことが、結局はこの2つへの「覚悟」を浮き彫りにした結果となりました。
ここでいう覚悟、というのはつまり、お寺や僧侶ということに「深入する」、「受容する」という覚悟。
あるいは「菩提心」というようなニュアンスもあるかもしれません。要は「どんな状況におかれても、やはり曹洞宗の僧侶でいる」という覚悟。
・・・「え?これって当たり前のことじゃない?」「そんな覚悟もなくて、よく坊さんやっていられるね?」
まぁ確かに、そうかもしれません。
ただ、これって口で言うほど簡単なことでもないのかも。少なくとも私にとっては。
「いやいや、それってあんたがお寺の生まれだからでしょ?」
これも確かにそうかもしれません。
では、自ら出家した方が全て良くて、お寺生まれの僧侶は全て悪いのでしょうか?
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻に、戯れでお袈裟をつけた遊女が、ついには発心し得道するという話もあります。
菩提心を発して出家することを誠に尊いことです。
では、菩提心を発すことだけで良いのでしょうか?1回発動することで完了でしょうか?
その観点から行くと、お寺生まれの人間には、一生掛かっても「まともな僧侶」になれない、と言われているような気がしてしまいます。
また、世俗的な”やる気”に満ちあふれているのが、理想の僧侶でしょうか?
私自身は、「自分が僧侶としてやりたいこと」を大見得切って言うことに、ちょっと違和感があります。
別に悪いことではないと思うのです。
ただ、「お坊さんとしてやりたいこと」を大きく言うと、「自分が”お坊さん”という虎の皮を借りて、やりたいことを正当化しているだけ」という、自分のいやらしさが目についてしまうのです。(これは私だけだと思うけど・・・)
何故こんな風に思えてしまうのか・・・。たぶん、次の話にヒントがあるんだと思います。

+++
いきなり話は変わります。
今年のお正月くらいだったと記憶しておりますが、NHK『プロフェッショナル-仕事の流儀-』で、楽焼の当代 楽吉左右衛門さんが特集されていました。私個人的に(詳しくはありませんが)その歴代の作品、もちろん当代も含めて、が、とても好きなので食い入るように見ておりました。
その中で、非常に印象的な言葉がありました。
曰く「自分の焼き物は、”伝統”と”革新”とが振り子のようになっている。両方があることで、進んでいる」
つまり、吉左右衛門さんの作品って、東京芸大の彫刻科出身ということもあってか、非常に屹立とした感じ、空間を拒絶するような孤高の造形があります。一方で、伝統的な楽焼も見事に踏襲されている。どちらかだけではダメで、どちらもあるから進化している。
まったく、この通りかもしれません。
付言すれば、もし振り子のようなら、実は伝統と革新には境界線があまり意味をなさず、もしかしたら、その概念すらも”とりたたて騒ぐほどのことでもなくなる”のかもしれません。
さりとて僅かにでも軌跡外れれば、振り子の運動ではなくなる。一毫でも外れれば、すでに「楽焼」ではなくなる。
肝要なのは、”振り子になること”。
まさに、以心伝心というか、師や仏祖の行履(あんり=生き様)をそっくり受け継いだとき、そして歩みを始めたときに、好むと好まざると「革新」がはじまる。
じゃあ、”革新”ばかりが目に入り、心にちらつく自分に、はたして”伝統”はあったのか・・・?
すなわち、僧侶の生き方、祖師の行履を学んでいたのか?
本当に偶然ですが、住職塾と同時に『正法眼蔵』の講義を東京に受けに行き始めました。
当時は言語化できなくても、漠然としたイメージがあったのかもしれません。
結果的に自分にとって誠にラッキーだったと思います。もしこれを受けていなければ、住職塾での学びも、もっと表層的なものになっていたかもしれない。また、逆に「一生の学び」を気付かせてくれたのが『正法眼蔵』だったと思います。
+++
で、さっきの話に戻ります。
あまりに有名な一節なので、ご存知の方も多いと思います。
『正法眼蔵』「現成公案」の中に、
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」
あるいはまた
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。・・・」
+++
と言うことで、これは自分への戒めと、もしかしたらこれから受講されるされる方にとってお役に立てるかもしれないので、最後のまとめを書いておきます。
1.仏祖崇敬、道心、彼岸寺風にいえば「菩提心に火をつけろ!」は必須アイテム(笑)
2.自らの頭で考えましょう。実は教えてくれること以上に、考えさせられることの方が多いです(涙)
特に「当たり前」のこととしていることこそ、一番危険な罠です。また、学んだことがそのまま”寺業興隆”に繋がる訳ではありません。お金になるとか人が集まるとか、それ以前に”なぜそうしなければならないのか”を考えないといけません。
3.終わりは始まりです。セミナーは終われど、お寺の、そして僧侶としての歩みはこれからです。実行してはじめて意味をなします。共に学ぶ仲間です。そのご縁と行動が何より尊いことです。
・・・口では偉そうなことばっかり言って、実際何にもできてない泰明・・・猛省です
(未来の住職塾に関しての感想は以上です。本当に乱文を最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。これはあくまで小原泰明個人の意見ですので、どうぞその点だけご了解ください。このセミナーで出逢えた全ての方に感謝です。 南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧 合掌)
前編・中編からの続き、最後の後編です。
さて、1年の住職塾を通して、実は最後まで通奏低音のように私に鳴り響いていたのは「お寺とは何か?」「僧侶とは何か?」という問いでした。
もう少し詳しく申し上げるのならば「お寺とは、そもそもどのような起源を持ち、どのような機能を持ってきたのか?」ということと「曹洞宗の僧侶として生きるという事は自分にとってどのようなことになるのか?」ということです。
はずかしながら、今、その2つながらはっきりと答えが出ているわけではありません。(まぁ一生掛かっても出ないかもしれない)
今から一年少し前、この住職塾が始まる前、最初のプレセミナー@光明寺に参加したときのこと。
セミナー冒頭で、真宗学の泰斗 金子大榮先生が書かれた『住職道』による住職の心得が紹介されました。(余談ですが、近代の眼蔵家として夙に有名な岸澤惟安老師と親交があったようです)
即ち、住職とは「仏祖崇敬>学問>教化」であると。
私は、心から「その通り」とは思ったものの、覚悟(=道心と言い換えてもいいかもしれません)が脆弱なばかりに、理念としては受け入れることができるのですが、「じゃあ実際どうしたらよいのか?」「やっぱりイベントとかやるべきでは?」とか、要するに表層的なことばかりが気になっておりました。
しかしながら、やや逆説的に聞こえますが、この住職塾を通して、一見、横文字の経営に於けるテクニカルタームやフレームワークを学ばせてもらったことが、結局はこの2つへの「覚悟」を浮き彫りにした結果となりました。
ここでいう覚悟、というのはつまり、お寺や僧侶ということに「深入する」、「受容する」という覚悟。
あるいは「菩提心」というようなニュアンスもあるかもしれません。要は「どんな状況におかれても、やはり曹洞宗の僧侶でいる」という覚悟。
・・・「え?これって当たり前のことじゃない?」「そんな覚悟もなくて、よく坊さんやっていられるね?」
まぁ確かに、そうかもしれません。
ただ、これって口で言うほど簡単なことでもないのかも。少なくとも私にとっては。
「いやいや、それってあんたがお寺の生まれだからでしょ?」
これも確かにそうかもしれません。
では、自ら出家した方が全て良くて、お寺生まれの僧侶は全て悪いのでしょうか?
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻に、戯れでお袈裟をつけた遊女が、ついには発心し得道するという話もあります。
菩提心を発して出家することを誠に尊いことです。
では、菩提心を発すことだけで良いのでしょうか?1回発動することで完了でしょうか?
その観点から行くと、お寺生まれの人間には、一生掛かっても「まともな僧侶」になれない、と言われているような気がしてしまいます。
また、世俗的な”やる気”に満ちあふれているのが、理想の僧侶でしょうか?
私自身は、「自分が僧侶としてやりたいこと」を大見得切って言うことに、ちょっと違和感があります。
別に悪いことではないと思うのです。
ただ、「お坊さんとしてやりたいこと」を大きく言うと、「自分が”お坊さん”という虎の皮を借りて、やりたいことを正当化しているだけ」という、自分のいやらしさが目についてしまうのです。(これは私だけだと思うけど・・・)
何故こんな風に思えてしまうのか・・・。たぶん、次の話にヒントがあるんだと思います。

+++
いきなり話は変わります。
今年のお正月くらいだったと記憶しておりますが、NHK『プロフェッショナル-仕事の流儀-』で、楽焼の当代 楽吉左右衛門さんが特集されていました。私個人的に(詳しくはありませんが)その歴代の作品、もちろん当代も含めて、が、とても好きなので食い入るように見ておりました。
その中で、非常に印象的な言葉がありました。
曰く「自分の焼き物は、”伝統”と”革新”とが振り子のようになっている。両方があることで、進んでいる」
つまり、吉左右衛門さんの作品って、東京芸大の彫刻科出身ということもあってか、非常に屹立とした感じ、空間を拒絶するような孤高の造形があります。一方で、伝統的な楽焼も見事に踏襲されている。どちらかだけではダメで、どちらもあるから進化している。
まったく、この通りかもしれません。
付言すれば、もし振り子のようなら、実は伝統と革新には境界線があまり意味をなさず、もしかしたら、その概念すらも”とりたたて騒ぐほどのことでもなくなる”のかもしれません。
さりとて僅かにでも軌跡外れれば、振り子の運動ではなくなる。一毫でも外れれば、すでに「楽焼」ではなくなる。
肝要なのは、”振り子になること”。
まさに、以心伝心というか、師や仏祖の行履(あんり=生き様)をそっくり受け継いだとき、そして歩みを始めたときに、好むと好まざると「革新」がはじまる。
じゃあ、”革新”ばかりが目に入り、心にちらつく自分に、はたして”伝統”はあったのか・・・?
すなわち、僧侶の生き方、祖師の行履を学んでいたのか?
本当に偶然ですが、住職塾と同時に『正法眼蔵』の講義を東京に受けに行き始めました。
当時は言語化できなくても、漠然としたイメージがあったのかもしれません。
結果的に自分にとって誠にラッキーだったと思います。もしこれを受けていなければ、住職塾での学びも、もっと表層的なものになっていたかもしれない。また、逆に「一生の学び」を気付かせてくれたのが『正法眼蔵』だったと思います。
+++
で、さっきの話に戻ります。
あまりに有名な一節なので、ご存知の方も多いと思います。
『正法眼蔵』「現成公案」の中に、
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」
あるいはまた
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。・・・」
+++
と言うことで、これは自分への戒めと、もしかしたらこれから受講されるされる方にとってお役に立てるかもしれないので、最後のまとめを書いておきます。
1.仏祖崇敬、道心、彼岸寺風にいえば「菩提心に火をつけろ!」は必須アイテム(笑)
2.自らの頭で考えましょう。実は教えてくれること以上に、考えさせられることの方が多いです(涙)
特に「当たり前」のこととしていることこそ、一番危険な罠です。また、学んだことがそのまま”寺業興隆”に繋がる訳ではありません。お金になるとか人が集まるとか、それ以前に”なぜそうしなければならないのか”を考えないといけません。
3.終わりは始まりです。セミナーは終われど、お寺の、そして僧侶としての歩みはこれからです。実行してはじめて意味をなします。共に学ぶ仲間です。そのご縁と行動が何より尊いことです。
・・・口では偉そうなことばっかり言って、実際何にもできてない泰明・・・猛省です

(未来の住職塾に関しての感想は以上です。本当に乱文を最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。これはあくまで小原泰明個人の意見ですので、どうぞその点だけご了解ください。このセミナーで出逢えた全ての方に感謝です。 南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧 合掌)
2013年04月08日
今日は坊さんの「クリスマス」?!
今日は僧侶にとっての「クリスマス」!!
・・・え?!何のこと?と訝しげられましたか?
今日は、ブッダ、つまりお釈迦様のお誕生日とされる日です。
西光寺でも、花御堂(はなみどう)という”赤ちゃんのお釈迦さんをまつる”お堂をたてて、お祝いします。
お像には甘茶をかけてお参りします。
で、先週末。花まつりを記念して、特にお子さんに楽しんで頂けるように「甘茶のディーバッグ+ぬりえセット」を準備し、お持ち頂けるようにセットしたのですが・・・↓

そう、あの天気でお参りの方はほとんど来られず(涙)ですから、たくさ~~~~~ん余っています。
まだお参り頂いていない方は是非!!
いつも同じ事を書いていますが、この「花まつり」(誕生日)と12/8の「成道会」(悟りを開いた日)と2/15の「涅槃会」(亡くなった日)の3つの日は「三仏忌」(さんぶっき)といい、大切な日です。
西光寺では、この三仏忌に『大佛頂萬行首楞嚴陀羅尼』(略して楞嚴咒)というお経を読むのですが・・・泰明はおよそ年に3回しか読まないので、舌カミカミ・・・。永平寺時代は夏の特別修行期間(夏安居、といいます)にて毎日読んでいたので、何とも思わなかったんですが・・・
まったく、修行が足りん!!!
・・・え?!何のこと?と訝しげられましたか?
今日は、ブッダ、つまりお釈迦様のお誕生日とされる日です。
西光寺でも、花御堂(はなみどう)という”赤ちゃんのお釈迦さんをまつる”お堂をたてて、お祝いします。
お像には甘茶をかけてお参りします。
で、先週末。花まつりを記念して、特にお子さんに楽しんで頂けるように「甘茶のディーバッグ+ぬりえセット」を準備し、お持ち頂けるようにセットしたのですが・・・↓

そう、あの天気でお参りの方はほとんど来られず(涙)ですから、たくさ~~~~~ん余っています。
まだお参り頂いていない方は是非!!
いつも同じ事を書いていますが、この「花まつり」(誕生日)と12/8の「成道会」(悟りを開いた日)と2/15の「涅槃会」(亡くなった日)の3つの日は「三仏忌」(さんぶっき)といい、大切な日です。
西光寺では、この三仏忌に『大佛頂萬行首楞嚴陀羅尼』(略して楞嚴咒)というお経を読むのですが・・・泰明はおよそ年に3回しか読まないので、舌カミカミ・・・。永平寺時代は夏の特別修行期間(夏安居、といいます)にて毎日読んでいたので、何とも思わなかったんですが・・・
まったく、修行が足りん!!!
2013年04月04日
【スピンオフ】住職塾セミナー@東別院での話

住職塾に関する記事を連載しておりますが、ここでスピンオフ記事として、名古屋の東別院にて行われた、住職塾のイントロダクション的講座、『住職塾セミナー』について書きたいと思います。(実はオマケ的に書いていたのですが、結構濃い目の内容になってしまいました・・・笑)
このセミナーは、住職塾に興味のある方を対象とした2時間程度のプレセミナーで、このときは30人ほどの方が来ていました。
本当にたまたまなんですが、私がブログを拝見していた、同じ豊橋市のお寺さんも来られていて、そこで初めてお目にかかれたのでした。もちろん、宗派も違いますし、初対面です。でもこういうご縁が、住職塾らしい(笑)
さて、前回の記事に「来期から講座を担当される素晴らしいあるスタッフの方」について、心底感激したと書きました。
この方は、日本の大手企業のコンサルティングを手がけられ、さらに、誰もが知っている有名IT企業にも籍を置かれていた、超がいっぱいつく(笑)優秀な方です。しかも私と同じ年(?!!)
曰く、
「日本の現状を見てきて、
1.お金が原動力になる時代は終わり(智恵や意欲など無形の価値こそ力)
2.商品やサービスはすぐに陳腐化する
3.「人づくり」に関する社会的機能の衰退
という事を感じた。
自分が、ある仏教系大学のコンサルティングをしていたときに、仏教の可能性に気がついた。仏教がダメになるなら、日本がダメになる。」(超要約してます)
懇親会でも少しお話をさせていただく機会があったのですが、とにかく前職の実情が想像を絶するほど過酷。「よく生きてこられたなぁ」と心配になってしまうほど。でも、このように、日本のある意味トップの方が、仏教の可能性に気がついて下さり、そして賭けてくれている。これって私にとっては、すごく心強いです。つまり、坊さんが「人生お金じゃないですよ。スキルや知識じゃないですよ」と声をからしても「いやいや、社会人経験のない奴に言われたくないわ」みたいに一蹴されてしまうんですよね(涙)
と、いうか、それ以上に、「僧侶・在家」という枠組みの新たなフェーズ(いや、実際のところは新しくもないんだそうですが・・・)、新しい関係性、つまり、”僧侶を養うことで功徳を積み、安心を得る、という本来の役割をもう少し拡大解釈した「僧侶=お寺のよきパートナー、アドバイザー、コンサルタント」”という一歩進んだ関係を提示しつつあるのかも、と内心ではとても期待しております。(詳しく書くと長くなるので、今日は割愛します)
閑話休題。
セミナーの質疑応答の際、”お寺の音楽イベント”についての質問がありました。
それを聞いていた時に、ちょっと思いだしたことがあって。
何というか、「あぁ、やっぱりね」みたいな。実は一年前の光明寺でのプレセミナーでも、内容は違うけれど、音楽イベントに関する質問がでていました。
面白いことに、『未来の住職塾』をやっているうちに、こうした○○イベント的な話って、受講生同士あんまりしなくなるんですよね。何というか、そこの部分にはあまり関心がなくなるというか。
自分でも恥ずかしいことなので、ちょっと表現がうまく出来ないんですが、「お寺のイベント」に対する思いって、受講前は「何かイベントしないと、お寺が衰退してしまう」とか「人が集まらないと」みたいな、要は”変な危機感を募らせた”もので、間違った救いをイベントに求めてしまってました。
言うなれば、イベントは”救世主的機能を持つ、何だか分からないけど強力なアイテム”として見てしまっている。さらに言うなら、イベントをしたことで”今までとは違う”とか”一人でも多く来てくれたら安心”といった、これまた変な満足感がある(苦笑)イベントに使われている、というような。
でも、受講していくうちに、イベントに対する考え方そのものが変化してきて、例えばもしイベントをするのなら(そもそもイベントにウェイトを置いていないので)、仏教的な意味合いや機能、誰に届けたくて、どんな成果があるか、ということに関心が向いてくる。”イベントをまさに仏教の方便として使う”、ようはイベントは、数ある1つの選択肢に過ぎなくなってくる感覚。
これって考えてみれば、至極当たり前で何の不思議もないんですが、やっぱり変な危機感があると、前述のようにおかしな思考に陥ってしまうんですよね(自分のことなので、尚更恥ずかしいですが・・・)と、まぁそういう訳で、イベント救世主論(?)はだれもしなくなる。
で、偶然、拝見していた真言宗のお寺さんが、素晴らしい記事を書かれていました。
http://www.hasedera.net/blog/2013/03/post_319.html
特にココ↓(引用させていただきます)
住職というのは、その縁起に伝えられる開山開基の人々の宗教的なテーマを、より意識的に、自覚的に、選択的に継承し、そのテーマをリフレインし、その動機づけを我が動機として本願を地域社会や時代に向けて具体化し、また個人においてはその本願を生き(ようとす)るのが、責務というか定めなのではないだろうか。
でも、寺づくり、開かれた寺院という言葉が独り歩きして、受けの良い、イベント性のある行事や、あるいは社会参加する仏教(エンゲイジド・ブッディズム)でありたいと急ぐあまりに、本尊の本願とはかけ離れた活動に熱中してしまうとしたら、空疎なことになってしまうと思う。
・・・もう、まったくその通りとしか言いようがない。
敢えて言えば、別に本尊様に限らず、宗旨、開山、開祖と置き換えてもよいのかも、と私は思います。(これすら当たり前ですが・・・)とにかく回り道をして、時間をくって、でも本当に心からこの意見に賛同できるようになったのは、逆に住職塾のお蔭かもしれません。
そもそも”(うちの)お寺じゃなくても一向に差し支えないイベント”なら、はじめからやる必要などないのです。彼岸寺風にいえば「そこに仏教はあるのか?」ということです。
ちょっと矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、"だから今まで通りで良いのだ"とか"新しいことをすべきではない"ということを言いたいのではありません。
その”新しいこと”はもしかしたら仏教的にとても意義在ることで、それが今後何十年続くスタンダードになるようなこともあるでしょう。ただ、私個人にはそのようなエポックメイキングなことを創り出すのは到底無理ですし、そんなことが簡単に生まれるならば、私とは比較にならないほど聡明な僧侶が五万といる訳ですから、とうの昔に誰かが生み出してくれているはずですし…。
お寺、と一口に言っても、機能的なものは一つではありません。一般の方からすれば基本的には「お墓があって法事や葬式をしてもらう場所」だろうと思います。付け加えるならば「観光で行く所」とか。
ただ、私たち僧侶にとっては、それだけではないはずです。聞法の道場だったり、ご祈祷寺だったり、叢林という機能もあるでしょう。
そう考えていくと、そもそも"お寺って何?"という視点からはじめなければならないと私は思っていました。
また、仮にイベントをした場合、「仏教を伝えたい」という気持ちがありますよね。ではその”伝えるべき仏教”は自分にあるか?体現しているのだろうか?ただ教科書を丸暗記したような話をしていないだろうか・・・。
また”何をもって「広まる」ことを意味するのか”とか。
さらに言えば、”仏教を広める”ことがどの範囲、射程で言っているのか?とか。広めることの意義は??
勿論、「梵天勧請」の話もあるし、宗教法人法(第一章1条2「・・・教義を広め、儀式行事を行い・・・」)というのもあるし・・・。でも道元禅師には師匠の如浄禅師から言われた「一箇半箇を接得せよ」って言葉もあったり。
そんな折、出会った文があります。
「はじめて発心するときは、他人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、ただひとすぢに得道をこころざす。かつて国王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり(中略)
しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、仏法の功徳いたれりとよろこぶ。国王大臣の帰依しきりなれば、わがみちの現成とおもへり。これは学道の一魔なり。
あはれむこころわするべからずといふも、よろこぶことなかるべし。」
『正法眼蔵』「谿声山色」巻
本当に、住職塾は考えさせられます(笑)
(蛇足)上記の部分、ラフな現代語訳です。
「(僧侶が)はじめて”出家しよう”との思いを起こすときは、他人のためにすることではなく、まして自分の名誉のためでもない。名誉や名声など求めず、ただひたすらに仏道の成就をこころざす。国王や大臣といった権力者の帰依を期待することなど、まったく思わないものだ。(中略)
しかし、愚かな人は、たとえ出家の心があっても、早々にその志を忘れて、誤って世間の人が尊敬してくれるのをまって、それが仏教の功徳が現れた、とよろこぶ。権力者が帰依してくれたことが、そのまま自分の仏道の達成だと勘違いしてしまう。これは間違っている。権力者をふくめ、世間の人を哀れむ心を忘れてはいけないが、しかし、自分に付き従うことを喜ぶべきではないのである」
2013年04月01日
音を失った作曲家 佐村河内守さん
エイプリルフールに記事をアップするのが躊躇われる泰明です。「つり記事か?」と思われないかが心配で・・・(笑)
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昨夜、NHKの番組で、聴力を失った作曲家、佐村河内氏のドキュメンタリーを放送していた。
ご存知の方が多いと思うが、佐村河内さんは17歳の頃、原因不明の病気を発病し、徐々に聴力を失っていく。
もともと、ピアノやバイオリンなどの英才教育を受け、自身も作曲家を目指していた、そんな時期。
音を失い、絶望の淵にあったが、障碍や病気を持つ子ども達と音楽を通じてのふれあいがきっかけで、徐々に作曲を続けていく。
そして、完成したのが交響曲第一番『Hiroshima』
80分を超える大作である。また、自身も被爆二世ということだ。
現在でも24時間、365日ずっと”轟音”の耳鳴りが続き、それを紛らわすために、一日15種以上の薬を服用しているそう。
それが為か、ときに猛烈な頭痛に襲われ、動くことすらできず、オムツの着用をも余儀なくされる。
また日の光にあたると、頭痛が増幅するようで、自宅も暗幕で覆われ、スタンドライトのみ。また常にサングラスを着用。
作曲方法は、まさに命を削るがごとく。
轟音が鳴り響く頭の中で、それでも音が”降りてこようとする”らしい。机とテーブルとスタンドライトしかない部屋で、瞑想をするかのように佇む氏。耳鳴りの切れ目に見える”音”をつかまえての作曲。しかもアンサンブルはどうするのかといえば、最初の楽器とフレーズを記憶し、その上に別のパートを頭の中で重ねていく。
驚くべき事に、譜面に起こすのは最後の最後。つまり、それまではまったく楽器も、譜面も、PCも使わない。思いついたフレーズを元に、構成を考えるということもしないようだ。
さて、私が最初に受けた印象は”自分が彼の立場なら自死をも考えるかもしれない”ということ。
想像が出来ないほどの世界。音を失う以上に、轟音が鳴り続け、そして身体の問題も抱えている。
生きる希望を次から次へと奪われる。それでも、なお、生きようとする。
「僧侶なのに自死を考えるだと?」と思わないでいただきたい。あくまで自分なら、の話で在り、実際に体験したわけではないのだから。
それにきれい事で言えるような話でもない。”いのちを大切にしましょう”その根拠すら拒絶されるがごとくの世界である。ま、それから考えるのが仏教でもあるが・・・。

番組の後半で、佐村河内氏は東日本大震災のレクイエム(鎮魂歌)を作曲する。
その過程も生々しく撮られていた。
始めに被災地を訪れ、その風景を目の当たりにする。そして横浜の自宅に帰るも、難航し、遅々として作曲ができない。
あるときは、震災で亡くなられた方の膨大な名簿を、点字を読むが如く、一人一人丁寧になぞり、気持ちを汲む。
しかし、できない。
またあるときは夜の公園に出かけるも、曰く「(ここで書くことを)脳が拒絶するようだ」
突然、女川町に向けて車を走らせる。
女川町では、零下2℃、風速10mを超える夜の海岸で、6時間、さまよい歩く。時に、身を切られるような冷たさの海に手を入れて。
最後にはレクイエムが世界的なピアニスト(名前失念)により、演奏される。
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私には音楽的素養がないので、曲をどうこう言えないし、言うつもりもないが、ひとつだけ思ったことがある。
つまり、それは佐村河内氏にとって作曲は「生きることそのもの」であるということ。
これは「生きる原動力が作曲」であることと、大きく意を異にする。作曲をする姿勢が、生きる原動力とは到底思えないほどの苦痛や、苦労が画面を通して伝わってくるからである。であればこそ、作曲することがそのまま生きることである。(少なくともそう見える)
時に、被災者の名簿に目を通し、ぐちゃぐちゃになった車を触り、冷たい海に手を入れる。
こうした行為を作曲と無縁とは考えてはいけない。意味の無いことだと考えてはいけない。
それが彼の作曲であり、ひとしくそれが彼の生き方である。
なぜこうしたことを指摘するかと言えば、私にはそれらの行為が、とても美しい宗教的な行為に見えたからだ。とはいえ、●●教というようなジャンル分けされたものではなく、もっとプリミティブなもの。
”客観的に見れば、紙に書かれたインクの塊である文字を、指でなぞっていくだけ。
冷たい夜の海岸で、手を海につっこむだけ。”
しかし、しかしである。
彼にしてみれば、そうせざるを得ないのである。そうでしか生きられないのである。逆に言えば、だからこそ生きている。
先ほどの”いのちを大切に”という浮薄な意思を遙かに超え往く、もっとざらついた、むき出しの”生”。
そこには”生きたい””生きたくない”とか、哀れみとか激励とか、そうした二項対立の概念を乗り越えて、厳然と存在する”生”
それを垣間見た気がした。
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私も僧侶として、スタイルは違えど、そうした生き方をしていきたいものだなぁ、と反省しきりの夜でした。
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昨夜、NHKの番組で、聴力を失った作曲家、佐村河内氏のドキュメンタリーを放送していた。
ご存知の方が多いと思うが、佐村河内さんは17歳の頃、原因不明の病気を発病し、徐々に聴力を失っていく。
もともと、ピアノやバイオリンなどの英才教育を受け、自身も作曲家を目指していた、そんな時期。
音を失い、絶望の淵にあったが、障碍や病気を持つ子ども達と音楽を通じてのふれあいがきっかけで、徐々に作曲を続けていく。
そして、完成したのが交響曲第一番『Hiroshima』
80分を超える大作である。また、自身も被爆二世ということだ。
現在でも24時間、365日ずっと”轟音”の耳鳴りが続き、それを紛らわすために、一日15種以上の薬を服用しているそう。
それが為か、ときに猛烈な頭痛に襲われ、動くことすらできず、オムツの着用をも余儀なくされる。
また日の光にあたると、頭痛が増幅するようで、自宅も暗幕で覆われ、スタンドライトのみ。また常にサングラスを着用。
作曲方法は、まさに命を削るがごとく。
轟音が鳴り響く頭の中で、それでも音が”降りてこようとする”らしい。机とテーブルとスタンドライトしかない部屋で、瞑想をするかのように佇む氏。耳鳴りの切れ目に見える”音”をつかまえての作曲。しかもアンサンブルはどうするのかといえば、最初の楽器とフレーズを記憶し、その上に別のパートを頭の中で重ねていく。
驚くべき事に、譜面に起こすのは最後の最後。つまり、それまではまったく楽器も、譜面も、PCも使わない。思いついたフレーズを元に、構成を考えるということもしないようだ。
さて、私が最初に受けた印象は”自分が彼の立場なら自死をも考えるかもしれない”ということ。
想像が出来ないほどの世界。音を失う以上に、轟音が鳴り続け、そして身体の問題も抱えている。
生きる希望を次から次へと奪われる。それでも、なお、生きようとする。
「僧侶なのに自死を考えるだと?」と思わないでいただきたい。あくまで自分なら、の話で在り、実際に体験したわけではないのだから。
それにきれい事で言えるような話でもない。”いのちを大切にしましょう”その根拠すら拒絶されるがごとくの世界である。ま、それから考えるのが仏教でもあるが・・・。

番組の後半で、佐村河内氏は東日本大震災のレクイエム(鎮魂歌)を作曲する。
その過程も生々しく撮られていた。
始めに被災地を訪れ、その風景を目の当たりにする。そして横浜の自宅に帰るも、難航し、遅々として作曲ができない。
あるときは、震災で亡くなられた方の膨大な名簿を、点字を読むが如く、一人一人丁寧になぞり、気持ちを汲む。
しかし、できない。
またあるときは夜の公園に出かけるも、曰く「(ここで書くことを)脳が拒絶するようだ」
突然、女川町に向けて車を走らせる。
女川町では、零下2℃、風速10mを超える夜の海岸で、6時間、さまよい歩く。時に、身を切られるような冷たさの海に手を入れて。
最後にはレクイエムが世界的なピアニスト(名前失念)により、演奏される。
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私には音楽的素養がないので、曲をどうこう言えないし、言うつもりもないが、ひとつだけ思ったことがある。
つまり、それは佐村河内氏にとって作曲は「生きることそのもの」であるということ。
これは「生きる原動力が作曲」であることと、大きく意を異にする。作曲をする姿勢が、生きる原動力とは到底思えないほどの苦痛や、苦労が画面を通して伝わってくるからである。であればこそ、作曲することがそのまま生きることである。(少なくともそう見える)
時に、被災者の名簿に目を通し、ぐちゃぐちゃになった車を触り、冷たい海に手を入れる。
こうした行為を作曲と無縁とは考えてはいけない。意味の無いことだと考えてはいけない。
それが彼の作曲であり、ひとしくそれが彼の生き方である。
なぜこうしたことを指摘するかと言えば、私にはそれらの行為が、とても美しい宗教的な行為に見えたからだ。とはいえ、●●教というようなジャンル分けされたものではなく、もっとプリミティブなもの。
”客観的に見れば、紙に書かれたインクの塊である文字を、指でなぞっていくだけ。
冷たい夜の海岸で、手を海につっこむだけ。”
しかし、しかしである。
彼にしてみれば、そうせざるを得ないのである。そうでしか生きられないのである。逆に言えば、だからこそ生きている。
先ほどの”いのちを大切に”という浮薄な意思を遙かに超え往く、もっとざらついた、むき出しの”生”。
そこには”生きたい””生きたくない”とか、哀れみとか激励とか、そうした二項対立の概念を乗り越えて、厳然と存在する”生”
それを垣間見た気がした。
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私も僧侶として、スタイルは違えど、そうした生き方をしていきたいものだなぁ、と反省しきりの夜でした。