2012年06月04日
『未来の住職塾』に思うこと
急に湿度があがり、いよいよ入梅といった感がありますね。
iPhone4sを買おうか買うまいか、真剣に悩む泰明です・・・。(他に悩みがないのか)
さて、怒濤の5月後半も過ぎ、何となく一息ついています。今日は久しぶりにいくつかの書物(道元禅師撰『典座教訓』、AsahiGlobe、岸沢惟安老師『典座教訓講話』などなど)を読んだりしています。岸沢老師の典座教訓、素晴らしく綿密で(いや、もともと綿密ですが)、老婆心の至りと言ったご講話。正直、『学道用心集』の提唱ですら飲み込めないことが多々あり、『正法眼蔵』に至っては、なおさらに、ですが、この『典座教訓』に関しては、レイアウトも良いのか、大変親切な提唱であります。
えーと、いきなり話は変わりますが、『未来の住職塾』について、少し思うことを述べてみたいと思います。
『未来の住職塾』って何?という方は→まずコチラ
先月下旬に第1回目(全6回)が開催されました。受講してすぐにこのセミナーについて感想やら思うことを書かなかったのは、書かなかったと言うより、うまく気持ちの整理がつかず“書けなかった”というのが本心。
結論的に言えば、“このセミナーと「新しい仏教」に対する過度の期待への自己抑制心”が始まる前からあったのです。たぶん、それと実際のセミナーの内容、それから受講生の方々との会話の中で生まれる気持ちとが混在していた。
どういう意味かと申しますと・・・。
例えば、現在、“僧職系男子”という言葉がはやったり『美坊主図鑑』という本が売れていたりします。それは悪いことだとは思えません。
その裏側には、“今までの僧侶像からの脱皮、或いは破壊”という明確なイメージがあります。葬式や法事をするだけの僧侶、外車を乗り回したりする僧侶、難しい教義の話をして周りを困惑させる僧侶、夜な夜な遊び歩く僧侶。みなさんの中には、多かれ少なかれ、こうしたイメージ(というか偏見)がおありかと思います。(ついでに、“悪い僧侶像”というのは、果たして本当なのか、本当だとして、それは全ての僧侶に適応される事象なのか、という一般人に対する批判もわいてきます。)
逆にそのイメージを打破するために、音楽のイベントをやったり、寺コン(お寺で合コン)をやってみたり、要するに“抹香臭くない、ポップなイベント”が取り沙汰されています。
これも別に悪いことだとは思えません。
が、しかし、まず第一に“それらはお寺でやる必要があるのか”もっと言えば、“そこに仏教はあるのか?”ということが疑問です。
更に踏み込めば、先のセミナーでも「お寺にたくさんの人が来てくれるようにしたい」と参加者は口々に言います。どうしたら、多くの人がお寺に寄ってくれるようになるか、と真剣に考え、議論します。
けれど、来てくれるくれない以前に、そもそも“たくさんの人が来てくれる”こととはどういうことなのか、もう少し言えば仏教的に善なのかどうなのか、集めることが100%良いことなのか、それから来てくれた方にどのようなアプローチをするのか、つまり檀家にしたいのか、ただ来てくれれば良いのか、仏教の教えを聞いて欲しいのか、イベントの輪を広げて欲しいのか、明確なヴィジョンはありません。
(もちろん、それは各お寺それぞれの事情がありましょうから、一様な答えは存在しないでしょう。)
私が、始まる前から思っていた疑念というのは、それです。明確に申し上げますが、それは、このセミナーに対しての疑念ではなく、自らの信仰心、宗教者の端くれとしての在り方=どう僧侶として生きていきたいか、に対する自問であります。
少なくとも、私に限って言えば、もし例えばイベントでお寺に人が集まる、しかも有り難い事に同世代が多く来た、しかも仏教に関心があるようでいくつかの質問をされた・・・その時に、きちんと仏教の、というか曹洞宗の教えを説けるかどうか、甚だ疑問です。
教えを説くというのは、教科書をオウム返しの様のように話すことではありません。暗記をして、それを諳んじることではない。
資料(お経や祖録=代々の高僧が綴った教えの書)に基づき、自身の信仰心と修行に裏打ちされた話ができるかどうか、本当に疑問です。
結局、通仏教的な、要するに“公約数の最大化”を狙ったような、単純な話にはなりはしないか。もしそれで仏教が事足りるのなら、どうして祖師方(道元禅師だけ、或いは曹洞宗だけ、という狭義の祖師ではなく、広く日本や中国やインドの祖師)は、あれだけの辛苦、労苦を厭わず、ただ仏教の為に生きることができたのか、への答えになりません。
その意味で(最初に申し上げておきますが、他者とか他宗派の批判ではありません)、このセミナーの参加者の中には“このセミナーは非情に斬新だ。新しい仏教の在り方がある。これさえ受講すれば、自ずと人が集まってきて、お寺は安泰だ、”と盲信するかのような過度の期待感が漂っていることが否めませんでした。
まぁそれも別に悪いことだとは思えませんが、お寺を安泰に、つまり安定的な経営をするためだけが僧侶の役目なのか、このセミナーの主眼なのかと、私は思えるのです。そこを疑わない限り、せっかくの充実したセミナーが、単なる“食っていく寺の経営方法”に堕してしまうのではないかと。
かなり批判的に書いていますが、この批判の矛先はセミナーの内容に関してではありません。セミナーの内容自体は、とても充実しています。
しつこいようですが、あくまで、参加する私自身の心を批判的に言っているのです。
そうこうしているうちに、講師の松本師が彼岸寺にこんな記事をアップされていました。
(全文は→コチラ)
***
***
書かずもがな、だけれど、松本師はもうお気づきなんだと思います。
変革、と言う言葉を単純に外的なもの、組織や構造的なもの、と取る以上に、“僧侶の宗教心”という所まで範囲を広げても良いのだろうと思います。だから単なる組織や構造の話ではなく、自らの宗教心が変わっていく、という点も内包して良かろうと思うのです。
その意味で、狭義の“変革=新しい仏教(しかも、我々は”新しい“と定義できるほど、仏教の勉強をしていない)”だけに捕らわれると、文字通り“飛び立つ翼をもがれる”のではないかと危惧します。
・・・これだけ書きちらかしたので、「それじゃあ、『未来の住職塾』なんて受講するなよ!」、と怒られそうですが、そこはそんなに単純な話ではありません。また今度。乱文ご容赦下さい。
iPhone4sを買おうか買うまいか、真剣に悩む泰明です・・・。(他に悩みがないのか)
さて、怒濤の5月後半も過ぎ、何となく一息ついています。今日は久しぶりにいくつかの書物(道元禅師撰『典座教訓』、AsahiGlobe、岸沢惟安老師『典座教訓講話』などなど)を読んだりしています。岸沢老師の典座教訓、素晴らしく綿密で(いや、もともと綿密ですが)、老婆心の至りと言ったご講話。正直、『学道用心集』の提唱ですら飲み込めないことが多々あり、『正法眼蔵』に至っては、なおさらに、ですが、この『典座教訓』に関しては、レイアウトも良いのか、大変親切な提唱であります。
えーと、いきなり話は変わりますが、『未来の住職塾』について、少し思うことを述べてみたいと思います。
『未来の住職塾』って何?という方は→まずコチラ
先月下旬に第1回目(全6回)が開催されました。受講してすぐにこのセミナーについて感想やら思うことを書かなかったのは、書かなかったと言うより、うまく気持ちの整理がつかず“書けなかった”というのが本心。
結論的に言えば、“このセミナーと「新しい仏教」に対する過度の期待への自己抑制心”が始まる前からあったのです。たぶん、それと実際のセミナーの内容、それから受講生の方々との会話の中で生まれる気持ちとが混在していた。
どういう意味かと申しますと・・・。
例えば、現在、“僧職系男子”という言葉がはやったり『美坊主図鑑』という本が売れていたりします。それは悪いことだとは思えません。
その裏側には、“今までの僧侶像からの脱皮、或いは破壊”という明確なイメージがあります。葬式や法事をするだけの僧侶、外車を乗り回したりする僧侶、難しい教義の話をして周りを困惑させる僧侶、夜な夜な遊び歩く僧侶。みなさんの中には、多かれ少なかれ、こうしたイメージ(というか偏見)がおありかと思います。(ついでに、“悪い僧侶像”というのは、果たして本当なのか、本当だとして、それは全ての僧侶に適応される事象なのか、という一般人に対する批判もわいてきます。)
逆にそのイメージを打破するために、音楽のイベントをやったり、寺コン(お寺で合コン)をやってみたり、要するに“抹香臭くない、ポップなイベント”が取り沙汰されています。
これも別に悪いことだとは思えません。
が、しかし、まず第一に“それらはお寺でやる必要があるのか”もっと言えば、“そこに仏教はあるのか?”ということが疑問です。
更に踏み込めば、先のセミナーでも「お寺にたくさんの人が来てくれるようにしたい」と参加者は口々に言います。どうしたら、多くの人がお寺に寄ってくれるようになるか、と真剣に考え、議論します。
けれど、来てくれるくれない以前に、そもそも“たくさんの人が来てくれる”こととはどういうことなのか、もう少し言えば仏教的に善なのかどうなのか、集めることが100%良いことなのか、それから来てくれた方にどのようなアプローチをするのか、つまり檀家にしたいのか、ただ来てくれれば良いのか、仏教の教えを聞いて欲しいのか、イベントの輪を広げて欲しいのか、明確なヴィジョンはありません。
(もちろん、それは各お寺それぞれの事情がありましょうから、一様な答えは存在しないでしょう。)
私が、始まる前から思っていた疑念というのは、それです。明確に申し上げますが、それは、このセミナーに対しての疑念ではなく、自らの信仰心、宗教者の端くれとしての在り方=どう僧侶として生きていきたいか、に対する自問であります。
少なくとも、私に限って言えば、もし例えばイベントでお寺に人が集まる、しかも有り難い事に同世代が多く来た、しかも仏教に関心があるようでいくつかの質問をされた・・・その時に、きちんと仏教の、というか曹洞宗の教えを説けるかどうか、甚だ疑問です。
教えを説くというのは、教科書をオウム返しの様のように話すことではありません。暗記をして、それを諳んじることではない。
資料(お経や祖録=代々の高僧が綴った教えの書)に基づき、自身の信仰心と修行に裏打ちされた話ができるかどうか、本当に疑問です。
結局、通仏教的な、要するに“公約数の最大化”を狙ったような、単純な話にはなりはしないか。もしそれで仏教が事足りるのなら、どうして祖師方(道元禅師だけ、或いは曹洞宗だけ、という狭義の祖師ではなく、広く日本や中国やインドの祖師)は、あれだけの辛苦、労苦を厭わず、ただ仏教の為に生きることができたのか、への答えになりません。
その意味で(最初に申し上げておきますが、他者とか他宗派の批判ではありません)、このセミナーの参加者の中には“このセミナーは非情に斬新だ。新しい仏教の在り方がある。これさえ受講すれば、自ずと人が集まってきて、お寺は安泰だ、”と盲信するかのような過度の期待感が漂っていることが否めませんでした。
まぁそれも別に悪いことだとは思えませんが、お寺を安泰に、つまり安定的な経営をするためだけが僧侶の役目なのか、このセミナーの主眼なのかと、私は思えるのです。そこを疑わない限り、せっかくの充実したセミナーが、単なる“食っていく寺の経営方法”に堕してしまうのではないかと。
かなり批判的に書いていますが、この批判の矛先はセミナーの内容に関してではありません。セミナーの内容自体は、とても充実しています。
しつこいようですが、あくまで、参加する私自身の心を批判的に言っているのです。
そうこうしているうちに、講師の松本師が彼岸寺にこんな記事をアップされていました。
(全文は→コチラ)
***
MBAというのはもちろん役に立つ部分もたくさんあるのだけど、上手に距離をとって付き合わないと、社会変革の旅に飛び立つ翼をもがれるというか、体制側に取り込まれやすくなることがあると思います。
つまりビジネススクールというのは、悪く見れば、変革を志向する人を集めて、変革の方法を教えるふりをしながら、既存の枠組みにはめこんで飼いならし、小さな変革の兵士へと育てつつ、大きな変革への牙を抜いてしまう、そういう側面が少なからずあるように感じました。
***
書かずもがな、だけれど、松本師はもうお気づきなんだと思います。
変革、と言う言葉を単純に外的なもの、組織や構造的なもの、と取る以上に、“僧侶の宗教心”という所まで範囲を広げても良いのだろうと思います。だから単なる組織や構造の話ではなく、自らの宗教心が変わっていく、という点も内包して良かろうと思うのです。
その意味で、狭義の“変革=新しい仏教(しかも、我々は”新しい“と定義できるほど、仏教の勉強をしていない)”だけに捕らわれると、文字通り“飛び立つ翼をもがれる”のではないかと危惧します。
・・・これだけ書きちらかしたので、「それじゃあ、『未来の住職塾』なんて受講するなよ!」、と怒られそうですが、そこはそんなに単純な話ではありません。また今度。乱文ご容赦下さい。
この記事へのコメント
僕も悩んでます・・・
今、4sか、5を待つか・・・
あはは!
でも、真剣です(笑)
今、4sか、5を待つか・・・
あはは!
でも、真剣です(笑)
Posted by 夢助 at 2012年06月05日 23:15
>夢助さん
いや、大事なことですよ(笑)
iPhoneって、結構ディスプレイが小さいんですね。5も幅は変わらず、少し縦に伸びるだけなんだとか。それがマイナスポイントです。
でも、4sはSジョブズの遺作ですからねぇ・・・。
いや、大事なことですよ(笑)
iPhoneって、結構ディスプレイが小さいんですね。5も幅は変わらず、少し縦に伸びるだけなんだとか。それがマイナスポイントです。
でも、4sはSジョブズの遺作ですからねぇ・・・。
Posted by 泰明@西光寺 at 2012年06月06日 08:59
以前西光寺さんの山号をお尋ねした柴田と申します。
伯母のお墓が西光寺さんにあります。
『典座教訓』、私もこの本はいい本だと思います。
先月の24日に私もブログを開設しました。
先ほど、料理の話しを書き、『典座教訓』を挙げました。
http://tokosabu.dosugoi.net/e988528.html
変なレシピ集より、『典座教訓』と、もう一つ挙げるなら『料理の四面体』が料理本の名著だと思っております。
伯母のお墓が西光寺さんにあります。
『典座教訓』、私もこの本はいい本だと思います。
先月の24日に私もブログを開設しました。
先ほど、料理の話しを書き、『典座教訓』を挙げました。
http://tokosabu.dosugoi.net/e988528.html
変なレシピ集より、『典座教訓』と、もう一つ挙げるなら『料理の四面体』が料理本の名著だと思っております。
Posted by 柴田晴廣
at 2017年09月01日 19:00
