2013年04月01日
音を失った作曲家 佐村河内守さん
エイプリルフールに記事をアップするのが躊躇われる泰明です。「つり記事か?」と思われないかが心配で・・・(笑)
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昨夜、NHKの番組で、聴力を失った作曲家、佐村河内氏のドキュメンタリーを放送していた。
ご存知の方が多いと思うが、佐村河内さんは17歳の頃、原因不明の病気を発病し、徐々に聴力を失っていく。
もともと、ピアノやバイオリンなどの英才教育を受け、自身も作曲家を目指していた、そんな時期。
音を失い、絶望の淵にあったが、障碍や病気を持つ子ども達と音楽を通じてのふれあいがきっかけで、徐々に作曲を続けていく。
そして、完成したのが交響曲第一番『Hiroshima』
80分を超える大作である。また、自身も被爆二世ということだ。
現在でも24時間、365日ずっと”轟音”の耳鳴りが続き、それを紛らわすために、一日15種以上の薬を服用しているそう。
それが為か、ときに猛烈な頭痛に襲われ、動くことすらできず、オムツの着用をも余儀なくされる。
また日の光にあたると、頭痛が増幅するようで、自宅も暗幕で覆われ、スタンドライトのみ。また常にサングラスを着用。
作曲方法は、まさに命を削るがごとく。
轟音が鳴り響く頭の中で、それでも音が”降りてこようとする”らしい。机とテーブルとスタンドライトしかない部屋で、瞑想をするかのように佇む氏。耳鳴りの切れ目に見える”音”をつかまえての作曲。しかもアンサンブルはどうするのかといえば、最初の楽器とフレーズを記憶し、その上に別のパートを頭の中で重ねていく。
驚くべき事に、譜面に起こすのは最後の最後。つまり、それまではまったく楽器も、譜面も、PCも使わない。思いついたフレーズを元に、構成を考えるということもしないようだ。
さて、私が最初に受けた印象は”自分が彼の立場なら自死をも考えるかもしれない”ということ。
想像が出来ないほどの世界。音を失う以上に、轟音が鳴り続け、そして身体の問題も抱えている。
生きる希望を次から次へと奪われる。それでも、なお、生きようとする。
「僧侶なのに自死を考えるだと?」と思わないでいただきたい。あくまで自分なら、の話で在り、実際に体験したわけではないのだから。
それにきれい事で言えるような話でもない。”いのちを大切にしましょう”その根拠すら拒絶されるがごとくの世界である。ま、それから考えるのが仏教でもあるが・・・。

番組の後半で、佐村河内氏は東日本大震災のレクイエム(鎮魂歌)を作曲する。
その過程も生々しく撮られていた。
始めに被災地を訪れ、その風景を目の当たりにする。そして横浜の自宅に帰るも、難航し、遅々として作曲ができない。
あるときは、震災で亡くなられた方の膨大な名簿を、点字を読むが如く、一人一人丁寧になぞり、気持ちを汲む。
しかし、できない。
またあるときは夜の公園に出かけるも、曰く「(ここで書くことを)脳が拒絶するようだ」
突然、女川町に向けて車を走らせる。
女川町では、零下2℃、風速10mを超える夜の海岸で、6時間、さまよい歩く。時に、身を切られるような冷たさの海に手を入れて。
最後にはレクイエムが世界的なピアニスト(名前失念)により、演奏される。
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私には音楽的素養がないので、曲をどうこう言えないし、言うつもりもないが、ひとつだけ思ったことがある。
つまり、それは佐村河内氏にとって作曲は「生きることそのもの」であるということ。
これは「生きる原動力が作曲」であることと、大きく意を異にする。作曲をする姿勢が、生きる原動力とは到底思えないほどの苦痛や、苦労が画面を通して伝わってくるからである。であればこそ、作曲することがそのまま生きることである。(少なくともそう見える)
時に、被災者の名簿に目を通し、ぐちゃぐちゃになった車を触り、冷たい海に手を入れる。
こうした行為を作曲と無縁とは考えてはいけない。意味の無いことだと考えてはいけない。
それが彼の作曲であり、ひとしくそれが彼の生き方である。
なぜこうしたことを指摘するかと言えば、私にはそれらの行為が、とても美しい宗教的な行為に見えたからだ。とはいえ、●●教というようなジャンル分けされたものではなく、もっとプリミティブなもの。
”客観的に見れば、紙に書かれたインクの塊である文字を、指でなぞっていくだけ。
冷たい夜の海岸で、手を海につっこむだけ。”
しかし、しかしである。
彼にしてみれば、そうせざるを得ないのである。そうでしか生きられないのである。逆に言えば、だからこそ生きている。
先ほどの”いのちを大切に”という浮薄な意思を遙かに超え往く、もっとざらついた、むき出しの”生”。
そこには”生きたい””生きたくない”とか、哀れみとか激励とか、そうした二項対立の概念を乗り越えて、厳然と存在する”生”
それを垣間見た気がした。
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私も僧侶として、スタイルは違えど、そうした生き方をしていきたいものだなぁ、と反省しきりの夜でした。
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昨夜、NHKの番組で、聴力を失った作曲家、佐村河内氏のドキュメンタリーを放送していた。
ご存知の方が多いと思うが、佐村河内さんは17歳の頃、原因不明の病気を発病し、徐々に聴力を失っていく。
もともと、ピアノやバイオリンなどの英才教育を受け、自身も作曲家を目指していた、そんな時期。
音を失い、絶望の淵にあったが、障碍や病気を持つ子ども達と音楽を通じてのふれあいがきっかけで、徐々に作曲を続けていく。
そして、完成したのが交響曲第一番『Hiroshima』
80分を超える大作である。また、自身も被爆二世ということだ。
現在でも24時間、365日ずっと”轟音”の耳鳴りが続き、それを紛らわすために、一日15種以上の薬を服用しているそう。
それが為か、ときに猛烈な頭痛に襲われ、動くことすらできず、オムツの着用をも余儀なくされる。
また日の光にあたると、頭痛が増幅するようで、自宅も暗幕で覆われ、スタンドライトのみ。また常にサングラスを着用。
作曲方法は、まさに命を削るがごとく。
轟音が鳴り響く頭の中で、それでも音が”降りてこようとする”らしい。机とテーブルとスタンドライトしかない部屋で、瞑想をするかのように佇む氏。耳鳴りの切れ目に見える”音”をつかまえての作曲。しかもアンサンブルはどうするのかといえば、最初の楽器とフレーズを記憶し、その上に別のパートを頭の中で重ねていく。
驚くべき事に、譜面に起こすのは最後の最後。つまり、それまではまったく楽器も、譜面も、PCも使わない。思いついたフレーズを元に、構成を考えるということもしないようだ。
さて、私が最初に受けた印象は”自分が彼の立場なら自死をも考えるかもしれない”ということ。
想像が出来ないほどの世界。音を失う以上に、轟音が鳴り続け、そして身体の問題も抱えている。
生きる希望を次から次へと奪われる。それでも、なお、生きようとする。
「僧侶なのに自死を考えるだと?」と思わないでいただきたい。あくまで自分なら、の話で在り、実際に体験したわけではないのだから。
それにきれい事で言えるような話でもない。”いのちを大切にしましょう”その根拠すら拒絶されるがごとくの世界である。ま、それから考えるのが仏教でもあるが・・・。

番組の後半で、佐村河内氏は東日本大震災のレクイエム(鎮魂歌)を作曲する。
その過程も生々しく撮られていた。
始めに被災地を訪れ、その風景を目の当たりにする。そして横浜の自宅に帰るも、難航し、遅々として作曲ができない。
あるときは、震災で亡くなられた方の膨大な名簿を、点字を読むが如く、一人一人丁寧になぞり、気持ちを汲む。
しかし、できない。
またあるときは夜の公園に出かけるも、曰く「(ここで書くことを)脳が拒絶するようだ」
突然、女川町に向けて車を走らせる。
女川町では、零下2℃、風速10mを超える夜の海岸で、6時間、さまよい歩く。時に、身を切られるような冷たさの海に手を入れて。
最後にはレクイエムが世界的なピアニスト(名前失念)により、演奏される。
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私には音楽的素養がないので、曲をどうこう言えないし、言うつもりもないが、ひとつだけ思ったことがある。
つまり、それは佐村河内氏にとって作曲は「生きることそのもの」であるということ。
これは「生きる原動力が作曲」であることと、大きく意を異にする。作曲をする姿勢が、生きる原動力とは到底思えないほどの苦痛や、苦労が画面を通して伝わってくるからである。であればこそ、作曲することがそのまま生きることである。(少なくともそう見える)
時に、被災者の名簿に目を通し、ぐちゃぐちゃになった車を触り、冷たい海に手を入れる。
こうした行為を作曲と無縁とは考えてはいけない。意味の無いことだと考えてはいけない。
それが彼の作曲であり、ひとしくそれが彼の生き方である。
なぜこうしたことを指摘するかと言えば、私にはそれらの行為が、とても美しい宗教的な行為に見えたからだ。とはいえ、●●教というようなジャンル分けされたものではなく、もっとプリミティブなもの。
”客観的に見れば、紙に書かれたインクの塊である文字を、指でなぞっていくだけ。
冷たい夜の海岸で、手を海につっこむだけ。”
しかし、しかしである。
彼にしてみれば、そうせざるを得ないのである。そうでしか生きられないのである。逆に言えば、だからこそ生きている。
先ほどの”いのちを大切に”という浮薄な意思を遙かに超え往く、もっとざらついた、むき出しの”生”。
そこには”生きたい””生きたくない”とか、哀れみとか激励とか、そうした二項対立の概念を乗り越えて、厳然と存在する”生”
それを垣間見た気がした。
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私も僧侶として、スタイルは違えど、そうした生き方をしていきたいものだなぁ、と反省しきりの夜でした。