2013年04月13日

『未来の住職塾』を終えて(後編:覚悟)

あらら、気がついたら『住職塾』第二期が始まってました。急いでアップしなきゃ・・・。

前編・中編からの続き、最後の後編です。

さて、1年の住職塾を通して、実は最後まで通奏低音のように私に鳴り響いていたのは「お寺とは何か?」「僧侶とは何か?」という問いでした。
もう少し詳しく申し上げるのならば「お寺とは、そもそもどのような起源を持ち、どのような機能を持ってきたのか?」ということと「曹洞宗の僧侶として生きるという事は自分にとってどのようなことになるのか?」ということです。

はずかしながら、今、その2つながらはっきりと答えが出ているわけではありません。(まぁ一生掛かっても出ないかもしれない)

今から一年少し前、この住職塾が始まる前、最初のプレセミナー@光明寺に参加したときのこと。
セミナー冒頭で、真宗学の泰斗 金子大榮先生が書かれた『住職道』による住職の心得が紹介されました。(余談ですが、近代の眼蔵家として夙に有名な岸澤惟安老師と親交があったようです)

即ち、住職とは「仏祖崇敬>学問>教化」であると。

私は、心から「その通り」とは思ったものの、覚悟(=道心と言い換えてもいいかもしれません)が脆弱なばかりに、理念としては受け入れることができるのですが、「じゃあ実際どうしたらよいのか?」「やっぱりイベントとかやるべきでは?」とか、要するに表層的なことばかりが気になっておりました。

しかしながら、やや逆説的に聞こえますが、この住職塾を通して、一見、横文字の経営に於けるテクニカルタームやフレームワークを学ばせてもらったことが、結局はこの2つへの「覚悟」を浮き彫りにした結果となりました。
ここでいう覚悟、というのはつまり、お寺や僧侶ということに「深入する」、「受容する」という覚悟。
あるいは「菩提心」というようなニュアンスもあるかもしれません。要は「どんな状況におかれても、やはり曹洞宗の僧侶でいる」という覚悟。

・・・「え?これって当たり前のことじゃない?」「そんな覚悟もなくて、よく坊さんやっていられるね?」
まぁ確かに、そうかもしれません。

ただ、これって口で言うほど簡単なことでもないのかも。少なくとも私にとっては。

「いやいや、それってあんたがお寺の生まれだからでしょ?」

これも確かにそうかもしれません。
では、自ら出家した方が全て良くて、お寺生まれの僧侶は全て悪いのでしょうか?
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻に、戯れでお袈裟をつけた遊女が、ついには発心し得道するという話もあります。

菩提心を発して出家することを誠に尊いことです。
では、菩提心を発すことだけで良いのでしょうか?1回発動することで完了でしょうか?
その観点から行くと、お寺生まれの人間には、一生掛かっても「まともな僧侶」になれない、と言われているような気がしてしまいます。

また、世俗的な”やる気”に満ちあふれているのが、理想の僧侶でしょうか?

私自身は、「自分が僧侶としてやりたいこと」を大見得切って言うことに、ちょっと違和感があります。
別に悪いことではないと思うのです。
ただ、「お坊さんとしてやりたいこと」を大きく言うと、「自分が”お坊さん”という虎の皮を借りて、やりたいことを正当化しているだけ」という、自分のいやらしさが目についてしまうのです。(これは私だけだと思うけど・・・)

何故こんな風に思えてしまうのか・・・。たぶん、次の話にヒントがあるんだと思います。
『未来の住職塾』を終えて(後編:覚悟)
+++

いきなり話は変わります。
今年のお正月くらいだったと記憶しておりますが、NHK『プロフェッショナル-仕事の流儀-』で、楽焼の当代 楽吉左右衛門さんが特集されていました。私個人的に(詳しくはありませんが)その歴代の作品、もちろん当代も含めて、が、とても好きなので食い入るように見ておりました。
その中で、非常に印象的な言葉がありました。

曰く「自分の焼き物は、”伝統”と”革新”とが振り子のようになっている。両方があることで、進んでいる」

つまり、吉左右衛門さんの作品って、東京芸大の彫刻科出身ということもあってか、非常に屹立とした感じ、空間を拒絶するような孤高の造形があります。一方で、伝統的な楽焼も見事に踏襲されている。どちらかだけではダメで、どちらもあるから進化している。

まったく、この通りかもしれません。
付言すれば、もし振り子のようなら、実は伝統と革新には境界線があまり意味をなさず、もしかしたら、その概念すらも”とりたたて騒ぐほどのことでもなくなる”のかもしれません。
さりとて僅かにでも軌跡外れれば、振り子の運動ではなくなる。一毫でも外れれば、すでに「楽焼」ではなくなる。
肝要なのは、”振り子になること”。
まさに、以心伝心というか、師や仏祖の行履(あんり=生き様)をそっくり受け継いだとき、そして歩みを始めたときに、好むと好まざると「革新」がはじまる。

じゃあ、”革新”ばかりが目に入り、心にちらつく自分に、はたして”伝統”はあったのか・・・?
すなわち、僧侶の生き方、祖師の行履を学んでいたのか?

本当に偶然ですが、住職塾と同時に『正法眼蔵』の講義を東京に受けに行き始めました。
当時は言語化できなくても、漠然としたイメージがあったのかもしれません。
結果的に自分にとって誠にラッキーだったと思います。もしこれを受けていなければ、住職塾での学びも、もっと表層的なものになっていたかもしれない。また、逆に「一生の学び」を気付かせてくれたのが『正法眼蔵』だったと思います。

+++

で、さっきの話に戻ります。
あまりに有名な一節なので、ご存知の方も多いと思います。
『正法眼蔵』「現成公案」の中に、

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」

あるいはまた
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。・・・」

+++

と言うことで、これは自分への戒めと、もしかしたらこれから受講されるされる方にとってお役に立てるかもしれないので、最後のまとめを書いておきます。

1.仏祖崇敬、道心、彼岸寺風にいえば「菩提心に火をつけろ!」は必須アイテム(笑)

2.自らの頭で考えましょう。実は教えてくれること以上に、考えさせられることの方が多いです(涙)
特に「当たり前」のこととしていることこそ、一番危険な罠です。また、学んだことがそのまま”寺業興隆”に繋がる訳ではありません。お金になるとか人が集まるとか、それ以前に”なぜそうしなければならないのか”を考えないといけません。

3.終わりは始まりです。セミナーは終われど、お寺の、そして僧侶としての歩みはこれからです。実行してはじめて意味をなします。共に学ぶ仲間です。そのご縁と行動が何より尊いことです。


・・・口では偉そうなことばっかり言って、実際何にもできてない泰明・・・猛省ですface07

(未来の住職塾に関しての感想は以上です。本当に乱文を最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。これはあくまで小原泰明個人の意見ですので、どうぞその点だけご了解ください。このセミナーで出逢えた全ての方に感謝です。 南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧 合掌)



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