2011年06月06日

借りる力

NHK文化センターの小冊子、『メンバーズ倶楽部』を読んでいたら、玄侑宗久師(芥川賞作家にして福島県の臨済宗寺院の住職)の「借りる力」と題された文が載っていました。素敵な文章なので、意味を取れる程度に抄出してみたいと思います。

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あまりにも多くの人が亡くなり、あまりにも多くの孤独や苦悩が生まれた。
そうして人は、人間や、人間の作ってきたものがいかに脆いものであるかを痛感した。一言でいえば、無常を感じたのである。圧倒的な映像がテレビで流れた。

世界中の人々が、日本を、東北を、心から案じてくれる。技術も、人材も、惜しげもなく派遣してくれる。月並みだが、一人じゃないんだと、本当にそう思った。

そのような人間の善意に触れつづけ、つくづく思うのは、「自立」というこれまでのスローガンの愚かしさである。
人の世話にはなるべくならず、なんとか「おひとりさま」で過ごせるように、というのがこのところのトレンドであったはずである。
多くの商品がそれ用に開発され、学校でも「自立」「自立」と叫ぶから、人はいつしか一人でも生きていけるような錯覚に陥っていたように思える。
しかし人は、けっして一人じゃないし、本当は一人で生きていくことなどできない。

たしか岩手県だったと思うが、津波によって八人家族のうち六人を一瞬に失った女子高生の事が新聞に載っていた。
今は親戚に身を寄せているが、その家も家業を続ける可能性を奪われ、とても親戚の女の子の学費まで出す余裕はない。
しかし世の中には奇特な人がいるもので、災害によって孤児になった子供たちのためにと、わざわざ大枚を寄付してくださる方がいる。

片親を失った人も含めると、今回の災害ではおそらく四桁の子供たちの将来が危機に瀕している。

しかし遠慮することはない。遠慮なくそのような厚意に甘え、自分の進みたい道に邁進してほしい。むろん、そのための努力は存分にしてほしい。自分の力など、もともと知れたものだし、人は誰でも多くの人々の力を借りて成長するものだ。

人の力を遠慮なく借りる。それは若者に限らず、人間に不可欠な能力なのだと思う。もしもどうしても借りるのが嫌なら、あとでゆっくり返せばいい。相手は誰だっていい。本当に困っている人に今度は力を貸してあげれば、君に力を貸してくれた人も本望なはずである。


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そんなに長くはないですが、実に含蓄ある文章ですね。
特に私が感銘を受けたのは、”「自立」というこれまでのスローガンの愚かしさである”というくだり。

いやぁ~言われちゃったですね(笑)その通りですよね。
結局、「おひとりさま」や「ニートで引きこもり」ってそれが実現可能な社会だからこそ、それが実現されているわけで。

言うまでもないですが、知り合いと顔を合わせることなく買い物ができたり、包丁を触らなくてもガスコンロのノブをひねらなくても食事をいただけるのが現代社会。でも、例えば、顔を合わせなくても買い物ができるのは、そうしたコンピューターのシステムやPCやクレジット会社や運送業者の方や、もっと多くの方々がいるからこそ。食事だって同様ですよね。野菜を作ってくださる農家の方や、集積する運送会社、調理をする方・・・挙げればきりがない。

しかし、それを当然のように思ってしまう。見えなくなってしまう、その方々の営みが。
”自分の力”で生きていると勘違いしてしまう。

そろそろ気付くべきでしょうね。だってそれは”幻想”ですから。

仏教の有名なスローガンの1つに三法印(さんぼういん)というのがあります。
ご存知の方も多いとは思います。

その一つに、諸法無我(しょほうむが)という言葉があり、まぁ解釈はいろいろありますが、ひとまずは”自己を含め、物事や現象はそれ自体、自立的に存在するものではない。すべては、相互の関係性よりなりたっている”とご理解ください。

私は、まさにこの感覚が抜け落ちているのが「おひとりさま」「自立」至上主義なんだろうと思います。もちろん、これは「おひとりさま」を否定するものではありません。私の友人知人の中にも立派に「おひとりさま」を生き抜かれている方もいます。

そうではなくて、そこに何か過剰な理想像を打ち立てない方が良いのではないかと思うのです。だって、それは”幻想”ですから。どんな世界にも、”人の世話にはならず、自分ひとりで生きていく”ことができる者はありません。

『ウォールデン -森の生活-』を書いたアメリカのヘンリー・デヴィッド・ソローはウォールデン湖のほとりで一人暮らしをします。超有名な作品ですね。でも結局2年と少しでやめてしまう。私はここにもヒントがあるような気がします。

つまり、”一人で暮らす”ことは可能でしょう。限定された時間・空間なら。でも一人で生まれ、生き切るのは不可能なのだ、ということ。

それから玄侑氏が最後に言われるように”積極的に甘えよ”というのは他者依存でも負け犬でもないと思います。「諸法無我」が表すように、結局関係性からは逃れられない。だったら、それを使いぬく。自分だけの考えに固執することなく、”関係”を不可避のものとして自分の人生を構築する。それが、”遠慮なく借りる”という生き方なのでしょう。”自分以外はみんな師”、ありがたい文章でした。




↓今日のオマケ★
クラムボンの原田郁子も歌ってますね。
「恥を掛けない大人にはなりたくない。恥ずかしいもの」って。ホントにその通り。
この曲、好きなんですよね~♪このころの亀田誠治(この曲や椎名林檎・スピッツの一部を手掛けたプロデューサー)は輝いていたなぁ。





Posted by 泰明@西光寺 at 17:13
Comments(2)
この記事へのコメント
数年前に逝去された『甘えの構造』で有名な土居健郎先生が何かの本で述べておられましたが、小さい頃に甘えることをしっかりしていない子はちゃんと自立(これはふつうの意味です)できないそうです。また、「甘える」「甘えられる」という関係のない社会は生きにくいみたいなことも言ってたように記憶しています。

 「自立」イデオロギーとか「自己責任」とか「自己啓発」というものが人々の生をいいものにしたかというと、非常に疑問です(今でも書店に行けば、自己啓発本が腐るほど売ってますが)。内田樹先生もどこかで述べておられましたが、一人で食べたり飲んだり服買ったり物買ったりできる社会は、人類の長い歴史から見れば例外的です。空間的・時間的に限定されたところでしかできない営みです。この「人類史の観点から」という長いスパンで物事を見れなくなったのも、「自立」イデオロギーのもたらしたものかもしれません。視野が自分限定になりますから、当然なのですが。
Posted by ヒソカ at 2011年06月06日 18:02
>ヒソカさん

おぉ、コメントありがとうございます。

『甘えの構造』・・・まだ読んでいないですが、読みたい本リストの上位に来ています(笑)面白そうですね。日本人論を語る上では外せない名著と聞いております。

”一人で食べたり飲んだり服買ったり物買ったりできる社会は、人類の長い歴史から見れば例外的”、これは全く仰る通りですね。私もそう思います。

人間は傲慢なもので、今現在見えているもの、常識とされているもの、当たり前であることに、わざわざ振り返りもしないし、性質の悪いことに、今よりも過去の人たちも同じ常識・見方だろうと考えてしまう。自分の考えを自明のものとして過去にも適用してしまうんですよね。

しかし、それではいつまでたっても、本当の事は分かりませんね。最近、仏教の勉強をしていてつくづく思います。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年06月07日 13:16
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