2012年01月17日

【阪神淡路大震災より17年】 無常観とは

今日で阪神淡路大震災から17年ですね・・・。

当時、私は中学3年。高校受験を控えた寒い日でした。ボーイスカウトをやっていたからか、基本どんな所でも寝てしまえる泰明でしたが、この朝ばかりは、尋常ならざる揺れの長さに飛び起きたものです。

いつも思うのですが、日本人って「水に流す」という熟語じゃないけど、割と“忘れるのが上手”な民族じゃないでしょうか。
変な話、お年忌だって、中国では一周忌と三回忌(すなわち、小祥忌:しょうじょうき、大祥忌:だいじょうき)しか無かったと聞きます。
それが日本に入って後、徐々に増えてきて、もちろんその背景には十王思想、十三仏信仰などの要因があるそうですが、現在の形になった。確かに“儀礼とはいつの世もインフレ(=だんだん丁寧に、増えていく、の意)するんです”とさる高僧は言っていましたが、日本人にはその忘れやすさの警句、教訓としてこうした年回忌を設定し、その都度亡き方を思い出し、弔うのかもしれません。

これはうろ覚えなのですが・・・中国って一周忌と三回忌しかしないんだったら、余計忘れやすいんじゃないの?という疑問が浮かんできます。でも、孔子廟や関廟(関羽)といいった建物がたてられてずっと祀られていますよね。
それとは反対に過去に大罪を犯した反逆者なども、像が建てられて、未来永劫、その罪を忘れないようにさせるらしい。
これは、特に全土で愛され尊敬を集めているような武将などに刃向かった反逆者が対象となっているようで、英雄を奉る為のお堂の前に、わざわざその反逆者の像を置き、英雄をお参りする人が、次々につばを吐きかけるとか。(ホントかな?)

脱線しましたが、地震です。東日本大震災も10ヶ月が経ちました。未だに行方不明者が多くいらっしゃる中で、結局“喉元過ぎれば熱さを忘れる”的に、地震のことも徐々に忘れてしまう。被害を全く被っていない、このエリアに住む我々はなおさらです。

専門家の指摘を待つまでもなく、このエリアにも遠からず起きるでしょう。そのときの為に、過去の震災を自らのものとして考え、備える。当たり前のように聞こえますが、それを実行し、備え続けるのがいかに難しいことか。私も恥ずべき、反省すべき事です。

明日が今日のようにある。当たり前のように今日と同じような明日が来る。そんなことはありません。

ここ数日、思うことがあって道元禅師の『学道用心集』(岸沢惟安老師講述)を拝読しております。
この学道用心集で一番最初の文は
「右、菩提心は多名一心なり。竜樹祖師曰く、唯世間の生滅無常を観ずる心も、亦た菩提心と名ずくと。」

つまり、「菩提心(=仏教を学ぼうという一番の原動力)はいろいろな名前が付いているが、結局は一つの心である。ナーガールジュナ(インドの“超”がつく大学僧)いわく、唯この世の中は、生まれては滅するという無常を徹頭徹尾見続けるこころを、菩提心という」
と言うような意味になろうかとおもいます。

この岸沢老師の講義の中で、老師は
「真箇(泰明註:本物の、というような意味)の坊さんになろうと思ったら、無常観に徹底することだ。明日もある、お米の飯はいつでもある、どこにでもある、そんなことを考えているようでは菩提心のおこりようがない。今やることがあったら今やれ。のばす時間はない。午前中にやるべきことがあれば、午前中にやってしまえ。午前を過ぎて午後になれば、もはや午前ではない。
だからその一分でも逃げられたら、仏様に逃げられたのだ。」
と言われています。

ホントにそうだよな~と深く反省する泰明でした。
(ちなみに、この本、すっごくおもしろい。おもしろいっていうのは不謹慎ですが、ものすごく勉強になります。昭和23年に岸沢老師が提唱されたものを収録した本。こうした本が西光寺にあるということは、ただただ先代住職・歴代住職に感謝するのみです。頑張って勉強しなきゃ・・・)




Posted by 泰明@西光寺 at 18:15
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