2012年05月11日
長生きしたい?・・・『養生訓』
養生は畏れの一字
ちょっと前の中日新聞のサンデー版に貝原益軒の『養生訓』特集がやっていました。
恥ずかしながら、名前しか知らない無知な泰明。
刊行は1713年。約300年前!貝原益軒83の時の著書だそうです。ちなみに益軒は儒学者で本草学者だったそう。

タイトル通りの、なかなかに面白そうな書物の紹介でした。
その中で、印象に残ったのは次の一文
「養生は畏れの一字」
紙面にはこの様な説明が↓
「畏れると言うことは、身を守る心の法である。すべてに注意して気ままにしないで、過失のないようにし、たえず天道を畏れ敬い、謹んでしたがい、人間の欲望を畏れ慎んで我慢することである。つまり畏れることは慎みの心の出発をなすものである」
全く、その通りですね。
欲望は際限なく、制限するそのものは存在しない。特に”個人主義”=自分(の欲望)が基準かつ礼賛されているかのようなこの世の中ではね。
そこで、何かを敬うことで、自己の欲望を見つめ、認識し、制御するための手立てとして”敬うこと”がある、と感じています。
マスメディア(中日新聞)が採り上げたということは、裏を返せば、それだけ”手立て”を必要としていると痛感したんでしょう。
また機会があれば、全文読んでみたいものです。
ちょっと前の中日新聞のサンデー版に貝原益軒の『養生訓』特集がやっていました。
恥ずかしながら、名前しか知らない無知な泰明。
刊行は1713年。約300年前!貝原益軒83の時の著書だそうです。ちなみに益軒は儒学者で本草学者だったそう。

タイトル通りの、なかなかに面白そうな書物の紹介でした。
その中で、印象に残ったのは次の一文
「養生は畏れの一字」
紙面にはこの様な説明が↓
「畏れると言うことは、身を守る心の法である。すべてに注意して気ままにしないで、過失のないようにし、たえず天道を畏れ敬い、謹んでしたがい、人間の欲望を畏れ慎んで我慢することである。つまり畏れることは慎みの心の出発をなすものである」
全く、その通りですね。
欲望は際限なく、制限するそのものは存在しない。特に”個人主義”=自分(の欲望)が基準かつ礼賛されているかのようなこの世の中ではね。
そこで、何かを敬うことで、自己の欲望を見つめ、認識し、制御するための手立てとして”敬うこと”がある、と感じています。
マスメディア(中日新聞)が採り上げたということは、裏を返せば、それだけ”手立て”を必要としていると痛感したんでしょう。
また機会があれば、全文読んでみたいものです。
Posted by 泰明@西光寺 at 16:57
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