2011年04月23日
「もったいない」が「もったいない」?
朝日新聞土曜版be(2011/4/23)『悩みのるつぼ』
ちょっとお休みしましたが、恒例の朝日土曜版beのコーナーがやってまいりました(笑)
今回の『悩みのるつぼ』は何と、12歳の小学生の女の子からの悩み相談だったのですが、この質問者の子は本当に頭のいい子ですね。びっくりしました。とても12歳とは思えない洞察。
答えるのは作家 車谷長吉さんです。彼は仏教徒として、仏教的・超俗的な回答をしばしばします。今回は必見です!!

(以下、本文を適宜抜粋)
***************
12さいの小学生です。72さいの祖父が悩みの種です。戦時中に生まれた祖父は物をとても大事にします。
祖父がいまのっている車は23年前にかった国産車です。あちこちかすりきずや修理したあとがあり、後ろのドアは中から開きません。こんな調子なので、昨年の夏も海に行く予定でしたが、安全面が心配で車で行くのをやめました。そんなことがあっても祖父は「もったいない」と言って、その車をまだ使っています。見えっ張りな祖母にはそれがたえられません。
私は見た目はあまり気にしませんが、必要なときに使えないというのはどうかと思います。
祖父は「もったいない精神」が強すぎる人です。それが裏目にでてしまうことこそが「もったいない」のではないでしょうか。
「物持ちが良い」ことと「ケチなこと」の境目はどこにあるのでしょうか。
私は祖父が「もったいない」と感じられるの心があるのは良いことだと思いますが、いくつかの疑問があります。どこまでを祖父に学べば良いのでしょうか。
(回答:車谷長吉氏)
食べ物やその他のものを、たいせつにするのは、この世で一番よいことだと私は思います。
おじいさんは日本が外国と戦争をしていた時代にお生まれになりました。その時分は、食べ物などきわめて少なく、多くの人は困っていました。腹ぺこだったのです。
あなたはかしこい人だと思います。「もったいない精神」がしばしば裏目に出て、逆に「もったいない」ことになってしまうことはよくわかります。
「物持ちが良い」ことと「ケチなこと」の境目は、自分より困っている人を助けてあげるかどうかです。ケチな人は自分より困っている人を助けてあげません。自分だけが良ければよい、と考えている人はケチな人です。
だから、おじいさんに、自分より困っている人たちを助けてあげるように、お話ししてみてはいかがでしょう。おじいさんは孫はまだ一人前だと思っていらっしゃらず、うまくいかないかもしれません。あたなとしては、おじいさんの良いところだけを学べばよいのです。
おじいさんやおばあさんをとがめたり、非難したりすることだけはやめましょう。
**************
賢い小学生ですね。「もったいない」ことが裏目に出ることが「もったいない」。
そういえば、世界的に有名になった、この「もったいない」って仏教語だというのをご存知ですか?
「勿体」というのは、”そのものが持つ本来的な実体があらわれる”つまり本来の事象を使いぬく、或いは発揮しぬく、というような意味らしいです。
だから、例えばトマトを食べずに捨てた時、食べられて我が身となってくれるであろう”トマトの本体”がそうならずに捨てられてしまうから、「もったいない」となるのです。
ちょっと説教じみた話になってしまいました・・・(反省)
今回の文章を読んでいて、思い出したことがありました。
『正法眼蔵随聞記』という書物に、道元禅師が”物を惜しむこと”に関して、お袈裟(=僧侶が付ける大事な衣)を例にとって、こんなことを言われています。(『正法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳・筑摩書房 P209)
+++++++++
(道元禅師が言われた。)古くなってすり切れたお袈裟などを、つぎをして捨てずにいると、物をむさぼり惜しんでいるように見える。古いのを捨てて、あるに任せて使っていると、新しいものをむさぼり惜しむ心がある。両方とも欠点がある。どうしたらよいかな。
わたし(泰明註:懐奘(えじょう)禅師の事。道元禅師の教えを継いで永平寺の2世となった方)はおたずねした。「結局どんな心がけでいたらよろしゅうございましょう。」
禅師が答えて言われた。
むさぼり惜しむ心と、むさぼり求める心の二つさえなくせば、捨てても捨てないでも、欠点とはならない。ただまあ、破れたものは手当をしてなるべく長く着るようにし、新しいのをしいてほしがらなければよろしかろう。
+++++++++
いみじくも、車谷さんが言われていた「自分より困っている人を助けてあげられるかどうか」というのは、私が思うに、この道元禅師が言われる”むさぼり惜しむ心”を離れられるかどうか、だと思います。つまり、「古いものをスパッとすてて、新しいものが欲しい!」と願うことも、「勿体ないからずっとずっと着ていたい」、と思うのも、実はどちらも”執着する心”を離れられないのです。
今回の場合は勿論、後者ですね。
実は、仏教的に言えば、この”執着する心”こそ捨て去るべきもの、とされています。言うまでもないですが、物を大切にすることは仏教においてもとても大事にします。しかし、大事すぎて離れられない、それはまるで、小さな子がボロボロになってしまったお気に入りの毛布を、寝るときも起きているときも始終抱えて離さないようなものだということです。
しかし、どんなに大事でもボロボロなら毛布の役割を果たさない。のみならず、そのモノに対する執着が自分の心を捕われたものにし、また周りの人間も(この場合、12歳のお孫さん)それによって振り回されてしまう。こうしたことを、仏教ではよくよく注意するように言われます。
道元禅師は「たとえ7歳の女の子でも、(仏の心を持ち続ければ)みんなを導く人間になれる」と書いています。今回はまさにそうした思いがしました。12歳の小学生に教えられることもありますね
ちょっとお休みしましたが、恒例の朝日土曜版beのコーナーがやってまいりました(笑)
今回の『悩みのるつぼ』は何と、12歳の小学生の女の子からの悩み相談だったのですが、この質問者の子は本当に頭のいい子ですね。びっくりしました。とても12歳とは思えない洞察。
答えるのは作家 車谷長吉さんです。彼は仏教徒として、仏教的・超俗的な回答をしばしばします。今回は必見です!!

(以下、本文を適宜抜粋)
***************
12さいの小学生です。72さいの祖父が悩みの種です。戦時中に生まれた祖父は物をとても大事にします。
祖父がいまのっている車は23年前にかった国産車です。あちこちかすりきずや修理したあとがあり、後ろのドアは中から開きません。こんな調子なので、昨年の夏も海に行く予定でしたが、安全面が心配で車で行くのをやめました。そんなことがあっても祖父は「もったいない」と言って、その車をまだ使っています。見えっ張りな祖母にはそれがたえられません。
私は見た目はあまり気にしませんが、必要なときに使えないというのはどうかと思います。
祖父は「もったいない精神」が強すぎる人です。それが裏目にでてしまうことこそが「もったいない」のではないでしょうか。
「物持ちが良い」ことと「ケチなこと」の境目はどこにあるのでしょうか。
私は祖父が「もったいない」と感じられるの心があるのは良いことだと思いますが、いくつかの疑問があります。どこまでを祖父に学べば良いのでしょうか。
(回答:車谷長吉氏)
食べ物やその他のものを、たいせつにするのは、この世で一番よいことだと私は思います。
おじいさんは日本が外国と戦争をしていた時代にお生まれになりました。その時分は、食べ物などきわめて少なく、多くの人は困っていました。腹ぺこだったのです。
あなたはかしこい人だと思います。「もったいない精神」がしばしば裏目に出て、逆に「もったいない」ことになってしまうことはよくわかります。
「物持ちが良い」ことと「ケチなこと」の境目は、自分より困っている人を助けてあげるかどうかです。ケチな人は自分より困っている人を助けてあげません。自分だけが良ければよい、と考えている人はケチな人です。
だから、おじいさんに、自分より困っている人たちを助けてあげるように、お話ししてみてはいかがでしょう。おじいさんは孫はまだ一人前だと思っていらっしゃらず、うまくいかないかもしれません。あたなとしては、おじいさんの良いところだけを学べばよいのです。
おじいさんやおばあさんをとがめたり、非難したりすることだけはやめましょう。
**************
賢い小学生ですね。「もったいない」ことが裏目に出ることが「もったいない」。
そういえば、世界的に有名になった、この「もったいない」って仏教語だというのをご存知ですか?
「勿体」というのは、”そのものが持つ本来的な実体があらわれる”つまり本来の事象を使いぬく、或いは発揮しぬく、というような意味らしいです。
だから、例えばトマトを食べずに捨てた時、食べられて我が身となってくれるであろう”トマトの本体”がそうならずに捨てられてしまうから、「もったいない」となるのです。
ちょっと説教じみた話になってしまいました・・・(反省)
今回の文章を読んでいて、思い出したことがありました。
『正法眼蔵随聞記』という書物に、道元禅師が”物を惜しむこと”に関して、お袈裟(=僧侶が付ける大事な衣)を例にとって、こんなことを言われています。(『正法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳・筑摩書房 P209)
+++++++++
(道元禅師が言われた。)古くなってすり切れたお袈裟などを、つぎをして捨てずにいると、物をむさぼり惜しんでいるように見える。古いのを捨てて、あるに任せて使っていると、新しいものをむさぼり惜しむ心がある。両方とも欠点がある。どうしたらよいかな。
わたし(泰明註:懐奘(えじょう)禅師の事。道元禅師の教えを継いで永平寺の2世となった方)はおたずねした。「結局どんな心がけでいたらよろしゅうございましょう。」
禅師が答えて言われた。
むさぼり惜しむ心と、むさぼり求める心の二つさえなくせば、捨てても捨てないでも、欠点とはならない。ただまあ、破れたものは手当をしてなるべく長く着るようにし、新しいのをしいてほしがらなければよろしかろう。
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いみじくも、車谷さんが言われていた「自分より困っている人を助けてあげられるかどうか」というのは、私が思うに、この道元禅師が言われる”むさぼり惜しむ心”を離れられるかどうか、だと思います。つまり、「古いものをスパッとすてて、新しいものが欲しい!」と願うことも、「勿体ないからずっとずっと着ていたい」、と思うのも、実はどちらも”執着する心”を離れられないのです。
今回の場合は勿論、後者ですね。
実は、仏教的に言えば、この”執着する心”こそ捨て去るべきもの、とされています。言うまでもないですが、物を大切にすることは仏教においてもとても大事にします。しかし、大事すぎて離れられない、それはまるで、小さな子がボロボロになってしまったお気に入りの毛布を、寝るときも起きているときも始終抱えて離さないようなものだということです。
しかし、どんなに大事でもボロボロなら毛布の役割を果たさない。のみならず、そのモノに対する執着が自分の心を捕われたものにし、また周りの人間も(この場合、12歳のお孫さん)それによって振り回されてしまう。こうしたことを、仏教ではよくよく注意するように言われます。
道元禅師は「たとえ7歳の女の子でも、(仏の心を持ち続ければ)みんなを導く人間になれる」と書いています。今回はまさにそうした思いがしました。12歳の小学生に教えられることもありますね

2011年04月16日
クライマックスは感動で涙する、そんな式について。
先日のお話です。
「赤羽根のお寺に会議に行く」と確か書いた覚えがありますが、そのことについてです。

来月、5月下旬に赤羽根の曹洞宗寺院でとても大きな式典があります。その式についての打ち合わせでした。
簡単に言えば、「現在の住職の引退式」と「新住職の就任式」それから「仏弟子となる式(檀家さん対象)」といった様々な儀式を4日間で行います。この式をおよそ80名ほどの僧侶が役目をいただいて参加します。
それぞれ、非常に重要な意味を持つ儀式で、なおかつ、「新住職就任式」はおめでたい祝典、「仏弟子となる式」は大変に厳粛で、入念なる準備が必要な荘厳な式典、その他にも先祖供養や観音像の開眼供養など、様々な種類の儀礼が目白押しでもあります。
何より重要な「仏弟子となる式」は、”授戒会(じゅかいえ)”とか”お授戒(おじゅかい)”と言い、檀家さんが何日間かお寺に籠り、実際にお説教を聞いたり、法要に参加したりと修行をし、最後には”血脈(けちみゃく)”と言って、仏弟子となった証明書をいただきます。これは、曹洞宗の式の中で、私が知る限り、檀家さんにとっても最高の儀式で、これを済ませると通常は戒名をいただけます。
今回、このお寺のお檀家さん260名(!!!)がこの式に参加され、(すごい人数ですよ、これ)永平寺の住職様(禅師:ぜんじ、と言います)がお見えになってこの式を執り行ってくださいます。
ちなみに、授戒会は、江戸時代に既に活発に行われていたそうで、この儀礼を通して民衆の間に曹洞宗が浸透していった背景もあるそう。
一般的に儀式として見ても、(こんな風に書くと不謹慎かもしれませんが)授戒会は、非常にアトラクティブで、起承転結じゃないですけど、日によって儀式にうねり(盛り上がり)があるような内容になっています。ちなみに、このログのタイトルは正にこの授戒会を指したもので、だからこそクライマックスを迎える最終日前夜(に通常は行われる)儀式では、そのあまりの荘厳さに心を打たれて、涙を流される方が続出という、素晴らしい式だったりします。(決して大袈裟ではありません)
この授戒会は曹洞宗の大本山である永平寺、総持寺では毎年1週間の期間を定めて行われています。(今年は震災の関係で中止)なので、私も修行中に3度体験したのですが・・・昔の事なので記憶が薄れてる・・・(汗)
ということで、これから一カ月は準備と勉強にいそしんで、そのお寺の檀家さんにとっても、また私たち僧侶にとっても”素晴らしい式だった”と思えるように頑張ります。さ、勉強しよ
「赤羽根のお寺に会議に行く」と確か書いた覚えがありますが、そのことについてです。

来月、5月下旬に赤羽根の曹洞宗寺院でとても大きな式典があります。その式についての打ち合わせでした。
簡単に言えば、「現在の住職の引退式」と「新住職の就任式」それから「仏弟子となる式(檀家さん対象)」といった様々な儀式を4日間で行います。この式をおよそ80名ほどの僧侶が役目をいただいて参加します。
それぞれ、非常に重要な意味を持つ儀式で、なおかつ、「新住職就任式」はおめでたい祝典、「仏弟子となる式」は大変に厳粛で、入念なる準備が必要な荘厳な式典、その他にも先祖供養や観音像の開眼供養など、様々な種類の儀礼が目白押しでもあります。
何より重要な「仏弟子となる式」は、”授戒会(じゅかいえ)”とか”お授戒(おじゅかい)”と言い、檀家さんが何日間かお寺に籠り、実際にお説教を聞いたり、法要に参加したりと修行をし、最後には”血脈(けちみゃく)”と言って、仏弟子となった証明書をいただきます。これは、曹洞宗の式の中で、私が知る限り、檀家さんにとっても最高の儀式で、これを済ませると通常は戒名をいただけます。
今回、このお寺のお檀家さん260名(!!!)がこの式に参加され、(すごい人数ですよ、これ)永平寺の住職様(禅師:ぜんじ、と言います)がお見えになってこの式を執り行ってくださいます。
ちなみに、授戒会は、江戸時代に既に活発に行われていたそうで、この儀礼を通して民衆の間に曹洞宗が浸透していった背景もあるそう。
一般的に儀式として見ても、(こんな風に書くと不謹慎かもしれませんが)授戒会は、非常にアトラクティブで、起承転結じゃないですけど、日によって儀式にうねり(盛り上がり)があるような内容になっています。ちなみに、このログのタイトルは正にこの授戒会を指したもので、だからこそクライマックスを迎える最終日前夜(に通常は行われる)儀式では、そのあまりの荘厳さに心を打たれて、涙を流される方が続出という、素晴らしい式だったりします。(決して大袈裟ではありません)
この授戒会は曹洞宗の大本山である永平寺、総持寺では毎年1週間の期間を定めて行われています。(今年は震災の関係で中止)なので、私も修行中に3度体験したのですが・・・昔の事なので記憶が薄れてる・・・(汗)
ということで、これから一カ月は準備と勉強にいそしんで、そのお寺の檀家さんにとっても、また私たち僧侶にとっても”素晴らしい式だった”と思えるように頑張ります。さ、勉強しよ
