2011年03月01日
お彼岸ってなに??
昨日の記事で「春彼岸のご案内を作成している」と申し上げましたところ、コメントをいただきましたので、西光寺檀信徒の方へのご案内文を抜粋して、掲載します。なお、この文章は参考資料として『葬儀・法事のしきたりとその由来』(曹洞宗静岡県第一宗務所編)、『日本仏教史』(末木文美士・新潮文庫)を使用しています。
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<お彼岸とは・・・?>
「彼岸」というのは元々インドの言葉だというのをご存知ですか?
サンスクリット語の”パーラミタ”を訳したもので、「到彼岸」(=彼岸に行き着く)という意味です。
苦しみの多い此岸(しがん=この世)から、安らぎに満ちた浄土=彼岸へ渡ることをいいます。
しかし、このように書くと、「死んでしまうの?」と思われがちですが、彼岸はそうではありません。
これは中国の浄土思想(西方の彼方に極楽があると信じる思想)がその源と言われています。西の彼方に極楽浄土があり、そこに行き着くために仏にお祈りをするという風習がありました。
春も秋も同じですが、彼岸の中日(春分・秋分)には太陽が真西に沈むことから、浄土を信じる人々にとっては非常に重要な日であり、特に「真西に」向かってお祈りをすると、大変に御利益があると考えられてきました。
しかし、この「彼岸会」というのは中国やインドには見られず、日本独自のものです。
日本においては、浄土宗や浄土真宗といった浄土系の仏教の影響からか、お彼岸には盛んにお念仏が行われたようです。(『観無量寿経』というお経の日想観に基づくものと言われていますが、定かではありません)
浄土真宗の蓮如上人は特に彼岸についてこのように書かれています。
「彼岸会というのは、昼の時間と夜の時間が同じで、そして時節としても暑くなく、寒くもない。太陽は真東から出て、真西に沈んでいくし、人々がお寺に寄るのもむずかしくなく、法要をするのにとても良い日であるから、お釈迦さんの時代から、今の時代に至るまで、ずっと続いているのである。だから仏教に触れ、信仰の心を成長させるのにも、素晴らしく良い時期なのである」
曹洞宗では、上記のような「浄土の思想」はあまり見当たりませんが、そうであったとしても、蓮如上人の言われる”仏教に触れるよい季節”という事は尤もであるから、宗派を超えて日本中に広がっていったのだと考えられます。
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以上がご案内の文章です。
基本的には、お彼岸の一週間(春分の日・秋分の日を中心にした一週間)に僧侶が修行することが「彼岸」なのですが、なぜそれが全国的に風習的に「お彼岸」として土着してきたのかは、私もわかりません。すみません。
ただ、何となく、農耕民族としての何かの節目(種まきとか収穫とか)と関連があるような気もしているのですが、これは私の勝手な想像に過ぎません。ただ、『日本仏教史』によれば、1月の正月と7月のお盆は、祖先神(=和魂 *詳しくは先日のこの記事)の来訪と民俗的に位置づけられ、実は彼岸もその祖先神が山から村へ降りてくる時期と考えられるそうです。
いずれにしてましても、ご先祖様が帰ってくるという感覚ではなく、どちらかというと、その”安らぎに満ちた世界”を向き、考え、どうしたらそのような心持で暮らせるのかを仏教的に考えてみるのが彼岸なのかな、と私は思っています。
ですから、僧侶はもちろんのこと、檀家様もお墓参りや先祖供養を通して、その「彼岸にいたる」こと、つまり生きにくいこの世の中でいかに心安らかに生きていくかという事へ、思い巡らせてみてはいかがかな、と考える次第です。
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<お彼岸とは・・・?>
「彼岸」というのは元々インドの言葉だというのをご存知ですか?
サンスクリット語の”パーラミタ”を訳したもので、「到彼岸」(=彼岸に行き着く)という意味です。
苦しみの多い此岸(しがん=この世)から、安らぎに満ちた浄土=彼岸へ渡ることをいいます。
しかし、このように書くと、「死んでしまうの?」と思われがちですが、彼岸はそうではありません。
これは中国の浄土思想(西方の彼方に極楽があると信じる思想)がその源と言われています。西の彼方に極楽浄土があり、そこに行き着くために仏にお祈りをするという風習がありました。
春も秋も同じですが、彼岸の中日(春分・秋分)には太陽が真西に沈むことから、浄土を信じる人々にとっては非常に重要な日であり、特に「真西に」向かってお祈りをすると、大変に御利益があると考えられてきました。
しかし、この「彼岸会」というのは中国やインドには見られず、日本独自のものです。
日本においては、浄土宗や浄土真宗といった浄土系の仏教の影響からか、お彼岸には盛んにお念仏が行われたようです。(『観無量寿経』というお経の日想観に基づくものと言われていますが、定かではありません)
浄土真宗の蓮如上人は特に彼岸についてこのように書かれています。
「彼岸会というのは、昼の時間と夜の時間が同じで、そして時節としても暑くなく、寒くもない。太陽は真東から出て、真西に沈んでいくし、人々がお寺に寄るのもむずかしくなく、法要をするのにとても良い日であるから、お釈迦さんの時代から、今の時代に至るまで、ずっと続いているのである。だから仏教に触れ、信仰の心を成長させるのにも、素晴らしく良い時期なのである」
曹洞宗では、上記のような「浄土の思想」はあまり見当たりませんが、そうであったとしても、蓮如上人の言われる”仏教に触れるよい季節”という事は尤もであるから、宗派を超えて日本中に広がっていったのだと考えられます。
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以上がご案内の文章です。
基本的には、お彼岸の一週間(春分の日・秋分の日を中心にした一週間)に僧侶が修行することが「彼岸」なのですが、なぜそれが全国的に風習的に「お彼岸」として土着してきたのかは、私もわかりません。すみません。
ただ、何となく、農耕民族としての何かの節目(種まきとか収穫とか)と関連があるような気もしているのですが、これは私の勝手な想像に過ぎません。ただ、『日本仏教史』によれば、1月の正月と7月のお盆は、祖先神(=和魂 *詳しくは先日のこの記事)の来訪と民俗的に位置づけられ、実は彼岸もその祖先神が山から村へ降りてくる時期と考えられるそうです。
いずれにしてましても、ご先祖様が帰ってくるという感覚ではなく、どちらかというと、その”安らぎに満ちた世界”を向き、考え、どうしたらそのような心持で暮らせるのかを仏教的に考えてみるのが彼岸なのかな、と私は思っています。
ですから、僧侶はもちろんのこと、檀家様もお墓参りや先祖供養を通して、その「彼岸にいたる」こと、つまり生きにくいこの世の中でいかに心安らかに生きていくかという事へ、思い巡らせてみてはいかがかな、と考える次第です。
この記事へのコメント
神道では春秋の「彼岸」を重要なものとしています、
よろしければこちらをどうぞ
http://sinsousaikami.seesaa.net/article/126233105.html
またこちらには神葬祭についてもいろいろ書かれていますので、ご参考になれば。。
よろしければこちらをどうぞ
http://sinsousaikami.seesaa.net/article/126233105.html
またこちらには神葬祭についてもいろいろ書かれていますので、ご参考になれば。。
Posted by 青蛉返 at 2011年03月01日 23:49
>青蛉返さま
おはようございます。非常に重要なご示唆をいただき、ありがとうございます。
さっそく、リンク先を拝読しました。勉強になります。
やはり、日本の宗教はそうした他の宗教との混淆が、ある種のダイナミズムを生んでいますね。(もっとも、だからダメだ、という人もいますが・・・)
個人的に神道も興味のある宗教です。そこを避けては日本の宗教を語ることはできませんし、そういう意味では、私はあまり神道と仏教を敢えて分けて裁断化する必要はないと思っています。
貴重なご意見をありがとうございました。
おはようございます。非常に重要なご示唆をいただき、ありがとうございます。
さっそく、リンク先を拝読しました。勉強になります。
やはり、日本の宗教はそうした他の宗教との混淆が、ある種のダイナミズムを生んでいますね。(もっとも、だからダメだ、という人もいますが・・・)
個人的に神道も興味のある宗教です。そこを避けては日本の宗教を語ることはできませんし、そういう意味では、私はあまり神道と仏教を敢えて分けて裁断化する必要はないと思っています。
貴重なご意見をありがとうございました。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年03月02日 08:36