2011年04月18日
とっても大事な本当のこと (後半)
(前半からの続きです)
しかし、重要なのはここからです。
”共同体の宗教”と”世界宗教”は断絶されるべき2つの事象ではありません。
単に二分化して「あれは仏教じゃない」「これは本来、土着の民俗信仰だ」とあげつらったり、非難することは簡単です。
例えば、一般の人が「仏教が”葬式仏教”に堕落したのは僧侶のせいだ」と”共同体の宗教として”いうのも単純ならば、僧侶がその”葬式仏教を非難する人”を見て、内心「葬式仏教って非難するけど、始めたのはおまえらなんだぞ。おまえらが葬式を望んだんだ」とあしらい、「葬式は仏教じゃない」と声を荒げるのも簡単です。
がしかし、それでは宗教に対して何の希求にもなりません。
そして残念ながらこの「世界宗教」と「共同体の宗教」はスパッと二分化できないのではないかと思うのです。加えて言うなら、どちらがいいとか悪いとかも言えないと思います。
前者にウエイトが置かれすぎたら例えば「エリート仏教」になり、非常に閉鎖的なもの(皆さんがこうして僧侶のブログを読むことも、お葬式や法事を僧侶がすることもなくなる)になるだろうし、極端に言えば、それを存続させゆく装置として非常に脆弱な、つまり宗教の生命として物凄く短く弱いものになる可能性も大いにありそうです。
そして後者に比重を置き換えれば、僧侶は”お寺にいるいいおっさん”になれはしても、世界宗教としての仏教の本懐からは遠ざかってしまい、結局は”〇〇教”という教理・教学も民俗に融解・消滅してしまうように見えます。別の言い方をすれば”共同体に引き摺られる”存在で、つまりは共同体が存続しているうちは存在できるが、それが変化・消滅していくと根本的に耐えられない宗教である、と言えます。(この考えは違うのかもしれませんが・・・)
ただし、その性格上、「世界宗教」が「共同体の宗教」に影響を及ぼすことはあっても、その逆はないのではないか、と私は考えています。
と、いうことで、何だか長ったらしい話になってきましたが、この2つの見方に対する、今の私の考え(本音)を書いておきたいと思います。
最初にお断りですが、以下は「世界宗教」:「共同体の宗教」という対比を「教理の仏教」:「民俗的仏教」(これは奈良康明先生の説)にオーヴァーラップさせて書いてきました。しかし厳密には結構隔たりがあるこの2つの対比だと思います。なので、本当はそれらも分けて考える必要があるのですが、今はそれの差異を一一指摘すると、第一に、私が説明できなさそうなので(笑)齟齬はあるにしても、上記2つの概念を緩やかなイコールで結んで見ています。
まず、先日も記事にしましたが、本来民俗儀礼であった葬式が、現在はほぼ仏教とイコールで捉えられていることは、僧侶・信者共に否定する必要はなく、奈良先生の言葉通り「重層的」に”世界宗教”と”共同体の宗教”を考えていけばいいということ。なぜならば、仏教が今まで変容を遂げてもなお存在しているのは、言うまでもなく”共同体”の一部に取り込まれていたから、つまり民俗の生命として存続してきたからです。ですから、そこは否定すべき点ではないと思うのです。
それから重層的に見るというのは、或る意味ではさまざまな観点から考える、ことでもありましょうから、”どうして葬式が始まったのか”とか”葬儀の内容はどういったもの”とか”葬儀にかかる費用”、”社会的な死とは何か?””ムラ社会における葬儀の互助性”いった(簡単に出てくるだけでもこれくらいの)ことも考えていく必要がありそうです。
そして、こうした観点からの学び(僧侶も在家も、です)こそが、”葬式仏教”を改めて意味あるものにする手立てだろうと思います。
それから、みなさんが「共同体の宗教」としての仏教を捨てる必要はないということ。みなさんにとっては、大方これこそが”仏教”なのですから、そこは否定する必要はないと思います。先祖を大事にし、故人を弔い、思いを馳せるというのは文化的にも宗教的にも非常に重要なことです。だからこそ、そこは等閑にしないでほしいと思います。
そして、僧侶としてはどこまでも世界宗教としての仏教を続けることが肝要で、逆説的・最終的には慈悲の実践としての「共同体の宗教」への参加、それは即ち”民俗儀礼の祭司”に繋がっていくのだと思います。結局、大切な人を亡くし、嘆き悲しむ人を見て、僧侶は放ってはおけなかった、そこから僧侶による葬儀の参加が始まったという奈良先生の説を私も採りたいと思います。
(ここを僧侶が忘れてしまうと「時給50万ですが何か?」と書かれたふざけた帯の本が上梓されてしまうんですよね。←何のことか詳しくは書きませんが、興味のある方は検索してみてください)
ただし、”共同体としての仏教”に馴染めない人っていると思うんですよね、はみ出しちゃうって言うか、疑問視してしまうというか。多分そういう方は”世界宗教”としての宗教を望んでるんだと思いますので、ぜひお近く住職なり、僧侶に疑問をぶつけてみてほしいです。きっとまともな僧侶なら応えてくれる、はず・・・(私には荷が重い?!)・・・です。
それから、実はこの文章、檀信徒の方や、一般の方向けに書いているかと思いきや(笑)、そうでもなかったりします。じゃあ誰なの、って話ですが、答えは”同じ僧侶に”です。特に私よりも若い僧侶だったりすると、こうした疑問って言わないだけで、いや、言えないだけで持ってると思うんです。(持っていなかったら、ある意味幸せかも・・・)
私もまだまだ青二才ですが、それでも今まで書いてきたこれらの考えに出会ったとき、言い知れぬ安心した気持ちになれました。積年の疑問が氷解したという以上に、これからも仏道を参究し、同時に檀信徒の方へ安心の気持ちを持っていただけるように自信を持っておつとめをしていいのだ、という背中を押された気分がしたからです。
もちろん、”共同体の宗教”である以上は、その共同体に依存する比重は大きいはずで、実はその共同体が崩壊しつつあるからこそ、直葬などの問題が浮かび上がってくる訳ですが、しかし、どうしても僧侶の本分は世界宗教たる仏教だと私は思っているので、その共同体の宗教を再定義・再構築・吟味するためにも、精進を続けなければならないと感じています。(この意味では仏教は世俗の価値とは違うものを持っていて当然だと思うし、世俗の価値に迎合する必要もないのかな、と思っています。)
長々とすみません。内容を端折ったところもありますが、許してください。
この概念を教えてくださったtenjin先輩に感謝の気持ちをささげて、今日はここで終わりとします。
しかし、重要なのはここからです。
”共同体の宗教”と”世界宗教”は断絶されるべき2つの事象ではありません。
単に二分化して「あれは仏教じゃない」「これは本来、土着の民俗信仰だ」とあげつらったり、非難することは簡単です。
例えば、一般の人が「仏教が”葬式仏教”に堕落したのは僧侶のせいだ」と”共同体の宗教として”いうのも単純ならば、僧侶がその”葬式仏教を非難する人”を見て、内心「葬式仏教って非難するけど、始めたのはおまえらなんだぞ。おまえらが葬式を望んだんだ」とあしらい、「葬式は仏教じゃない」と声を荒げるのも簡単です。
がしかし、それでは宗教に対して何の希求にもなりません。
そして残念ながらこの「世界宗教」と「共同体の宗教」はスパッと二分化できないのではないかと思うのです。加えて言うなら、どちらがいいとか悪いとかも言えないと思います。
前者にウエイトが置かれすぎたら例えば「エリート仏教」になり、非常に閉鎖的なもの(皆さんがこうして僧侶のブログを読むことも、お葬式や法事を僧侶がすることもなくなる)になるだろうし、極端に言えば、それを存続させゆく装置として非常に脆弱な、つまり宗教の生命として物凄く短く弱いものになる可能性も大いにありそうです。
そして後者に比重を置き換えれば、僧侶は”お寺にいるいいおっさん”になれはしても、世界宗教としての仏教の本懐からは遠ざかってしまい、結局は”〇〇教”という教理・教学も民俗に融解・消滅してしまうように見えます。別の言い方をすれば”共同体に引き摺られる”存在で、つまりは共同体が存続しているうちは存在できるが、それが変化・消滅していくと根本的に耐えられない宗教である、と言えます。(この考えは違うのかもしれませんが・・・)
ただし、その性格上、「世界宗教」が「共同体の宗教」に影響を及ぼすことはあっても、その逆はないのではないか、と私は考えています。
と、いうことで、何だか長ったらしい話になってきましたが、この2つの見方に対する、今の私の考え(本音)を書いておきたいと思います。
最初にお断りですが、以下は「世界宗教」:「共同体の宗教」という対比を「教理の仏教」:「民俗的仏教」(これは奈良康明先生の説)にオーヴァーラップさせて書いてきました。しかし厳密には結構隔たりがあるこの2つの対比だと思います。なので、本当はそれらも分けて考える必要があるのですが、今はそれの差異を一一指摘すると、第一に、私が説明できなさそうなので(笑)齟齬はあるにしても、上記2つの概念を緩やかなイコールで結んで見ています。
まず、先日も記事にしましたが、本来民俗儀礼であった葬式が、現在はほぼ仏教とイコールで捉えられていることは、僧侶・信者共に否定する必要はなく、奈良先生の言葉通り「重層的」に”世界宗教”と”共同体の宗教”を考えていけばいいということ。なぜならば、仏教が今まで変容を遂げてもなお存在しているのは、言うまでもなく”共同体”の一部に取り込まれていたから、つまり民俗の生命として存続してきたからです。ですから、そこは否定すべき点ではないと思うのです。
それから重層的に見るというのは、或る意味ではさまざまな観点から考える、ことでもありましょうから、”どうして葬式が始まったのか”とか”葬儀の内容はどういったもの”とか”葬儀にかかる費用”、”社会的な死とは何か?””ムラ社会における葬儀の互助性”いった(簡単に出てくるだけでもこれくらいの)ことも考えていく必要がありそうです。
そして、こうした観点からの学び(僧侶も在家も、です)こそが、”葬式仏教”を改めて意味あるものにする手立てだろうと思います。
それから、みなさんが「共同体の宗教」としての仏教を捨てる必要はないということ。みなさんにとっては、大方これこそが”仏教”なのですから、そこは否定する必要はないと思います。先祖を大事にし、故人を弔い、思いを馳せるというのは文化的にも宗教的にも非常に重要なことです。だからこそ、そこは等閑にしないでほしいと思います。
そして、僧侶としてはどこまでも世界宗教としての仏教を続けることが肝要で、逆説的・最終的には慈悲の実践としての「共同体の宗教」への参加、それは即ち”民俗儀礼の祭司”に繋がっていくのだと思います。結局、大切な人を亡くし、嘆き悲しむ人を見て、僧侶は放ってはおけなかった、そこから僧侶による葬儀の参加が始まったという奈良先生の説を私も採りたいと思います。
(ここを僧侶が忘れてしまうと「時給50万ですが何か?」と書かれたふざけた帯の本が上梓されてしまうんですよね。←何のことか詳しくは書きませんが、興味のある方は検索してみてください)
ただし、”共同体としての仏教”に馴染めない人っていると思うんですよね、はみ出しちゃうって言うか、疑問視してしまうというか。多分そういう方は”世界宗教”としての宗教を望んでるんだと思いますので、ぜひお近く住職なり、僧侶に疑問をぶつけてみてほしいです。きっとまともな僧侶なら応えてくれる、はず・・・(私には荷が重い?!)・・・です。
それから、実はこの文章、檀信徒の方や、一般の方向けに書いているかと思いきや(笑)、そうでもなかったりします。じゃあ誰なの、って話ですが、答えは”同じ僧侶に”です。特に私よりも若い僧侶だったりすると、こうした疑問って言わないだけで、いや、言えないだけで持ってると思うんです。(持っていなかったら、ある意味幸せかも・・・)
私もまだまだ青二才ですが、それでも今まで書いてきたこれらの考えに出会ったとき、言い知れぬ安心した気持ちになれました。積年の疑問が氷解したという以上に、これからも仏道を参究し、同時に檀信徒の方へ安心の気持ちを持っていただけるように自信を持っておつとめをしていいのだ、という背中を押された気分がしたからです。
もちろん、”共同体の宗教”である以上は、その共同体に依存する比重は大きいはずで、実はその共同体が崩壊しつつあるからこそ、直葬などの問題が浮かび上がってくる訳ですが、しかし、どうしても僧侶の本分は世界宗教たる仏教だと私は思っているので、その共同体の宗教を再定義・再構築・吟味するためにも、精進を続けなければならないと感じています。(この意味では仏教は世俗の価値とは違うものを持っていて当然だと思うし、世俗の価値に迎合する必要もないのかな、と思っています。)
長々とすみません。内容を端折ったところもありますが、許してください。
この概念を教えてくださったtenjin先輩に感謝の気持ちをささげて、今日はここで終わりとします。
この記事へのコメント
ふむふむ…。
人の生を授くるは難く、今、生命あるは有難し。
【法句教】
レベルアップしたな…。合掌
人の生を授くるは難く、今、生命あるは有難し。
【法句教】
レベルアップしたな…。合掌
Posted by 雲榮山永谷寺 at 2011年04月20日 09:29
>雲榮山さん
仏法値うことまれなり。
まことにありがたいお言葉を頂戴しました。精進、精進です。
頓首
仏法値うことまれなり。
まことにありがたいお言葉を頂戴しました。精進、精進です。
頓首
Posted by 泰明@西光寺
at 2011年04月20日 11:15

難しい問題です。実は私も同じような(?)問題意識をもっており、泰明さんと同じようなもの(?)を共有していることに少し感動しました。
西洋式の学問が導入されるとどうしてもオリジナルと非オリジナル、正統と異端を峻別してしまうことになってしまい、(現代の西洋思考慣れしてしまった)人の性か、どうしてもオリジナル=正統と考える節があるんですよね。私を含めて。
モンスーン気候発の世界宗教たる仏教はキリスト教、イスラム教とは根本的に違っていて、伝播した地域にあわせて根付いていったものですから、正統と非正統、オリジナルと非オリジナルの議論は基本的にはかなり不毛なものとなってしまうんですよね。むしろ、その中の変化を読み取って、それの流れを追い、あるいはルーツを洗い出すのが面白いんであって、オリジナルと非オリジナルを峻別して、非オリジナルを排除したり、非難するのはお門違いなんですよね。
けれども、多くの人が大学教育を受け、ある意味「科学教徒」となってしまい、オカルトをほとんど信じなくなってしまっている中で、仏教に対して葬式「のみ」を求めるのではなくなった現在、(あえて言うわせてもらいますが)儀礼重視、儀礼偏重のあり方を変えていかないと、この先やばいような気がせんでもありません。むろん、脱葬式仏教、脱儀礼というわけでは決して無く、そちらと並行しながら、社会的なニーズにも合わせていく必要があると思います。儀礼と仏教はむしろインド以来の伝統でなかなか切り離せるものでもないですし。
また、具体的な議論は会ったときにでも。
西洋式の学問が導入されるとどうしてもオリジナルと非オリジナル、正統と異端を峻別してしまうことになってしまい、(現代の西洋思考慣れしてしまった)人の性か、どうしてもオリジナル=正統と考える節があるんですよね。私を含めて。
モンスーン気候発の世界宗教たる仏教はキリスト教、イスラム教とは根本的に違っていて、伝播した地域にあわせて根付いていったものですから、正統と非正統、オリジナルと非オリジナルの議論は基本的にはかなり不毛なものとなってしまうんですよね。むしろ、その中の変化を読み取って、それの流れを追い、あるいはルーツを洗い出すのが面白いんであって、オリジナルと非オリジナルを峻別して、非オリジナルを排除したり、非難するのはお門違いなんですよね。
けれども、多くの人が大学教育を受け、ある意味「科学教徒」となってしまい、オカルトをほとんど信じなくなってしまっている中で、仏教に対して葬式「のみ」を求めるのではなくなった現在、(あえて言うわせてもらいますが)儀礼重視、儀礼偏重のあり方を変えていかないと、この先やばいような気がせんでもありません。むろん、脱葬式仏教、脱儀礼というわけでは決して無く、そちらと並行しながら、社会的なニーズにも合わせていく必要があると思います。儀礼と仏教はむしろインド以来の伝統でなかなか切り離せるものでもないですし。
また、具体的な議論は会ったときにでも。
Posted by てん at 2011年04月21日 00:11
>てん師
コメントありがとうございます。
>西洋式の学問が導入されるとどうしてもオリジナルと非オリジナル、正統と異端を峻別してしまうことになってしまい、(現代の西洋思考慣れしてしまった)人の性か、どうしてもオリジナル=正統と考える節があるんですよね。私を含めて。
…そうですね。私もつい最近まで、どうしても実証的なオリジナル=正統、だと思い込んでいたし、今も別にそれはそれでいいと思うんですけどね・・・でも、それだけじゃ理解できないというか。
>むしろ、その中の変化を読み取って、それの流れを追い、あるいはルーツを洗い出すのが面白いんであって、オリジナルと非オリジナルを峻別して、非オリジナルを排除したり、非難するのはお門違いなんですよね。
…そうそう!まさにそれですよ。ホントにそう思えるようになったのは最近の事。だからと言って、無条件で”現在の”修行道場の在り方を肯定できるかと言われると、否なんですが(あっ、これは内緒話ですな)
>けれども、多くの人が大学教育を受け、ある意味「科学教徒」となってしまい、オカルトをほとんど信じなくなってしまっている中で、
…う~ん、確かに大部分はそう思います。でも、逆にパワースポットとかヒーリングとかスピリチュアルを求める動向を見るにつけ、なんだかなぁ、と思わないでもないんです(笑)これって或る意味オカルトじゃないかと。
>むろん、脱葬式仏教、脱儀礼というわけでは決して無く、そちらと並行しながら、社会的なニーズにも合わせていく必要があると思います。儀礼と仏教はむしろインド以来の伝統でなかなか切り離せるものでもないですし。
…ホントにそうですね。私もとみに思います。だからこそ、きちんと今までの変遷を知っておき、儀礼的意味を理解しておかないと、これから新たな意味を賦活できないのではないかと思っています。
いつもご高説、ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
>西洋式の学問が導入されるとどうしてもオリジナルと非オリジナル、正統と異端を峻別してしまうことになってしまい、(現代の西洋思考慣れしてしまった)人の性か、どうしてもオリジナル=正統と考える節があるんですよね。私を含めて。
…そうですね。私もつい最近まで、どうしても実証的なオリジナル=正統、だと思い込んでいたし、今も別にそれはそれでいいと思うんですけどね・・・でも、それだけじゃ理解できないというか。
>むしろ、その中の変化を読み取って、それの流れを追い、あるいはルーツを洗い出すのが面白いんであって、オリジナルと非オリジナルを峻別して、非オリジナルを排除したり、非難するのはお門違いなんですよね。
…そうそう!まさにそれですよ。ホントにそう思えるようになったのは最近の事。だからと言って、無条件で”現在の”修行道場の在り方を肯定できるかと言われると、否なんですが(あっ、これは内緒話ですな)
>けれども、多くの人が大学教育を受け、ある意味「科学教徒」となってしまい、オカルトをほとんど信じなくなってしまっている中で、
…う~ん、確かに大部分はそう思います。でも、逆にパワースポットとかヒーリングとかスピリチュアルを求める動向を見るにつけ、なんだかなぁ、と思わないでもないんです(笑)これって或る意味オカルトじゃないかと。
>むろん、脱葬式仏教、脱儀礼というわけでは決して無く、そちらと並行しながら、社会的なニーズにも合わせていく必要があると思います。儀礼と仏教はむしろインド以来の伝統でなかなか切り離せるものでもないですし。
…ホントにそうですね。私もとみに思います。だからこそ、きちんと今までの変遷を知っておき、儀礼的意味を理解しておかないと、これから新たな意味を賦活できないのではないかと思っています。
いつもご高説、ありがとうございます。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年04月21日 09:38
「共同体としてのキリスト教」になじめない変人クリスチャンです(笑)。教会では( ´∀`)顔でやってますが。
私も少し前まで、正統の側にいる=自分は正しい、だから反対する者たちは間違っているという発想だったのですが、その反対の立場に立つことで、「こういう正統と異端という見方は、嫌だな~」と思って、離れることにしました。
>泰明さん
>パワースポットとかヒーリングとかスピリチュアル
これらもオカルトです。深く考えずに「私は無宗教です」とか「私は特定の宗教を信じません」と口で言っていても、パワースポットとかヒーリングとか占いとかを気にするというのが、その人が何に心を置いているのかをよく示しています。 「何も信仰していない」という人たちが、その実、信じていることがあることを、キリスト教とラカンの精神分析理論を使って暴露したのが、スラヴォイ・ジジェクの『信じるということ』です。
私も少し前まで、正統の側にいる=自分は正しい、だから反対する者たちは間違っているという発想だったのですが、その反対の立場に立つことで、「こういう正統と異端という見方は、嫌だな~」と思って、離れることにしました。
>泰明さん
>パワースポットとかヒーリングとかスピリチュアル
これらもオカルトです。深く考えずに「私は無宗教です」とか「私は特定の宗教を信じません」と口で言っていても、パワースポットとかヒーリングとか占いとかを気にするというのが、その人が何に心を置いているのかをよく示しています。 「何も信仰していない」という人たちが、その実、信じていることがあることを、キリスト教とラカンの精神分析理論を使って暴露したのが、スラヴォイ・ジジェクの『信じるということ』です。
Posted by ヒソカ at 2011年04月23日 00:09
あっ 遅くにスイマセン。。。
素直な意見いいですか?
面白かったけど一般の人にはちょっと難しい内容ですね^^
素直な意見いいですか?
面白かったけど一般の人にはちょっと難しい内容ですね^^
Posted by 家族葬専門葬儀社あおい葬祭 深谷憲弘 at 2011年05月04日 12:19
>深谷さん
いえいえ、大丈夫ですよ。
貴重なご意見、ありがとうございました。率直に言っていただいた方が、私も有り難いです。
そうですね・・・かなり分かりやすく書いているつもりなんですが、実は、お墓参りに来たお檀家さんにも「難しいこと書いとるね」とズバッと言われてしましました(笑)私の力不足です・・・(涙)
いえいえ、大丈夫ですよ。
貴重なご意見、ありがとうございました。率直に言っていただいた方が、私も有り難いです。
そうですね・・・かなり分かりやすく書いているつもりなんですが、実は、お墓参りに来たお檀家さんにも「難しいこと書いとるね」とズバッと言われてしましました(笑)私の力不足です・・・(涙)
Posted by 泰明@西光寺
at 2011年05月04日 12:31
