2011年05月02日
ビンラディンとアメリカとダンマパダ
『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。』(ダンマパダ:法句経,Ⅰ-5,岩波文庫,中村元訳)
作戦約40分間の末ビンラディン容疑者を殺害「正義を達成」(yahoo!ニュース)
***以下、抄出***
(CNN) オバマ米大統領は1日夜、国民に向けて演説し、米軍が同日パキスタンで実施した作戦で、国際テロ組織アルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が死亡したと発表した。ビンラディン容疑者は、3000人を超す犠牲者を出した2001年米同時多発テロの首謀者とされ、米国が10年以上前から行方を追っていた。
米政府高官がCNNに語ったところでは、米軍はパキスタンの首都イスラマバードから約100キロ北部にある邸宅でビンラディン容疑者を殺害したという。家族も一緒だったとされる。
大統領によれば、昨年8月の時点でパキスタン国内のビンラディン容疑者の潜伏先に関する情報を得たとの報告を受け、先週になって行動を起こせるだけの情報が集まったと判断した。「同容疑者の死は平和と人間の尊厳を信じるすべての人に歓迎されるだろう」「正義が実った」と述べた。
しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。
*******
ダンマパダ、またの名を法句経という最古の仏典の一つ、そしてその中でも超が付くほど有名な一句が、冒頭のものです。
戦後、サンフランシスコ講和会議でスリランカの時の首相(だったか大統領)が、この句を引いて、日本に対する賠償請求を破棄し、戦勝国で進められていた日本の分割統治を防いだ、と言われています。
中日新聞の夕刊にも書いてありましたが、結局、殺害したところで第二第三のビンラディンは出てくるわけで、負の連鎖は必定。大統領だって分かっていて、上記の発言をしたでしょうに・・・。
因みに、このダンマパダの句の前にはこうあります・・・
”「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに止むことはない。”
言うは易し、行うは難し、ですね。
しかし、仏教徒はこの句を胸に刻んで各人が生きなければならないと思います。
ブッダ最後の言葉とされる語も「怠ることなく修行を続けなさい」(大パリニッバーナ経)、「一心に出道を求むべし」(遺教経)ですから、何をおいても自己へのあくなき誓願、精進に裏打ちされるものでしょうから。だから集団でどうのこうのではなく、誰かに責任を負わせるでもなく、まず自分のその”怨み”を自らで断ち切れ、とブッダは教えたのでしょうね。

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作戦約40分間の末ビンラディン容疑者を殺害「正義を達成」(yahoo!ニュース)
***以下、抄出***
(CNN) オバマ米大統領は1日夜、国民に向けて演説し、米軍が同日パキスタンで実施した作戦で、国際テロ組織アルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が死亡したと発表した。ビンラディン容疑者は、3000人を超す犠牲者を出した2001年米同時多発テロの首謀者とされ、米国が10年以上前から行方を追っていた。
米政府高官がCNNに語ったところでは、米軍はパキスタンの首都イスラマバードから約100キロ北部にある邸宅でビンラディン容疑者を殺害したという。家族も一緒だったとされる。
大統領によれば、昨年8月の時点でパキスタン国内のビンラディン容疑者の潜伏先に関する情報を得たとの報告を受け、先週になって行動を起こせるだけの情報が集まったと判断した。「同容疑者の死は平和と人間の尊厳を信じるすべての人に歓迎されるだろう」「正義が実った」と述べた。
しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。
*******
ダンマパダ、またの名を法句経という最古の仏典の一つ、そしてその中でも超が付くほど有名な一句が、冒頭のものです。
戦後、サンフランシスコ講和会議でスリランカの時の首相(だったか大統領)が、この句を引いて、日本に対する賠償請求を破棄し、戦勝国で進められていた日本の分割統治を防いだ、と言われています。
中日新聞の夕刊にも書いてありましたが、結局、殺害したところで第二第三のビンラディンは出てくるわけで、負の連鎖は必定。大統領だって分かっていて、上記の発言をしたでしょうに・・・。
因みに、このダンマパダの句の前にはこうあります・・・
”「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに止むことはない。”
言うは易し、行うは難し、ですね。
しかし、仏教徒はこの句を胸に刻んで各人が生きなければならないと思います。
ブッダ最後の言葉とされる語も「怠ることなく修行を続けなさい」(大パリニッバーナ経)、「一心に出道を求むべし」(遺教経)ですから、何をおいても自己へのあくなき誓願、精進に裏打ちされるものでしょうから。だから集団でどうのこうのではなく、誰かに責任を負わせるでもなく、まず自分のその”怨み”を自らで断ち切れ、とブッダは教えたのでしょうね。

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この記事へのコメント
昼間のブログでは「死亡が確認された」でしたが、米軍によって殺害されたとはね・・・これは私も書かねばなりますまい。
Posted by kanegon
at 2011年05月02日 21:31

記事を読んで、私もうにゃうにゃしています。数日内に、何か書こうと思います。
そのダンマパダを読んで思い出したのは、マタイ福音書26章52節「剣を取る者は皆、剣で滅びる」です。
>まず自分のその”怨み”を自らで断ち切れ
他ならぬこの私が、固有名において、憎しみの連鎖を断ち切る。もちろん、誰かに頼まれたからやるのではない。止むに止まれぬ切迫を感じた人が行うのです。それは、あなたかもしれないし、私かもしれない。そんなことを思いました。
そのダンマパダを読んで思い出したのは、マタイ福音書26章52節「剣を取る者は皆、剣で滅びる」です。
>まず自分のその”怨み”を自らで断ち切れ
他ならぬこの私が、固有名において、憎しみの連鎖を断ち切る。もちろん、誰かに頼まれたからやるのではない。止むに止まれぬ切迫を感じた人が行うのです。それは、あなたかもしれないし、私かもしれない。そんなことを思いました。
Posted by ヒソカ at 2011年05月02日 21:38
>kanegon師
コメントありがとうございます。仰る通り、考えさせられる事件でした。アメリカの歓喜に沸く民衆とか、オバマ大統領の声明とか、海に投げ捨てられたビンラディンの遺体とか・・・。
>ヒソカさん
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」いい言葉ですね。確かkanegon師もブログで採り上げられていましたね。
>止むに止まれぬ切迫を感じた人が行うのです。それは、あなたかもしれないし、私かもしれない。
・・・まさにそうです。それは強制ではなく、自らが自らにおいて行うものです。だから難しい(笑)
ただ、ヒソカさんのようにこの語をご理解いただけるのは仏教徒でも稀ですが・・・(内緒)
コメントありがとうございます。仰る通り、考えさせられる事件でした。アメリカの歓喜に沸く民衆とか、オバマ大統領の声明とか、海に投げ捨てられたビンラディンの遺体とか・・・。
>ヒソカさん
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」いい言葉ですね。確かkanegon師もブログで採り上げられていましたね。
>止むに止まれぬ切迫を感じた人が行うのです。それは、あなたかもしれないし、私かもしれない。
・・・まさにそうです。それは強制ではなく、自らが自らにおいて行うものです。だから難しい(笑)
ただ、ヒソカさんのようにこの語をご理解いただけるのは仏教徒でも稀ですが・・・(内緒)
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年05月03日 09:07
昨日、ネットでこの出来事を知って本当に驚きました。
驚きのあまり、実家に電話をして、これはほんとの出来事なのかと
母に聞いてしまったほどです(実際、母に聞いてみたところでどうしようもない……。)
「ビンラディン氏の死が人々に歓迎される」とか
「正義が実った」とか……
いくら、テロの“怨み”があるからって
こんなふうに言うなんて、僕には理解できませんでした。
そして、なんだかよくわからない恐怖を感じました。
人ってこんな感情を持つこともできてしまうんだなぁ、って。
もちろん、テロであれ何であれ、人の命がむやみやたらに奪われることは
許されることではなし、怨まずにはいられない気持ちもわかるけれど、
“仕返し”とか、その類のものも、良いものではないはずです。
一度にたくさんの人の命が奪われるのを目の当たりにした人は
命の重みだとか、命を奪うという行為がどういうことなのかを
誰よりも知っているはずなのに……
なのになぜ……って、悲しい気持ちになりました。
怨みというのは
殺人をともなわない、もっとちいさなことがキッカケで生まれたものでも
とても大きな影響力をもっています。
1対1の人間関係でさえ崩壊させることだってできてしまう…。
だから、今回のように、国境まで越えてしまった怨みの
影響力の大きさはきっととてつもないものなんだろう、と思います。
同時に、ビンラディン氏の死が、新たな争いのきっかけではなく
これから先、怨みあうのをやめて
命を奪いあうような争いごとをなくしていくきっかけになればいいと
祈るばかりです。
驚きのあまり、実家に電話をして、これはほんとの出来事なのかと
母に聞いてしまったほどです(実際、母に聞いてみたところでどうしようもない……。)
「ビンラディン氏の死が人々に歓迎される」とか
「正義が実った」とか……
いくら、テロの“怨み”があるからって
こんなふうに言うなんて、僕には理解できませんでした。
そして、なんだかよくわからない恐怖を感じました。
人ってこんな感情を持つこともできてしまうんだなぁ、って。
もちろん、テロであれ何であれ、人の命がむやみやたらに奪われることは
許されることではなし、怨まずにはいられない気持ちもわかるけれど、
“仕返し”とか、その類のものも、良いものではないはずです。
一度にたくさんの人の命が奪われるのを目の当たりにした人は
命の重みだとか、命を奪うという行為がどういうことなのかを
誰よりも知っているはずなのに……
なのになぜ……って、悲しい気持ちになりました。
怨みというのは
殺人をともなわない、もっとちいさなことがキッカケで生まれたものでも
とても大きな影響力をもっています。
1対1の人間関係でさえ崩壊させることだってできてしまう…。
だから、今回のように、国境まで越えてしまった怨みの
影響力の大きさはきっととてつもないものなんだろう、と思います。
同時に、ビンラディン氏の死が、新たな争いのきっかけではなく
これから先、怨みあうのをやめて
命を奪いあうような争いごとをなくしていくきっかけになればいいと
祈るばかりです。
Posted by 志穏 at 2011年05月03日 11:53
仏様の言葉だったかで
『人を殺そうとして殺人を犯した人間』と『人を殺す気なく人を殺してしまった人間』どちらが罪深いか?
その問いに対し
『人をあやめるつもりなく殺人を犯してしまった者の方が罪が大きい』と…
理由は『仕方なく人を殺してしまったのだから…』そんな言い訳をし、人を殺してしまった事に罪の意識を感じないからだと…(違ったかな?)
今のアメリカは正にこのままの様に感じてなりません。
人を殺しても許される正義なんてあるんですかね…?
一概には言えませんが最近の日本にもこんな風潮が見え隠れしていて少し怖いです。
正しければ何をしても許されるはずもなく、疑問を持たない事が一番怖い気がします。
最近益々戦中の頃の思想に戻りつつある日本が怖いです。
『人を殺そうとして殺人を犯した人間』と『人を殺す気なく人を殺してしまった人間』どちらが罪深いか?
その問いに対し
『人をあやめるつもりなく殺人を犯してしまった者の方が罪が大きい』と…
理由は『仕方なく人を殺してしまったのだから…』そんな言い訳をし、人を殺してしまった事に罪の意識を感じないからだと…(違ったかな?)
今のアメリカは正にこのままの様に感じてなりません。
人を殺しても許される正義なんてあるんですかね…?
一概には言えませんが最近の日本にもこんな風潮が見え隠れしていて少し怖いです。
正しければ何をしても許されるはずもなく、疑問を持たない事が一番怖い気がします。
最近益々戦中の頃の思想に戻りつつある日本が怖いです。
Posted by ホシヲ at 2011年05月04日 01:56
>志穏さん
素晴らしいコメントありがとうございます!
そうですね、やはり私たちは日本人であるが故、そうした感情は立場的にも、また民俗的にも理解しがたいのだと思います。しかし、だからと言って、仰る通り「命が奪われて良いもの」ではありません。
集団とは恐ろしいもので、いか様にも変化していきます。例え、その中の人が声高に「反対!」と唱えても、集団の力でかき消され、圧殺され、もみ消されてしまう。必ずしもいいものではないんです。さらには民族というアイデンティティ・イデオロギーが加わると、(また、”加わりやすい”ということでもあります)手が付けられない。
もしかしたら、ブッダはそれを知っていたから、「サイの角のように、ただ一人で歩め」とか今回採り上げた言葉のように「自分で自分の怨みを止める」ことを教えたのかもしれません。
志穏さんの仰る通りで、この凄惨な出来事を他人事として受け取らず、それによって自らが自らに誓願を立てる、自制をする、反省をする、こうしたことが生きている我々、また直接的な関係のない我々のすべきことだと思います。
>ホシヲさん
こんにちは。お風邪はどうですか?
私も詳しくは存じませんが、たしか律(=仏教集団の掟)関係の中にそうした事例があったと記憶しています。残念ながら不勉強+律自体、膨大な量らしいので、よくわかりませんが・・・(汗)すみません。
カネゴンさんも言われていましたが、私も憲法9条を愚直に守るべきだと思います。仰る通り、人を殺してまで許される正義なんて、ほとんどないと思います。
疑いを抱かない・・・確かに恐ろしいことです。
私が思うに、「疑いをまず抱く」ことは、ひねくれているという意味ではなく、実は本来の宗教者が宗教者たる一因だと思いますし、私も「時代の風潮」に反していても、”このような正義は許されるべきではない”と訴えたいです。
素晴らしいコメントありがとうございます!
そうですね、やはり私たちは日本人であるが故、そうした感情は立場的にも、また民俗的にも理解しがたいのだと思います。しかし、だからと言って、仰る通り「命が奪われて良いもの」ではありません。
集団とは恐ろしいもので、いか様にも変化していきます。例え、その中の人が声高に「反対!」と唱えても、集団の力でかき消され、圧殺され、もみ消されてしまう。必ずしもいいものではないんです。さらには民族というアイデンティティ・イデオロギーが加わると、(また、”加わりやすい”ということでもあります)手が付けられない。
もしかしたら、ブッダはそれを知っていたから、「サイの角のように、ただ一人で歩め」とか今回採り上げた言葉のように「自分で自分の怨みを止める」ことを教えたのかもしれません。
志穏さんの仰る通りで、この凄惨な出来事を他人事として受け取らず、それによって自らが自らに誓願を立てる、自制をする、反省をする、こうしたことが生きている我々、また直接的な関係のない我々のすべきことだと思います。
>ホシヲさん
こんにちは。お風邪はどうですか?
私も詳しくは存じませんが、たしか律(=仏教集団の掟)関係の中にそうした事例があったと記憶しています。残念ながら不勉強+律自体、膨大な量らしいので、よくわかりませんが・・・(汗)すみません。
カネゴンさんも言われていましたが、私も憲法9条を愚直に守るべきだと思います。仰る通り、人を殺してまで許される正義なんて、ほとんどないと思います。
疑いを抱かない・・・確かに恐ろしいことです。
私が思うに、「疑いをまず抱く」ことは、ひねくれているという意味ではなく、実は本来の宗教者が宗教者たる一因だと思いますし、私も「時代の風潮」に反していても、”このような正義は許されるべきではない”と訴えたいです。
Posted by 泰明@西光寺
at 2011年05月04日 11:46

哲学者のエマニュエル・レヴィナスは「一神教は疑念、孤独、反抗の年齢に達していない者には不可能です」と述べ、無神論の危険を冒さないところには信仰はない、とある本で述べています。仏教には、アブラハム宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)のように神という絶対者がいませんけれど、このレヴィナスの言葉は信仰全般に当てはまる気がします。
ホシヲさんがいみじくも言われたように、疑問を持たないことが一番怖いのです。
教会の牧師や仏僧に、自分の判断を委ねるのは、信頼ではなく、依存であり、思考停止です。でも、なぜかそれを混同している人がキリスト教会には多い気がします。
南直哉師が高校生の時分に出会った牧師は、信仰が何かを本当によく知っていたのだと思います。
ホシヲさんがいみじくも言われたように、疑問を持たないことが一番怖いのです。
教会の牧師や仏僧に、自分の判断を委ねるのは、信頼ではなく、依存であり、思考停止です。でも、なぜかそれを混同している人がキリスト教会には多い気がします。
南直哉師が高校生の時分に出会った牧師は、信仰が何かを本当によく知っていたのだと思います。
Posted by ヒソカ at 2011年05月04日 12:52
>ヒソカさん
コメントありがとうございます。
「一神教は疑念、孤独、反抗の年齢に達していない者には不可能です」、レヴィナス氏の言葉は興味深いですね。仏教に引き当てても、通仏教的に考えると、「孤独を愛せ」(ダンマパダとかスッタニパータ等の原始仏典にみえる)とか、「世間の善悪に捕われるべきではない」(道元禅師の説話集『正法眼蔵随聞記』)など、太古の昔より、言われ続けてきているのかもしれませんね。
南師のエピソードは私も好きです。あの牧師さんは素晴らしい。
結局、自分が”カリスマ僧侶”になってしまっては、仏教であろうと他の宗教であろうと、結果”自分教”に信者を入信させることになる。新興宗教ならそれでもいいのかもしれませんが、それでは一体、その”自分教”の教祖になってしまった自分は、何を信じ、どこに安心を求めればいいのか・・・。
私も常々考えている疑問です。宗教者には、特に気を付けなければならない問題です。 合掌
コメントありがとうございます。
「一神教は疑念、孤独、反抗の年齢に達していない者には不可能です」、レヴィナス氏の言葉は興味深いですね。仏教に引き当てても、通仏教的に考えると、「孤独を愛せ」(ダンマパダとかスッタニパータ等の原始仏典にみえる)とか、「世間の善悪に捕われるべきではない」(道元禅師の説話集『正法眼蔵随聞記』)など、太古の昔より、言われ続けてきているのかもしれませんね。
南師のエピソードは私も好きです。あの牧師さんは素晴らしい。
結局、自分が”カリスマ僧侶”になってしまっては、仏教であろうと他の宗教であろうと、結果”自分教”に信者を入信させることになる。新興宗教ならそれでもいいのかもしれませんが、それでは一体、その”自分教”の教祖になってしまった自分は、何を信じ、どこに安心を求めればいいのか・・・。
私も常々考えている疑問です。宗教者には、特に気を付けなければならない問題です。 合掌
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年05月05日 09:17