2011年05月10日
僧侶の疑問
「お寺が岐路に立たされている」、「信仰心がなくなった」、「直葬が流行って、だれも僧侶にお経を頼まない。」「お寺離れ」など、こうしたことは、とどのつまり”何が”危ういのか、本当に考えなければならない。(先日の会議で思ったことを、自問しつつ掘り下げてみたいです)
収入が少なくなることなのか、寺院の経営が立ち行かなくなることなのか、或いは仏教を学び、弟子を育てられずに、仏教の教えを断絶させてしまう事なのか。どこが「危機」で何が「問題」なのか。
存続や運営、発展が第一に考えるのであれば、それらはすべてお金に関わってくる問題と言わざるを得ない。言い方は悪いが、商売のためのお経であり、会社としてのお寺である。
もちろん、こうしたことはいつの時代にも問題になっていたであろう。
しかし、現代は、同じ住職(本来は住持、という言葉が適切)と言っても、過去のそれとは違う意味・ベクトルでの制約を受けているのではないか。つまり、商売のためにお経をよみ、会社としてお寺を運営・経営させなければならない責任もあるはずなのである。
例えば、宗教法人法。これはお寺はおろか、教会や神社、すべてに関わってくる国の法律。
そして包括宗教法人としての「曹洞宗」。曹洞宗寺院が曹洞宗寺院でいるための規定・法規・費用がある。細かく言えば、その下に「管区」があり、「宗務所」があり、「教区」がある。
市や県と言った行政区分での超宗派の「会」もあれば、ごく小さなエリアでの「伝統・習俗」も根強い。
そしてそれ以前に、僧侶は一般人と何ら変わりのない税金の納付がある。(今でも、”坊主は税金払わんくて、丸儲け出来ていいな”と言われるが、逆に”何が無税なのか知ってるのか?”とこちらが聞くと、大抵答えられないか、”所得税”だという。・・・話になりません。所得税は当然納付しています。勉強しましょうね)
こうしたことが、上記の言う「現代のお寺に課せられた問題」なのであり、これをクリアして初めて、ようやく「仏教を学び、仏教を育てる」ことができるのかもしれない。
これはつまり、お寺と言っても、所詮は一般の枠(日本社会におけるルール、法律)に規定されながら、しかし同時にそこでは規定できない、仏教や宗派や諸々のそうした「別の枠組み=ルール・仕来り」も依然としてはっきり存在する。曰く「一般家庭を持ちながらの修行」「本寺、末寺との関係」「檀家、信徒の区別」「修行制度や弟子を育てる課程」などなど。それを両立させること、実現させることはそう容易いものではない。
もっとも、これには反論もあろう。教区との関係も希薄で、本末関係もなく、檀家さんを持たず、深山幽谷に住み「仏教を守り、弟子を育てる」ことができると思われる方もいらっしゃるだろう。実際に檀家がいない寺院もあるじゃないか、と。もちろん、それには反論の余地はない。
では、いったい、何が一番大切で、何を守ればよいのか。”深山幽谷で一箇半箇を接得”するのが一番なのか。檀家さんの気持ちをくみ取りお寺を大きくすることなのか。仏教を守るのか、お寺自体なのか、或いは僧侶自身の収入か、僧侶の家族を守ることなのか・・・。(きっと、”どれも大事”なんでしょうが・・・)
檀家さんの気持ちに応える、或いは悲しみや喜びをくみ取り、我が事のように思う、これは当然のこと。しかしそれを追い求めすぎると、結局は単純なサーヴィス業になってしまう。(サービス業を否定したり、見下しているのではありません、念のため。そうではなく、僧侶はサービス業”だけ”ではないのです。もし葬儀サービス・法要サービスだけだったら、”研修”は必要でも”修行”する必要は全くないでしょう)
そうなってくると、結局は”料金”(=サービスの対価)としてしか儀式を見ないことになり、僧侶からしても”価格競争”が生まれるのは必至。
「何故それがいけないのか」とおもう向きもあるかもしれない。世の中、そんなもんだ、と。だいいち、檀家さんにとっても「より安い」方がいいに決まっているではないか、と。
しかし、サービス業のみとしての「葬儀」或いは「法事」に何か意味があるのだろうか。それはきちんと仏教を学び、自ら修行し続ける者ではなくても、できてしまう事ではないか。
もう一度、繰り返すが、あくまで檀家さんの気持ちに応えるのは、僧侶としての「慈悲心」に裏打ちされたものであるべきだと思う。
「それは理想論」「綺麗ごとだ」、同じ僧侶にさえ、そう思われても仕方がないが、逆に上記の通り、”それ(慈悲心の表現)をなくしては、なりたたない”と思うし、もっと言えば、”そんなに毛嫌いするならやめちまえ”とも思う。(←これは一般の方には、かなり理解しずらいことでしょうね。それもよく分かります。でも、ここはハッキリさせなければいけないと思います)
それから別の角度。
発展すること、繁栄すること、卑近に言えば”儲かること”が、果たして仏教において、お寺において”善”なのだろうか。もちろん、一般の会社ならそうであろうし、そこは問題ではない。ただ、一般の会社ですら「利潤追求ではなく、社会的貢献」(=CSR・・・コーポレイト・ソーシャル・レスポンシビリティ)を重視するところも出てきている。
そういう世の中において、どんどんお寺を大きくしようとするのは、何故かズレているように見えてしまう。より多くの人を救うのはいい。だが、”結果大きくなる”のはいいが、”大きくする”のが目的では変である。
ただし、肝に銘じなければいけないのは、一般人の想像以上に、お寺は貧富の差が激しい。どの統計だったか忘れてしまったが、僧侶の60%(か、70%)は「お寺だけで」食べてはいけない。加えて、曹洞宗の僧侶の平均年収は350万円。この金額が多いか、少ないのかは経済の専門ではないので、私には答えかねるが、それでも「勝ち組」の金額では決してないはずですある。
つまり、「坊主丸儲け」なお寺は、どこかに実在するはずであるが、それは砂漠の砂を一握する程度。(しかも首都圏では、そういう寺は単立=曹洞宗を脱退、になってたりする)
ほとんどの僧侶は、兼業をして収入を安定させ、そのお金で寺院を存続させているのが実情である。
そうした中で、”生き残ったお寺が正義”みたいな考えもどうかと思う。
*****************
・・・何か、赴くままにキーをたたいていたら、完全にまとまらない話(笑)になってきたので、今日はこの辺でやめますが、とにかく、私自身もよく分からないし悩んでいるのです。ガツンと教えてくれる方、是非ご教授ください。忌憚のないご意見をお待ちしています。
あ、それから自覚的に書いていますが、別に教団の批判をしようとか、逆に一般人の知識のなさを攻撃しようとか、そういう意図は一毫もありません。
ただ、今まで、こうした内部事情的なことは、ほとんど知られていなかったのではないかと思うのです。そういう意味で、刺激が強い(笑)し、僧侶にしてみれば、恥部を曝すような行為かもしれません。
そうであっても、言わなければならないことのような気がして、書いてしまいました(笑)

にほんブログ村
収入が少なくなることなのか、寺院の経営が立ち行かなくなることなのか、或いは仏教を学び、弟子を育てられずに、仏教の教えを断絶させてしまう事なのか。どこが「危機」で何が「問題」なのか。
存続や運営、発展が第一に考えるのであれば、それらはすべてお金に関わってくる問題と言わざるを得ない。言い方は悪いが、商売のためのお経であり、会社としてのお寺である。
もちろん、こうしたことはいつの時代にも問題になっていたであろう。
しかし、現代は、同じ住職(本来は住持、という言葉が適切)と言っても、過去のそれとは違う意味・ベクトルでの制約を受けているのではないか。つまり、商売のためにお経をよみ、会社としてお寺を運営・経営させなければならない責任もあるはずなのである。
例えば、宗教法人法。これはお寺はおろか、教会や神社、すべてに関わってくる国の法律。
そして包括宗教法人としての「曹洞宗」。曹洞宗寺院が曹洞宗寺院でいるための規定・法規・費用がある。細かく言えば、その下に「管区」があり、「宗務所」があり、「教区」がある。
市や県と言った行政区分での超宗派の「会」もあれば、ごく小さなエリアでの「伝統・習俗」も根強い。
そしてそれ以前に、僧侶は一般人と何ら変わりのない税金の納付がある。(今でも、”坊主は税金払わんくて、丸儲け出来ていいな”と言われるが、逆に”何が無税なのか知ってるのか?”とこちらが聞くと、大抵答えられないか、”所得税”だという。・・・話になりません。所得税は当然納付しています。勉強しましょうね)
こうしたことが、上記の言う「現代のお寺に課せられた問題」なのであり、これをクリアして初めて、ようやく「仏教を学び、仏教を育てる」ことができるのかもしれない。
これはつまり、お寺と言っても、所詮は一般の枠(日本社会におけるルール、法律)に規定されながら、しかし同時にそこでは規定できない、仏教や宗派や諸々のそうした「別の枠組み=ルール・仕来り」も依然としてはっきり存在する。曰く「一般家庭を持ちながらの修行」「本寺、末寺との関係」「檀家、信徒の区別」「修行制度や弟子を育てる課程」などなど。それを両立させること、実現させることはそう容易いものではない。
もっとも、これには反論もあろう。教区との関係も希薄で、本末関係もなく、檀家さんを持たず、深山幽谷に住み「仏教を守り、弟子を育てる」ことができると思われる方もいらっしゃるだろう。実際に檀家がいない寺院もあるじゃないか、と。もちろん、それには反論の余地はない。
では、いったい、何が一番大切で、何を守ればよいのか。”深山幽谷で一箇半箇を接得”するのが一番なのか。檀家さんの気持ちをくみ取りお寺を大きくすることなのか。仏教を守るのか、お寺自体なのか、或いは僧侶自身の収入か、僧侶の家族を守ることなのか・・・。(きっと、”どれも大事”なんでしょうが・・・)
檀家さんの気持ちに応える、或いは悲しみや喜びをくみ取り、我が事のように思う、これは当然のこと。しかしそれを追い求めすぎると、結局は単純なサーヴィス業になってしまう。(サービス業を否定したり、見下しているのではありません、念のため。そうではなく、僧侶はサービス業”だけ”ではないのです。もし葬儀サービス・法要サービスだけだったら、”研修”は必要でも”修行”する必要は全くないでしょう)
そうなってくると、結局は”料金”(=サービスの対価)としてしか儀式を見ないことになり、僧侶からしても”価格競争”が生まれるのは必至。
「何故それがいけないのか」とおもう向きもあるかもしれない。世の中、そんなもんだ、と。だいいち、檀家さんにとっても「より安い」方がいいに決まっているではないか、と。
しかし、サービス業のみとしての「葬儀」或いは「法事」に何か意味があるのだろうか。それはきちんと仏教を学び、自ら修行し続ける者ではなくても、できてしまう事ではないか。
もう一度、繰り返すが、あくまで檀家さんの気持ちに応えるのは、僧侶としての「慈悲心」に裏打ちされたものであるべきだと思う。
「それは理想論」「綺麗ごとだ」、同じ僧侶にさえ、そう思われても仕方がないが、逆に上記の通り、”それ(慈悲心の表現)をなくしては、なりたたない”と思うし、もっと言えば、”そんなに毛嫌いするならやめちまえ”とも思う。(←これは一般の方には、かなり理解しずらいことでしょうね。それもよく分かります。でも、ここはハッキリさせなければいけないと思います)
それから別の角度。
発展すること、繁栄すること、卑近に言えば”儲かること”が、果たして仏教において、お寺において”善”なのだろうか。もちろん、一般の会社ならそうであろうし、そこは問題ではない。ただ、一般の会社ですら「利潤追求ではなく、社会的貢献」(=CSR・・・コーポレイト・ソーシャル・レスポンシビリティ)を重視するところも出てきている。
そういう世の中において、どんどんお寺を大きくしようとするのは、何故かズレているように見えてしまう。より多くの人を救うのはいい。だが、”結果大きくなる”のはいいが、”大きくする”のが目的では変である。
ただし、肝に銘じなければいけないのは、一般人の想像以上に、お寺は貧富の差が激しい。どの統計だったか忘れてしまったが、僧侶の60%(か、70%)は「お寺だけで」食べてはいけない。加えて、曹洞宗の僧侶の平均年収は350万円。この金額が多いか、少ないのかは経済の専門ではないので、私には答えかねるが、それでも「勝ち組」の金額では決してないはずですある。
つまり、「坊主丸儲け」なお寺は、どこかに実在するはずであるが、それは砂漠の砂を一握する程度。(しかも首都圏では、そういう寺は単立=曹洞宗を脱退、になってたりする)
ほとんどの僧侶は、兼業をして収入を安定させ、そのお金で寺院を存続させているのが実情である。
そうした中で、”生き残ったお寺が正義”みたいな考えもどうかと思う。
*****************
・・・何か、赴くままにキーをたたいていたら、完全にまとまらない話(笑)になってきたので、今日はこの辺でやめますが、とにかく、私自身もよく分からないし悩んでいるのです。ガツンと教えてくれる方、是非ご教授ください。忌憚のないご意見をお待ちしています。
あ、それから自覚的に書いていますが、別に教団の批判をしようとか、逆に一般人の知識のなさを攻撃しようとか、そういう意図は一毫もありません。
ただ、今まで、こうした内部事情的なことは、ほとんど知られていなかったのではないかと思うのです。そういう意味で、刺激が強い(笑)し、僧侶にしてみれば、恥部を曝すような行為かもしれません。
そうであっても、言わなければならないことのような気がして、書いてしまいました(笑)

にほんブログ村
この記事へのコメント
とんち話の「一休さん」でなく、
「一休和尚」を参考にしてみたらいかがでしょう。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94
「一休和尚」を参考にしてみたらいかがでしょう。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94
Posted by 青蛉返 at 2011年05月10日 15:18
まず自分がどうしたいかどうなりたいか?からじゃないかな?
Posted by ホシヲ at 2011年05月10日 15:20
僕の中学生レベルの日本史の知識と、
高校生レベルの世界史の知識を引っ張り出してきても、
「宗教」というのは、政治や社会の風潮の影響をかなり受けてきていると
感じていますし、たぶんそれはこれからも変わらないんだと思います。
ただ、今の世の中の人は
さまざまな知識を持っているし
“客”という立場の強さは揺るがないものだと信じて、その地位に居座るし
何に対しても“サービス”を求めるし……。
歴史の教科書に載ってる時代よりも、悩まないといけないことが多いうえに
複雑なんだろうなぁ、とも思います。
けれども、ずっと昔から今まで、こうして宗教は続いてきていますし…
一般の人だったらしないような修行をしてきた人たちならば、
どんなに難しい状況でもきっと、生き残っていく道を見つけられると
僕は信じてます!!
あ、あと、このブログは僕にとって、「反面教師」ではなく
「良い教師(?)」です!!
友達との会話では話題にならない内容だったりして面白いですし…★
高校生レベルの世界史の知識を引っ張り出してきても、
「宗教」というのは、政治や社会の風潮の影響をかなり受けてきていると
感じていますし、たぶんそれはこれからも変わらないんだと思います。
ただ、今の世の中の人は
さまざまな知識を持っているし
“客”という立場の強さは揺るがないものだと信じて、その地位に居座るし
何に対しても“サービス”を求めるし……。
歴史の教科書に載ってる時代よりも、悩まないといけないことが多いうえに
複雑なんだろうなぁ、とも思います。
けれども、ずっと昔から今まで、こうして宗教は続いてきていますし…
一般の人だったらしないような修行をしてきた人たちならば、
どんなに難しい状況でもきっと、生き残っていく道を見つけられると
僕は信じてます!!
あ、あと、このブログは僕にとって、「反面教師」ではなく
「良い教師(?)」です!!
友達との会話では話題にならない内容だったりして面白いですし…★
Posted by 志穏 at 2011年05月10日 18:56
学の無い僕には正直難しい話題の
毎日です。
しかしわからないなりに勉強させていただいています。
今まで知らなかった事、聞きたかった事、
不思議に思っていた事・・・
僧侶のブログで僕みたいな頭の悪いのも含めて
興味を持って見ている人がたくさんみえます。
僧侶の思い、悩み、愚痴、どんどん書いて下さい!
あっ、もちろん書ける範囲で・・・(笑)
毎日です。
しかしわからないなりに勉強させていただいています。
今まで知らなかった事、聞きたかった事、
不思議に思っていた事・・・
僧侶のブログで僕みたいな頭の悪いのも含めて
興味を持って見ている人がたくさんみえます。
僧侶の思い、悩み、愚痴、どんどん書いて下さい!
あっ、もちろん書ける範囲で・・・(笑)
Posted by お仏壇の分解クリーニング 夢助工房
at 2011年05月10日 23:45

>青蛉返さま
ご教示、ありがとうございます。一休さん、いいですね。その書も見たことがありますが、厳格にして粋狂な感じでした。
>ホシヲさん
それがハッキリ見えればいいのですが・・・。まぁこの世界では若造なので(笑)まだまだ悩んどりますよ。
>志穏さん
コメントありがとうございます。
そうですね。宗教は、政治・社会に影響を受けると同時に、逆に影響を与え続けてもきました。高校の世界史などではあまり教えてくれませんが、現在、私たち日本人が”普通の社会”だと思っている事柄も、実は”中世キリスト教を主体とした社会”だったりします。
ともあれ、そうですね。「宗教の危機」というのは今に始まったことでもないですし、そもそも日本人は、”〇〇教”と言ったものに対する信仰心は遥か昔からあんまりないそうです。(とはいえ、信仰心がないかといえば、そうではなくて、基本的に宗派や宗旨に興味がないのかもしれません)
こんな情けないブログですが(笑)、楽しみにしてくださって、ホントにうれしいです。これからもよろしくお願いします。
>夢助工房さん
ありがとうございます。
・・・僧侶同士でも(逆に僧侶同士だから)、こうした話ができるのは稀です。
でも、そうしたことを聞いてくださる方(夢助さん含め)がいらっしゃるのは、有り難いことですし、励みにもなります。
ご教示、ありがとうございます。一休さん、いいですね。その書も見たことがありますが、厳格にして粋狂な感じでした。
>ホシヲさん
それがハッキリ見えればいいのですが・・・。まぁこの世界では若造なので(笑)まだまだ悩んどりますよ。
>志穏さん
コメントありがとうございます。
そうですね。宗教は、政治・社会に影響を受けると同時に、逆に影響を与え続けてもきました。高校の世界史などではあまり教えてくれませんが、現在、私たち日本人が”普通の社会”だと思っている事柄も、実は”中世キリスト教を主体とした社会”だったりします。
ともあれ、そうですね。「宗教の危機」というのは今に始まったことでもないですし、そもそも日本人は、”〇〇教”と言ったものに対する信仰心は遥か昔からあんまりないそうです。(とはいえ、信仰心がないかといえば、そうではなくて、基本的に宗派や宗旨に興味がないのかもしれません)
こんな情けないブログですが(笑)、楽しみにしてくださって、ホントにうれしいです。これからもよろしくお願いします。
>夢助工房さん
ありがとうございます。
・・・僧侶同士でも(逆に僧侶同士だから)、こうした話ができるのは稀です。
でも、そうしたことを聞いてくださる方(夢助さん含め)がいらっしゃるのは、有り難いことですし、励みにもなります。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年05月11日 09:18
お疲れ様です。答えのないコメントですが・・・
私の思ったこと、感じた事を書かせて下さい。気分を悪くさせてしまったら申し訳ありません。
一般の人は和尚様をなんだかんだ言っても聖者のような存在に感じている部分が大きいと思います。
だから直葬のようなシンプルなプランを選択しても火葬炉に入る前には「お経が欲しい」と言ってくれるのです。ありがたい事ですね
それが曹洞宗でも浄土宗でも臨済宗でもキチンと修行した和尚様に読んでいただければそれで満足しています。
宗派にこだわる人はほとんどいません。
自分の家の菩提寺の宗派を知っている人は意外に少ないのが現実です。
それからお寺はお寺様のものだお寺様の家だと思っている人がほとんどだと思います。自分たち檀家さんはお寺が困っていても関係ないよって感じで「寄付」がきたら大騒ぎ・・・でもこれって原因はどちらにもあるように思えます。 お檀家さんもお寺の仕組みを勉強する必要があるしお寺様もそれを伝える必要があります。
新興宗教と言われる宗教の信者さんたちってその宗教の事をスゴク理解していますよね。あれは両者の努力じゃないでしょうか?
私は自分の家のお寺にはどんどん発展していってもらいたいと思っています。 お寺が発展することは悪ではないと思っていますので、でもどんなに大きくなっても檀家さんの声がキチンと届くお寺であってほしいと考えます。
つまらない事ばかり書いてしまい申し訳ありませんでした・・・
私の思ったこと、感じた事を書かせて下さい。気分を悪くさせてしまったら申し訳ありません。
一般の人は和尚様をなんだかんだ言っても聖者のような存在に感じている部分が大きいと思います。
だから直葬のようなシンプルなプランを選択しても火葬炉に入る前には「お経が欲しい」と言ってくれるのです。ありがたい事ですね
それが曹洞宗でも浄土宗でも臨済宗でもキチンと修行した和尚様に読んでいただければそれで満足しています。
宗派にこだわる人はほとんどいません。
自分の家の菩提寺の宗派を知っている人は意外に少ないのが現実です。
それからお寺はお寺様のものだお寺様の家だと思っている人がほとんどだと思います。自分たち檀家さんはお寺が困っていても関係ないよって感じで「寄付」がきたら大騒ぎ・・・でもこれって原因はどちらにもあるように思えます。 お檀家さんもお寺の仕組みを勉強する必要があるしお寺様もそれを伝える必要があります。
新興宗教と言われる宗教の信者さんたちってその宗教の事をスゴク理解していますよね。あれは両者の努力じゃないでしょうか?
私は自分の家のお寺にはどんどん発展していってもらいたいと思っています。 お寺が発展することは悪ではないと思っていますので、でもどんなに大きくなっても檀家さんの声がキチンと届くお寺であってほしいと考えます。
つまらない事ばかり書いてしまい申し訳ありませんでした・・・
Posted by 家族葬専門葬儀社あおい葬祭 深谷憲弘 at 2011年05月12日 12:28
>深谷さん
大変ありがたいコメントをいただきました。気分を害するなど、とんでもないことです。反対に私にとっては何よりのご示唆です。
「聖者のような存在に感じている部分」・・・確かにその通りですね。もしくは正反対に「僧侶=生臭坊主」の部分もありますが・・・。
宗派にこだわる人は、確かにいないですよね。私もそう思います。
一番大事なことを、深谷さんは仰ってくれました。それは「お檀家さんもお寺の仕組みを勉強する必要があるし、お寺様もそれを伝える」ことです。
私も、まったくその通りだと思います。ですから、今回のような記事は、かなりお寺サイドからの批判がくるような内容だったりします。(だってだれも言いませんし)でも、痛みを伴っても変えなくちゃいけない、とも思ったりします。
深谷さんの言われるように、大きくてもきちんと檀家さんの声が届き、檀家さんとお寺とが共に手を取り合っていけるお寺が私の理想です。
大変ありがたいコメントをいただきました。気分を害するなど、とんでもないことです。反対に私にとっては何よりのご示唆です。
「聖者のような存在に感じている部分」・・・確かにその通りですね。もしくは正反対に「僧侶=生臭坊主」の部分もありますが・・・。
宗派にこだわる人は、確かにいないですよね。私もそう思います。
一番大事なことを、深谷さんは仰ってくれました。それは「お檀家さんもお寺の仕組みを勉強する必要があるし、お寺様もそれを伝える」ことです。
私も、まったくその通りだと思います。ですから、今回のような記事は、かなりお寺サイドからの批判がくるような内容だったりします。(だってだれも言いませんし)でも、痛みを伴っても変えなくちゃいけない、とも思ったりします。
深谷さんの言われるように、大きくてもきちんと檀家さんの声が届き、檀家さんとお寺とが共に手を取り合っていけるお寺が私の理想です。
Posted by 泰明@西光寺
at 2011年05月13日 10:29
