2011年05月11日

僧侶の疑問 (まだまだある)

「お寺が岐路に立たされている」、「信仰心がなくなった」、「直葬が流行って、だれも僧侶にお経を頼まない。」「お寺離れ」など、こうしたことは、とどのつまり”何が”危ういのか、本当に考えなければならない。(先日の会議でふと思ったこと。その2です)


信仰心がなくなった、科学や理論だけが重要視されて、その他のものは不必要な迷信紛いのものだという考えが流布している。

では、いったい、そこの何が問題なのであろうか?私が先日聞いた話で、それが一番の疑問であった。

ただ、ひとつ、私が思うところもある。

それは、宗教というのは、たぶん、不条理な現実を認識して、絶対的な力で立ちはだかるそれと自分との折り合いをつけるために必要なものなのではないだろうか。

例えば、在家から出家(一般家庭に生まれて、決意や縁があって出家した人)された僧侶は大抵のところ、こうした問題が引き金となっているように思う。(大智禅師も、「菩提心とは”無常を観ずる心”」、と書かれていたと記憶しています。)

具体的に言えば、大病をして生死の境ををさまよった、とか、生死を分けるような事故やショックを受けるような出来事が身の上に起きたとか、誰かの死が引き金になったとか、枚挙に暇がない。これらの事を鑑みるに、不条理な現実、自分の力が全く及ばない現実を目の当たりにし、骨の髄まで身に染みたことがあるからこそ、どこかで折り合いを付けなければならない、と強く感じたのだろう。それに、もし付けられなかったら、とっくに死んでいる。

そうした自分の中での折り合いが、大なり小なり人間生活を送る上で必須のものではないか、と思う。

(ただ、こう書くと、「お寺で生まれ育った僧侶には、そうした気概はないのか」と疑問に思われる向きもあろう。それに「お寺のボンボン」より「生死をさまよって出家した」僧侶の方が、良さそうではないか、とも。これ、端的に言えば、非常に短絡的な先入観・偏見だと思います。何故、後者の僧侶の方が”良い”と言えるのでしょうか。それをどうして比定できるのでしょうか。これについては別の機会に・・・。あ、ついでにもうご存知でしょうけど、その区分で言ったら、私も「お寺のボンボン」ですnico


・・・などと愚考していたら、ナイスタイミングで内田樹氏がこんなことをブログで書かれていた。

(これは本当に余談です。私は、内田氏の著書はいまだに読んでませんが、ブログの文章を拝読するに、こういうのが真に”宗教的”思考なのか、と時々感じます。そこには、キリスト者であっても、イエス以外の、それこそ仏教などについても触れられています。しかし、そこに皆さんが思い描く”宗教めいたもの”は微塵もないし、感じ取ることも出来ないはずです。だがしかし、だからこそ、「宗教」というものを、一緒にきちんと考えてみませんか?そうした時に、彼の文章が非常によく分かるかもしれませんよ。)

****(内田樹氏のブログを抄出)********
+++全文はコチラ+++
「弁慶のデインジャー対応について」
WTCテロの日も、「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分がした」のでビルを離れた人が何人もいた。
彼らがなぜ危機を回避できたのかをエビデンス・ベースで示すことは誰にもできない。

「ただの偶然だ。理屈をつけるな」と眼を三角にして怒る人がいるけれど、そういう人には「そうですよね」と言ってお引き取り願うしかない。

けれども、「どうして私だけが生き残ったのか、理由がわからない」ということは、よくある。その場合に「単なる偶然である」と言って済ませることのできる人はきわめて少ない。

ほとんどの人は「自分だけが生き残った理由」について考える。
少なくとも、ホロコーストを生き延びたエマニュエル・レヴィナスやエリ・ヴィーゼルやウラジミール・ジャンケレヴィッチはそうした。

もちろん、「自分だけが生き残った理由」はわからない。
「おそらくはゲシュタポの気まぐれによって」とジャンケレヴィッチは書いている。レヴィナスはそれをそのまま引用しているので、たぶん「同じ気分」だったのだろう。
けれども、人は他人の「気まぐれ」で手に入れた人生をそのままに生きることはできない。
生き延びた理由は「気まぐれ」でも、そのまま長生して、いざ死ぬときにふりかえって「私が生き残ったことにはやはりそれなりの意味があった」と言い切れなければ、自分が生き残ったときに死んだ人間に申し訳が立たない。

だから、自分自身の人生に加えて、「死んだ人の分まで生きる」という責務を自らに課すことになる。
「あの人があのとき死ななければやっていたかもしれないこと」は「生き残った私」の宿題になる。

その宿題を完了したときにはじめて、「ゲシュタポの気まぐれ」という「人の生き死にに、理由なんかない」という非-人間的無底(anarchie)を人間的意味と人間的秩序が少しだけ押し戻すことができる。

だから、もし大災厄を生き延びた場合には、どんなことがあっても、「生き残ったことは単なる偶然であり、生き延びたことに『理由』を求めるのは愚かなことである」というような発言をしてはならない。
それは死者を二重に穢すことになるからである。

私たちがもし幸運にも破局的事態を生き延びることがあったとしたら、私たちはそのつど「なぜ私は生き残ったのか?」と自問しなければならない。

「他ならぬ私が生き残ったことには理由がなければ済まされない」という断定は誇大妄想でもオカルトでもなく、人間的意味を「これから」構築するための必須条件なのである。

************

今日はこのへんで。

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Posted by 泰明@西光寺 at 09:22
Comments(8)ぼ~さんの日常
この記事へのコメント
内田さんのこの記事は考えさせられたなあ。あとね、キリスト教だと「洗礼を受ける」とか「牧師になる」という行為が“出家”にあたるんだと思うけど、すごい悩みを抱えた人が信徒になり、牧師になるということは素晴らしいことなんだけど、そこを絶対視しちゃいけないんだよね。なぜかというと、経験や挫折だって、それもまた所詮人間の目でしか見てないことかもしれないし。

逆にいえば、そうした挫折や失敗、苦悩から信仰に入った人はいつまでもそこに留まってしまう可能性もあります。問題は信仰に入ってから、自分は何を感じ、何を悩み、どう生きようとするのか?それだけじゃないかなあ
Posted by kanegonkanegon at 2011年05月11日 09:42
てかね…久しぶりに集まって飲む?
ヒントは意外にそんなとろで見つかるかもよ(笑)
Posted by ホシヲ at 2011年05月11日 14:49
泰明さんの文章も、内田先生の文章もまだきっちり読んでないんですが、ヴラディミール・ジャンケレヴィッチ先生のお名前があるのを見て、「ほええええ~」とぶったまげましたことだけ記しておきます。
Posted by ヒソカ at 2011年05月11日 17:48
自分のなかで折り合いをつけるときに宗教が必要なものだというのは
本当だと思います。
僕の場合、何かに迷ったらとりあえずお墓に行くか
仏間でずっと過ごす、というのがお決まりのパターンです(笑


内田さんの記事、
心にずっしりきました!!
同時に、僕の中でひとつ、答えが出たように思います。
僕は大学の二次試験の日、仲良くなった数人の子と別れ際に
「4月にまた、ここで会おう!」と言い合ったのですが
いざ合格発表の日に大学のホームページで受験番号を追っていくと
自分の受験番号は載っているのに、その仲良くなった数人の子の
受験番号はひとつも載っていない、ということでかなりの衝撃を受け、
また、実際に大学に入ってもやはりその子たちがいないことで
さらに衝撃を受け、ずっとこのことを引きずったままでいたんです。

でも、このことを内田さんの記事にあてはめて、
僕は、不合格になった子の分まで、今の大学で頑張ろう…
というふうに考えてもいいのかなぁ、と思いました。
Posted by 志穏 at 2011年05月11日 20:06
全く違うコメかも・・・
僕は若い頃にお袋を亡くし、その時に
初めてうちが「曹洞宗」と知りました。
それまではお寺もお坊さんもみんな一緒だと思ってました。
結構そんな人って多いと思います。
仕事柄「宗派は?」って聞いても「・・・」
の人が多いですよ!
まぁ自分も勉強しないといけないんですが、
知らない事、わかんない事ばっかで常套文句は「詳しくはお寺様に聞いて下さい」って逃げちゃうんですけどね(笑)
現役バリバリの僧侶が書いてくれる文章!
面白くないわけがないっ!!
はじけちゃいましょう!!
Posted by お仏壇の分解クリーニング 夢助工房 at 2011年05月12日 00:11
みなさん、コメントありがとうございます!

>kanegon師

あぁ、まことに有り難きお言葉をいただきました。
そっかぁ、確かに苦悩や挫折を抱えて出家するのは「正統」(?)ではあるけれど、そこに拘泥すると出家者も在家者(一般信者)も思考停止になってしまうかもしれませんね。

「信仰に入ってから、自分は何を感じ、何を悩み、どう生きようとするのか?」…このお言葉、重く受け止めます。正にその通りですね。日々精進です。ありがとうございます。



>ホシヲさん

ですね!飲みたいです!牧師さんが完全復活されたら是非★
私は、皆さんのような”新しい縁”をいただけて、本当に有り難く思っています。



>ヒソカさん
ヒソカさんのブログにその名を拝見した覚えがあります。私は恥ずかしながらどんな方か存じませんが、またご教示賜ればと思います。



>志穏さん

お墓に行くか、仏間で過ごす…ステキな行動パターンですね(笑)

「不合格になった子たちの分まで頑張る」というのは、とても大事なことです。私も内田さんの文からは、志穏さんと同じような意味で受け取りましたし、内田さんの最後の文にあるように「無秩序な世界に生きる上で、”人間的意味”を構築するため」に宗教や文化や習俗が必要なのだと思っています。

学生生活、思いっきりエンジョイしてくださいね★


>夢助工房さん

いつもありがとうございます。本当に励まされます。
自分でも、どんなネタを書けばいいのか、(どんな記事を皆さんが読みたいか)という事について、時々悩んだりもしますが(笑)、今回の文章はとりわけ”書きにくい”部分でもあります。

どうしても、内面的な文章になりやすいので、書きにくいし、こんなことをブログに載せていいのか、と自問していたりします(笑)
Posted by 泰明@西光寺泰明@西光寺 at 2011年05月12日 10:14
先日あるお寺に白木のお位牌をお届けに行ったら近所の子供がお寺の境内で遊んでいました。

何気ない風景なんですがしばらく見入ってしまいました。

今ではお寺で子供が遊んでいる風景なんて見ないですもんね・・・それよりか遊ばせてくれないですもんね・・・ペットは連れてくるなとか写真撮影禁止だとか自動で鐘が鳴るだとか・・・挙句の果てには監視カメラだとか・・・もうそこまでいったらお寺じゃないですよね・・・ またまた記事とは無関係なコメントばかりですいません・・・


葬儀社として。

宗教意識の希薄化がお寺様たちが思っている以上に進行しています。

先のコメントでも書きましたが私たち葬儀社は宗教の押し売りはできませんが無宗教で送りたいというご遺族に「何で無宗教なんですか?」と質問させてもらいます。 

そこで出てくるような答えを今度お話させてもらいたいです。

無宗教という送り方が悪いとは思いませんが、私はお葬式とはケジメだと思っていますのでせめて炉前でのお経をすすめさせていただきます。

私はこれから先に今までのようなお葬式は減っていくと考えています。 お葬式は公の行事から家族のプライベートな行事に変化していくでしょう 

以前のブログにも書きましたが「うちのお寺は家族葬はやってません」なんていうお寺様は今後が心配です。

またまた色々かいてすいませんでした。。。
Posted by 家族葬専門葬儀社あおい葬祭 深谷憲弘 at 2011年05月12日 12:58
>深谷さん

ありがとうございます。
お寺の境内で遊ぶ子供・・・確かに最近見ないかも。「遊ばせてくれない」というのは問題ですよね。そんなことするから、小さいうちから寺離れもするし、親御さんも「お寺で遊んではいけない」と子供にしつけるしかなくなるし・・・。

あの・・・そのお寺って、うちのすぐ近くのですか???(笑)

「無宗教を選んだ理由」・・・これはぜひとも聞かせてください!!本当に。切実に思います。
私のみならず、こうした深谷さんの貴重なお話はきっと僧侶にとって値千金なものだと思います。

前にも書きましたが、私は家族葬に反対するものではありません。(無宗教葬はどうかと思うけど)だからこそ、きちんと僧侶も勉強すべきだと思います。
Posted by 泰明@西光寺泰明@西光寺 at 2011年05月13日 10:35
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