2011年05月14日
坊さんなのにやっぱり口下手な私・・・
何か、あれですね・・・最近、とみに思うんですが、私、文章下手だわ・・・
確かに、このブログは「お寺の生活」をテーマにしているので、どうしたって「お寺の知識が全くない」という一般の方に向けて書くと、”説明文”になってしまうんですよね。
いや、別に説明文が悪いわけじゃないんです。
可能な限り皆さんに読んでいただきたいと思って、分かりやすく書いているつもりなんです。だから内容の割に文章量が多いし・・・。が、どうしても”説明の説明”が段々と増えてきて、結果、一番言いたいことがボヤけている。フォーカスできていない、ピントが合っていない。
文字の限界もありましょう。それは確かに。
でも、それ以前に”私の”能力の限界(笑)だったりもするわけで。

何でこんな切り出しをしているかというと、先日の「声明会」の事。(来月末にドイツに行きます)
この会は、前も書いた通り非常に優れた先生(僧侶)に教えていただいております。
本当に伝えたいこと、分かって欲しいことが、どうしても文字では伝わらないし、伝わりにくい。
ので、ちょっと違った観点から、この会についても書いてみたいと思います。
先生の言葉より。
「我々の法要は、ただ単に芸ではない。僧侶の日常生活そのものが法要に現れるのだ。だから、例えばリハ室で開演直前までだらだらとジュースを飲みながらソファに横たわっていて、時間となったらステージで”さぁ一丁、歌ってくるか”という姿勢ではダメなんだ。我々の宗教はそういうものではない。」
「細部が全体で、全体が細部だ。鐘を打つタイミング一つずれただけで、その法要は”はい、ダメ”となるのが、道元禅師の宗教観なんだ。」
・・・私が常々思っていることなんですが、先生の話は非常に面白いです。
ただ、そのまま文章にして書くと、一般の方はもちろん、私などではとても理解できないような話もあったりする。それもまた魅力的なんですが、ともあれ、ここは公のブログなので、私個人が感じたこと、先生の意図とはずれていたとしても、私が咀嚼できたことを。
まぁ、今に始まったことじゃないですが、「形にとらわれるな」みたいなこと言われますよね。「心が大事」とも。
だけどね、思うんですが、ホントに「形にこだわったこと」ってありますか?どんな気分や思いがするか、わかりますか?
私の浅はかな人生経験の中では、特に永平寺のとりわけ法要準備係をしていた時ほど、「形」を整えていたことはありませんが、今思えば、それはその当時は”やらされていた”に過ぎないことだったのかもしれない。しかし、その過程を経て、今また「所作」というものを考えた時、結局、これしか担保にならないとも思うのです。そして面白いのが、もうその時点では「形」や「所作」にこだわっているというか、意識しているという意識はありません。
つまり、先生の言葉を借りれば「道元禅師の宗教というのは、常に緊急の、この時、この一瞬を逃してはいけないものなのだ。そして徹底的に形にこだわる。身体性を担保する。」というものなのですが、この「形」は実際、文字や、残念ながらyoutubeなど動画にしても結局は伝わらないようなものだと感じます。だから、実際に行う法要(含むドイツ公演)というのはとても有効なことなのです。そして、言うまでもなく、言葉で読んだだけでは意味がない。繰り返し繰り返しすることで、初めて身となるもの。
こういう事柄って、(例えば職人芸のような)すごく等閑にされてませんか。知識や理論を振りかざすことが「実力」で、マネーゲームの支配者が「勝ち組」だという。なんか歪んでいる気がしてなりません。
別にお金を稼ぐことが悪いとは言ってません。だれであれ、必要なものです。稼げる人はどんどんそうしたらいい。ただ、それだけが世界の中心になると、非常にアンバランスで危なっかしいように私には見えるのです。
はい、自分でもまとめができないような文章になってきたので、ここで一旦終了します(笑)やっぱり文章下手だ。
次、
今回のこの声明会はどすごいエリア(東三河)だけではなく、全国(当初は宮城の方も)からも集まっています。新たな出会いもあったりして、それもまた勉強になります。
特に、私が前々からお会いしたいな~と思っていた方(ブログもやってらっしゃる僧侶)もいらっしゃって、この前、初めてお会いできました。有り難かったです。想像以上に素敵な方でした。
道元禅師のお言葉にも(『正法眼蔵随聞記』)、
「”霧の中を行けば、知らぬ間に、衣がしめっている”と昔の人は言った。優れた人に近づけば、気が付かないうちに、自分も優れた人になるというのである。」というのがありますね。有り難いご縁をいただき、ただただ感謝です。
さて、今日もいい天気になりそうですね。今日は法事が何件かあって、昼過ぎからはまた赤羽根のお寺に準備会に行ってきます。(あ、本番まであと一週間だ・・・)

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確かに、このブログは「お寺の生活」をテーマにしているので、どうしたって「お寺の知識が全くない」という一般の方に向けて書くと、”説明文”になってしまうんですよね。
いや、別に説明文が悪いわけじゃないんです。
可能な限り皆さんに読んでいただきたいと思って、分かりやすく書いているつもりなんです。だから内容の割に文章量が多いし・・・。が、どうしても”説明の説明”が段々と増えてきて、結果、一番言いたいことがボヤけている。フォーカスできていない、ピントが合っていない。
文字の限界もありましょう。それは確かに。
でも、それ以前に”私の”能力の限界(笑)だったりもするわけで。

何でこんな切り出しをしているかというと、先日の「声明会」の事。(来月末にドイツに行きます)
この会は、前も書いた通り非常に優れた先生(僧侶)に教えていただいております。
本当に伝えたいこと、分かって欲しいことが、どうしても文字では伝わらないし、伝わりにくい。
ので、ちょっと違った観点から、この会についても書いてみたいと思います。
先生の言葉より。
「我々の法要は、ただ単に芸ではない。僧侶の日常生活そのものが法要に現れるのだ。だから、例えばリハ室で開演直前までだらだらとジュースを飲みながらソファに横たわっていて、時間となったらステージで”さぁ一丁、歌ってくるか”という姿勢ではダメなんだ。我々の宗教はそういうものではない。」
「細部が全体で、全体が細部だ。鐘を打つタイミング一つずれただけで、その法要は”はい、ダメ”となるのが、道元禅師の宗教観なんだ。」
・・・私が常々思っていることなんですが、先生の話は非常に面白いです。
ただ、そのまま文章にして書くと、一般の方はもちろん、私などではとても理解できないような話もあったりする。それもまた魅力的なんですが、ともあれ、ここは公のブログなので、私個人が感じたこと、先生の意図とはずれていたとしても、私が咀嚼できたことを。
まぁ、今に始まったことじゃないですが、「形にとらわれるな」みたいなこと言われますよね。「心が大事」とも。
だけどね、思うんですが、ホントに「形にこだわったこと」ってありますか?どんな気分や思いがするか、わかりますか?
私の浅はかな人生経験の中では、特に永平寺のとりわけ法要準備係をしていた時ほど、「形」を整えていたことはありませんが、今思えば、それはその当時は”やらされていた”に過ぎないことだったのかもしれない。しかし、その過程を経て、今また「所作」というものを考えた時、結局、これしか担保にならないとも思うのです。そして面白いのが、もうその時点では「形」や「所作」にこだわっているというか、意識しているという意識はありません。
つまり、先生の言葉を借りれば「道元禅師の宗教というのは、常に緊急の、この時、この一瞬を逃してはいけないものなのだ。そして徹底的に形にこだわる。身体性を担保する。」というものなのですが、この「形」は実際、文字や、残念ながらyoutubeなど動画にしても結局は伝わらないようなものだと感じます。だから、実際に行う法要(含むドイツ公演)というのはとても有効なことなのです。そして、言うまでもなく、言葉で読んだだけでは意味がない。繰り返し繰り返しすることで、初めて身となるもの。
こういう事柄って、(例えば職人芸のような)すごく等閑にされてませんか。知識や理論を振りかざすことが「実力」で、マネーゲームの支配者が「勝ち組」だという。なんか歪んでいる気がしてなりません。
別にお金を稼ぐことが悪いとは言ってません。だれであれ、必要なものです。稼げる人はどんどんそうしたらいい。ただ、それだけが世界の中心になると、非常にアンバランスで危なっかしいように私には見えるのです。
はい、自分でもまとめができないような文章になってきたので、ここで一旦終了します(笑)やっぱり文章下手だ。
次、
今回のこの声明会はどすごいエリア(東三河)だけではなく、全国(当初は宮城の方も)からも集まっています。新たな出会いもあったりして、それもまた勉強になります。
特に、私が前々からお会いしたいな~と思っていた方(ブログもやってらっしゃる僧侶)もいらっしゃって、この前、初めてお会いできました。有り難かったです。想像以上に素敵な方でした。
道元禅師のお言葉にも(『正法眼蔵随聞記』)、
「”霧の中を行けば、知らぬ間に、衣がしめっている”と昔の人は言った。優れた人に近づけば、気が付かないうちに、自分も優れた人になるというのである。」というのがありますね。有り難いご縁をいただき、ただただ感謝です。
さて、今日もいい天気になりそうですね。今日は法事が何件かあって、昼過ぎからはまた赤羽根のお寺に準備会に行ってきます。(あ、本番まであと一週間だ・・・)

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