2011年07月28日

何事にも先達はあらまほしきことなり

昨夜はご高誼をいただいている日本基督教団豊橋教会の金子牧師(kanegonさん)のお誘いで「呑気な居酒屋の会」に参加しました。

駅前の串笑さんへ。信じられないコストパフォーマンスで、お財布に優しいありがたいお店です!
何事にも先達はあらまほしきことなり
どすごいブログのお蔭か、それとも参加者の方のご人徳か、今回もまた新たなご縁をいただき、楽しいひと時を過ごすことができました。

もちろん、他の参加者さん(どすごいブロガーさんでは・・・夢助工房さんホシヲさん et ゆみさん鳥居所長さんhanareさん)とのお話も新鮮で、勉強になることばかり。(何と言っても一番年下なので・・・kaeru

しかし流れる時間に抗う事は出来ず、満足にお話しさせていただけなかった方もいらっしゃいました。次回は是非★

さて、ここで終わっては、あまり私のブログっぽくないので(笑)、印象に残った牧師さんからのお言葉。

「一番初めに、小原君に会った時思ったのは、”この人は良き師に会ってきたんだな”という事なんだよね。」

思いがけず、お褒めの言葉を頂戴し、当惑する泰明icon10 師は続けられます。

「僕の言っている”師”、というのは一人の人間だけの事じゃなくて、たぶん小原君は今までに、尊敬でき求道心に溢れる高潔な僧侶にも会い、逆にどうしようもないダメダメな僧侶も見てきているはずなんだよね。それらみんなが”良き師”となっていると思う。

その中で、自分は悩んでいる。どちらかに偏れれば楽なんだろうけど・・・。
いろんな僧侶を見、会う道程で、矛盾を抱えながら”これで本当にいいのだろうか?”と常に葛藤を持ち、自問を続けながら仏教に向き合う。これが大事なんじゃないかと思うね。」

いや、ホントに有り難いお言葉。それに怖いくらい当ってます(笑)
自分で言うのもなんですが、確かに周りには恵まれていると思う。

それに、悩みや考え事は尽きません。
多分、これは宗教者ならではの悩み事だと思うんですが、”現実(=実際に宗教法人を運営していくこと)と理想(=ブッダ在世時よりの寺院管理。信者の善意や布施による)”の狭間、或いは”教理(=お経や道元禅師、瑩山禅師の宗教)と民俗(=お墓とかお仏壇とか、お葬式)”との狭間で、いかにして学び、いかにしてそれを伝えていくか、一朝一夕には答えの出ないものです。

儀礼ひとつとっても、”昔からやっているから”という論拠のその”昔”はいつからだろう?とか、全ての儀礼はいずれかの年代で作られたものなら、何を根拠に・どんな観点でそれらの儀礼を変更したり、新たに付与したりできるのか、とか。簡単な話、例えばお線香だって江戸以前はなかったんですよ。発明されていないから。だからお線香を立てる、とか捧げ持つという所作だって、道元禅師以来のものではないし・・・。

ただ、牧師さんもこんな風に言われていました。

多分、正解なんてないんだろうね。でも考え続けることの中に、真理があるんじゃないか思うよ。


その通りかもしれませんね。いい夜でした。多謝。

同じカテゴリー(ぼ~さんの日常)の記事画像
そうかい、そうかい、総会。
『未来の住職塾』を終えて(後編:覚悟)
【スピンオフ】住職塾セミナー@東別院での話
『未来の住職塾』を終えて(中編:京都・東京あじくらべ)
『未来の住職塾』を終えて(前編:感想)
え~?!!これってホントに●●料理なの?
同じカテゴリー(ぼ~さんの日常)の記事
 そうかい、そうかい、総会。 (2013-05-09 17:07)
 『未来の住職塾』を終えて(後編:覚悟) (2013-04-13 17:02)
 【スピンオフ】住職塾セミナー@東別院での話 (2013-04-04 19:15)
 『未来の住職塾』を終えて(中編:京都・東京あじくらべ) (2013-03-28 19:37)
 『未来の住職塾』を終えて(前編:感想) (2013-03-26 12:24)
 え~?!!これってホントに●●料理なの? (2013-03-22 11:25)

Posted by 泰明@西光寺 at 11:33
Comments(5)ぼ~さんの日常
この記事へのコメント
以前にも一度名前を出しましたが、私がとても尊敬するフランスの哲学者ジャンケレヴィッチは、「真理とは、真理を求め続ける人のことだ」と述べています。彼は、真理は確固不動で、一度見つけたら後は自分は何もしなくていいという人ではありませんでした。実際、彼の著書は、ある著書が前の著書を反復し、絶えず運動しているような書き方がなされています。

 他のクリスチャンと話していて、強く飲み込めなさを感じるのが、「真理(ここではイエス・キリストのこと)を一度見つけたら、あとはそれについて考える必要はない。それをただ飲み込めばいい」という発想です。私には常に、「多くのクリスチャンはイエスのことがわかっているかのように言うけれど、そうかな~。社会の最底辺にいたイエスはこんなことは言わなかったのではないか」、そういう問いがぐるぐる渦巻いています。おそらく、それが矛盾や悩みを抱えつつも考えることをやめない人に惹かれる理由でしょう。
Posted by ヒソカ at 2011年07月28日 12:10
昨夜はありがとうございました。
くだらない話を聞いていただき感謝です。
またやりましょうね!!
難しい話は僕には無理ですが(笑)
Posted by お仏壇の分解クリーニング 夢助工房お仏壇の分解クリーニング 夢助工房 at 2011年07月28日 21:41
>ヒソカさん

「真理とは、真理を求め続ける人のことだ」・・・素晴らしいお言葉ですね。

道元禅師の言葉にも「発心・修行・菩提・涅槃」という言葉があり、これは「仏教に目覚める心・修行・悟り・無上の解脱」という意味で、本来的にはこれらは段階的、不可逆的に修されるのが、一般的な仏教の理解です。

しかし、禅師は坐禅を行う事、即ち修行することが、そのままこれら4つのステージが同時に発現し、それはまるで輪のように欠けることなく、途切れることなく現れるのだ、という事をおっしゃっています。

或る意味、教義主体・知識偏重の仏教界に”行為”主体を持ち込んだというか、プラグマティックですよね。(もっとも、これは道元禅師に限らず、法然上人や親鸞聖人などの念仏にも同じことが言えるわけですが・・・)

私も最近思うのですが、おっしゃるとおり「真理は確固不動で、一度見つけたら後は自分は何もしなくていいというものではない」と思っています。

その思考停止に陥らないために、毎日の坐禅や、また定期的に祈り、礼拝があるのかもしれませんね。



>夢助さん

楽しかったですね。ありがとうございました。

くだらないなんて、とんでもないです。自分以外はみんな自分の師、ですよ。またやりましょう★
Posted by 泰明@西光寺泰明@西光寺 at 2011年07月29日 10:34
あ!
「自分以外はみんな自分の師」!

部屋に貼ってある、私の座右の銘です(^^*)

【自己の他は皆教師】

某教育大入学式にて、学長さんが贈ってくれた言葉です♪
Posted by make at 2011年07月30日 10:53
>makeさん

そうですよね~【自己の他は皆教師】、いい言葉です!人間、謙虚にいかないと(笑)
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年07月31日 08:53
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。