2012年01月12日
僧侶の本分・本懐 -2-
(長くなってしまったので続きです)
そもそも、本来的に禅宗には一般人に対する「葬儀式の規範」はなかったのです。(これはキリスト教など他の宗教にも共通するのでは?)なぜなら、通仏教的に言えば、仏教の目的は「悟りを開くこと」「ブッダになること」だからです
つまり「葬式はこういう儀礼をしなさい」という文章は原初ないと思うのです。
では「今の葬式は一体何?」と疑問に思われるでしょう。
詳しく言うと話が長くなるので割愛しますが、曹洞宗や臨済宗において、あれは簡単に言えば、僧侶が僧侶に対して行う葬送儀礼(『禅苑清規』がベースと言われる)を一般人に緩用しているそうです。(実際、最近・・・たしか明治期だったか・・・まで、僧侶に行う2種の葬儀儀礼のみで一般の方の葬儀法は曹洞宗の規範集(行持規範)にも掲載されてなかったと聞いたことがあります。)
話がだいぶ迂回していますが、要するに、僧侶の本分は「葬儀をすること」にはないのです。
“仏教すること”これが一番根幹なのに、皆さんが一番勘違いされ、誤解されるところであります。
話を戻しまして・・・そうであるから、もっともっと勉強しないと。
その仏教の勉強・修行が、護持会企画に追いつかれないようしないと。つまりは、「イベントのための仏教」ではなく、「仏教があるからこそのイベント」にしないと。
私の僧侶レベル(そんな言葉あるのかな??)からしたら、今のままでは護持会企画(イベント)に追いつかれ、「イベントのために仏教を勉強する」ハメに・・・(苦笑)
だから護持会に期待すると同時に、自分に対しては危惧を抱いています。ちょっと矛盾しているように聞こえるかもしれませんね。
ただのイベントだけで終わってしまえば、何の意味もないのです。ここに多くのお寺・人々が勘違いする原因がある。
「法事や葬式に依らないために、またそのイメージを打破するためにイベントをする」こんなことは、ちゃんちゃらおかしい。しかし、このカッコの文章のように思いこんでいたずらに葬儀や法事を馬鹿にする僧侶や一般人がいかに多いか・・・。
考えるべき事です。
そこに仏教が無ければ、別に護持会でやる必要はないんだし、極論、イベント会社に丸投げしてお寺という“施設”のみを貸せばいい。
そうならない、いや、そうさせない為には、深く仏教を学ぶこと。だから護持会のスタートに際して、とてもドキドキ感、期待感がある反面、非常に大きなプレッシャーも僧侶として感じている訳です。とてもコンプレックスなお話でした。
・・・とは言うものの、さっきの「葬儀は僧侶の慈悲心より起こる」という話みたいに、確かにそれら(葬儀とか護持会)は仏教そのものではないのかもしれない。でも、必ず仏教の慈悲心がそれらには入っていると思う。
やはり護持会を再興させたいという気持ちは、結局は「“仏教”を檀家さんにふれて欲しい」「檀家さんが“西光寺で良かった”と思ってもらえるようなお寺にする」ためのものです。これには偽りがない。
まぁ、弁証法じゃないけど、「僧侶の本分か否か」というテーゼ・アンチテーゼは、「慈悲心」を用いてアウフヘーベンする、昇華する、という事なのかもしれませんね。自分の中でも上手くバランスをとってやっていきたいと思います。
そもそも、本来的に禅宗には一般人に対する「葬儀式の規範」はなかったのです。(これはキリスト教など他の宗教にも共通するのでは?)なぜなら、通仏教的に言えば、仏教の目的は「悟りを開くこと」「ブッダになること」だからです
つまり「葬式はこういう儀礼をしなさい」という文章は原初ないと思うのです。
では「今の葬式は一体何?」と疑問に思われるでしょう。
詳しく言うと話が長くなるので割愛しますが、曹洞宗や臨済宗において、あれは簡単に言えば、僧侶が僧侶に対して行う葬送儀礼(『禅苑清規』がベースと言われる)を一般人に緩用しているそうです。(実際、最近・・・たしか明治期だったか・・・まで、僧侶に行う2種の葬儀儀礼のみで一般の方の葬儀法は曹洞宗の規範集(行持規範)にも掲載されてなかったと聞いたことがあります。)
話がだいぶ迂回していますが、要するに、僧侶の本分は「葬儀をすること」にはないのです。
“仏教すること”これが一番根幹なのに、皆さんが一番勘違いされ、誤解されるところであります。
話を戻しまして・・・そうであるから、もっともっと勉強しないと。
その仏教の勉強・修行が、護持会企画に追いつかれないようしないと。つまりは、「イベントのための仏教」ではなく、「仏教があるからこそのイベント」にしないと。
私の僧侶レベル(そんな言葉あるのかな??)からしたら、今のままでは護持会企画(イベント)に追いつかれ、「イベントのために仏教を勉強する」ハメに・・・(苦笑)
だから護持会に期待すると同時に、自分に対しては危惧を抱いています。ちょっと矛盾しているように聞こえるかもしれませんね。
ただのイベントだけで終わってしまえば、何の意味もないのです。ここに多くのお寺・人々が勘違いする原因がある。
「法事や葬式に依らないために、またそのイメージを打破するためにイベントをする」こんなことは、ちゃんちゃらおかしい。しかし、このカッコの文章のように思いこんでいたずらに葬儀や法事を馬鹿にする僧侶や一般人がいかに多いか・・・。
考えるべき事です。
そこに仏教が無ければ、別に護持会でやる必要はないんだし、極論、イベント会社に丸投げしてお寺という“施設”のみを貸せばいい。
そうならない、いや、そうさせない為には、深く仏教を学ぶこと。だから護持会のスタートに際して、とてもドキドキ感、期待感がある反面、非常に大きなプレッシャーも僧侶として感じている訳です。とてもコンプレックスなお話でした。
・・・とは言うものの、さっきの「葬儀は僧侶の慈悲心より起こる」という話みたいに、確かにそれら(葬儀とか護持会)は仏教そのものではないのかもしれない。でも、必ず仏教の慈悲心がそれらには入っていると思う。
やはり護持会を再興させたいという気持ちは、結局は「“仏教”を檀家さんにふれて欲しい」「檀家さんが“西光寺で良かった”と思ってもらえるようなお寺にする」ためのものです。これには偽りがない。
まぁ、弁証法じゃないけど、「僧侶の本分か否か」というテーゼ・アンチテーゼは、「慈悲心」を用いてアウフヘーベンする、昇華する、という事なのかもしれませんね。自分の中でも上手くバランスをとってやっていきたいと思います。