2012年01月31日
本宮山とご破算と石岡さん
ここ数日をダイジェスト。
一昨日、日曜日。
午前は何軒かのご法事の後、昼から豊川市にあるお寺でお参り。このお寺の開山忌(かいさんき;お寺を開いた初代住職の命日)に参列するためです。本宮山の麓に構える、非常に由緒あるお寺です。
このお寺と西光寺とは、切っても切れない関係があり、こうしてお参りにお伺いしております。西光寺だけではなく、このお寺にご縁のある僧侶が15名ほど招かれ、お参りをしたのでした。ちなみに僧侶の他、お参りの世話人さんが30数名ほどでした。
非常に立派な伽藍(建物)なのですが・・・どっ寒い!!!手が凍るかと思った(笑)ちなみに去年は雪が残っていました。

法要が終わって、お食事をいただき開散。
毎年思うのだけど、こうして他のお寺におじゃますると、いろんな勉強にもなります。加えて、“仏教の教えが伝わっているありがたさ”みたいなもの(これは説明するのが難しい)がしみじみ身に染みます。自らの信仰心の涵養、と言っては格好良すぎですが、少なくとも、年々来る度ごとにこの“法味をあじわう”ことに感謝できているような気がします。
********
昨日。
『中外日報』(ちゅうがいにっぽう)という仏教系の新聞があるんです。日本の各宗派の活動や言説のみならず、神道や他宗教(キリスト教など)のニュースや、仏教宗派と関係ある行事も掲載されています。
何気なく読んでいたら・・・おお、私の後頭部がうつった写真が掲載されていました。
先日の東京 光明寺にて行われた「未来の住職塾」セミナーの記事が載っていました。タブロイド判で紙面の1/4強。4月からの本講座が楽しみです。
********
これも昨日。
先日、ご逝去されたデザイナー石岡瑛子さんへの追悼か、NHK「プロフェッショナル -仕事の流儀-」での石岡さんの回が再放送されていました。
これまた何気なく見ていたら、印象的な言葉が。
「1ミリが、世界を変える」(あ、もしかしたら違う表現だったかも・・・)
これはつまり、デザイナーとしてデザイン画を描くだけではなく、舞台のドレスを実際のアクターがフィッティングし、最後の最後まで、また、非常に細かい点にまで修正・改善し続ける石岡さんの仕事ぶりについての言葉。
ご本人曰く「舞台の上の衣装なんて、所詮動いたりするから、そこまで厳密に(修正やディテールに)こだわらなくてもいいと言う人がいるんですが、私はそう言う人は、“何にも見えていない”と思うんですよね」と。
つまり、どんな小さな事にも、持てる力を傾注して、より高い次元を目指すことが、時代を超えて独創性のある芸術的な作品に成り得る、ということのようです。
これを見ていて、心底感動。
僧侶の作法、たとえば、坐禅の姿勢だったり、法要の所作だったり、唯単に合掌をするだけにものすごく気をつかう。私が行っていた永平寺では、一番始めに教え込まれるのは「合掌の仕方」だったりします。「そんなの簡単じゃん」と思われるでしょう。しかし、手の位置や肘の角度、文字通り“指の先まで”完璧に神経が行き届くように、それはそれは厳しく教えられます。
「ただの合掌なのに、何もそこまで」と思うでしょう。実際、私も最初はそう思っていた。
でも、(芸術と僧侶の所作という違いはあれ)、“ディテールまで神経を使う”というのは、裏を返せば、“どんなこともなおざりにしない”ということでもあります。そこには「これは大したことじゃないから、こだわらなくてもいいや」とか「これは目立つから、やっておこう」とか、そうした利己的、打算的な、醜い勘定的感情(笑)はなく、あるのは「自分の全てをそこに現す」ということに他ならないと私は受け取りました。
それって、とても簡単そうに見えて、その実、ものすごく難しいことなんじゃないでしょうか。でも、私が思うに、こうした「日々の生活をきちんと淡々と、なおざりにせずに生きる」ことが、悟り、なのではないかと考えたりします。
プロフェッショナル、大好きな番組ですが、その中でも屈指の見応えある回でした。改めてご冥福をお祈り致します。 合掌
一昨日、日曜日。
午前は何軒かのご法事の後、昼から豊川市にあるお寺でお参り。このお寺の開山忌(かいさんき;お寺を開いた初代住職の命日)に参列するためです。本宮山の麓に構える、非常に由緒あるお寺です。
このお寺と西光寺とは、切っても切れない関係があり、こうしてお参りにお伺いしております。西光寺だけではなく、このお寺にご縁のある僧侶が15名ほど招かれ、お参りをしたのでした。ちなみに僧侶の他、お参りの世話人さんが30数名ほどでした。
非常に立派な伽藍(建物)なのですが・・・どっ寒い!!!手が凍るかと思った(笑)ちなみに去年は雪が残っていました。

法要が終わって、お食事をいただき開散。
毎年思うのだけど、こうして他のお寺におじゃますると、いろんな勉強にもなります。加えて、“仏教の教えが伝わっているありがたさ”みたいなもの(これは説明するのが難しい)がしみじみ身に染みます。自らの信仰心の涵養、と言っては格好良すぎですが、少なくとも、年々来る度ごとにこの“法味をあじわう”ことに感謝できているような気がします。
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昨日。
『中外日報』(ちゅうがいにっぽう)という仏教系の新聞があるんです。日本の各宗派の活動や言説のみならず、神道や他宗教(キリスト教など)のニュースや、仏教宗派と関係ある行事も掲載されています。
何気なく読んでいたら・・・おお、私の後頭部がうつった写真が掲載されていました。
先日の東京 光明寺にて行われた「未来の住職塾」セミナーの記事が載っていました。タブロイド判で紙面の1/4強。4月からの本講座が楽しみです。
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これも昨日。
先日、ご逝去されたデザイナー石岡瑛子さんへの追悼か、NHK「プロフェッショナル -仕事の流儀-」での石岡さんの回が再放送されていました。
これまた何気なく見ていたら、印象的な言葉が。
「1ミリが、世界を変える」(あ、もしかしたら違う表現だったかも・・・)
これはつまり、デザイナーとしてデザイン画を描くだけではなく、舞台のドレスを実際のアクターがフィッティングし、最後の最後まで、また、非常に細かい点にまで修正・改善し続ける石岡さんの仕事ぶりについての言葉。
ご本人曰く「舞台の上の衣装なんて、所詮動いたりするから、そこまで厳密に(修正やディテールに)こだわらなくてもいいと言う人がいるんですが、私はそう言う人は、“何にも見えていない”と思うんですよね」と。
つまり、どんな小さな事にも、持てる力を傾注して、より高い次元を目指すことが、時代を超えて独創性のある芸術的な作品に成り得る、ということのようです。
これを見ていて、心底感動。
僧侶の作法、たとえば、坐禅の姿勢だったり、法要の所作だったり、唯単に合掌をするだけにものすごく気をつかう。私が行っていた永平寺では、一番始めに教え込まれるのは「合掌の仕方」だったりします。「そんなの簡単じゃん」と思われるでしょう。しかし、手の位置や肘の角度、文字通り“指の先まで”完璧に神経が行き届くように、それはそれは厳しく教えられます。
「ただの合掌なのに、何もそこまで」と思うでしょう。実際、私も最初はそう思っていた。
でも、(芸術と僧侶の所作という違いはあれ)、“ディテールまで神経を使う”というのは、裏を返せば、“どんなこともなおざりにしない”ということでもあります。そこには「これは大したことじゃないから、こだわらなくてもいいや」とか「これは目立つから、やっておこう」とか、そうした利己的、打算的な、醜い勘定的感情(笑)はなく、あるのは「自分の全てをそこに現す」ということに他ならないと私は受け取りました。
それって、とても簡単そうに見えて、その実、ものすごく難しいことなんじゃないでしょうか。でも、私が思うに、こうした「日々の生活をきちんと淡々と、なおざりにせずに生きる」ことが、悟り、なのではないかと考えたりします。
プロフェッショナル、大好きな番組ですが、その中でも屈指の見応えある回でした。改めてご冥福をお祈り致します。 合掌