2012年03月28日
”無事”は良いこと?悪いこと?
『曹洞禅グラフ』という仏教企画社が発行している小冊子があります。季刊で、西光寺の本堂でお檀家さんにお配りしているのですが、この小冊子、泰明は結構好きで拝読しています。今月号にも、中々興味深い文があったので、ご紹介したいと思います。
哲学者、立教大学の教授である内山節氏の寄稿、「無事な春」と題されたものより。
(以下、適宜抄出)
とても分かりやすくて、心に染みる、淡々として、しかも確実に訴える氏の文章でした。全文はご紹介できませんが、まだ西光寺の本堂にございますので、どうぞお持ち下さい。
さて、この“無事”という言葉、すっかり日本語に定着していますが、禅学大辞典によれば「1.問題がない。事が起こらない。」という、所謂一般的な意味もありますが、他方「2.寂静無為の境涯。本来の自己に立ち還った安らかさ」とあります。
この“本来の自己に立ち還った”ということを考えるとき、現代に生きる我々は、あまりもその“自己”を取り違え、はき違えて生きているような気がしてなりません。
端的に言えば、文中にある“人間の欲望の全面的な肯定”を実行することが“自己表現”だと勘違いし、それを実行できる“自由”を最上の価値として盲信することが現代人の“自己”そしてそれを邁進してきた結果が、この現代の社会ではないか。
例えば、これは佐伯啓思氏が繰り返し仰っていることですが、自由とはそもそも自明の権利ではなく、単純にその時の社会・政治・状況が許しただけの中での“自由”であり、かつ(現代では、それがさも最上の真理であるかのように思われているが)最上に据え置くべき価値・目標ではなく、自らが信じうる価値への“ただの手段”が“自由”である、ということ。
そして、その自由のはき違えが、「新自由主義」を生みだし、「構造改革」の名の下に推し進められ、隠蔽され続けてきた、格差社会・生産要素の市場化、ひいては市場中心主義を増大させてしまった、ということです。
だいぶ話しを端折っているので、この文意も的確ではないのですが、つまり我々は“自由だ”とか“これこそが至上の価値だ”とか、ある意味、普遍的真理のように思っていることって、実際、大したことのない、極めて脆弱で、不確かな社会の価値だったりします。
そこを気がつかずに、“世間の常識”が真理であるかの如く信奉する態度、これが仏教的に言うところの“無明”であります。
一つだけ言えるのは、こうした無明を抑え、解くために仏教の智慧があるのであり、たぶん仏教に限らず、宗教や道徳や哲学や芸術と言った、近代化の中で価値を置かれなかったものの中に、或いはその複合体の中に、その答えがあるということ。そして、それを“自らが実行する”ことが、重要ではないでしょうか。
哲学者、立教大学の教授である内山節氏の寄稿、「無事な春」と題されたものより。
(以下、適宜抄出)
自然は毎年同じ事を繰り返している。かつては、人々も基本的には毎年同じことを繰り返していた。そこには自然と人間が時空を共有していた時代が展開していた。
この時代の人々は「無事」を尊んでいたように思う。日常会話のなかでも「無事なだけの人生で」と人々は自分の過去を振り返り、無事に過ごすことができたことに感謝した。「無事が何より」だったのである。
無事に一年を過ごすことができれば、秋にはお米が収穫でき、お盆には先祖たちを、正月には神様を迎えることができた。やり過ごしたことのない一年だったと感じられる日常のなかに、無事への感謝が込められていた。
現代社会が否定したのは、こんな人間たちの生き方だったように思う。無事な生き方は進歩のない生き方とみなされるようになり、私たちは日々向上しなければいけなくなった。
もちろんどんな時代でも、人間たちに向上したいという思いはあったことだろう。しかし以前の向上心というのは、技を深めていくとか、真理がわかるようになるというところにあったのであって、ひたすら新しいものを獲得しようとした近代以降のそれとは質の違うものであった。近代以降の向上心は、人間の欲望の全面的な肯定とともに展開する。
気がつけば、無事ではない自分自身と社会が広がっていた。
原発事故はその象徴である。長期にわたって無事を取り戻すことのできない地域が発生し、得体の知れない放射性物質という不安と共存する生き方を強制されてしまった。
一方で、津波の被害を受けた地域では、それを応援するさまざまな人々と連携しながら、「無事が何より」といえるような地域をつくる試みが始まっている。
とても分かりやすくて、心に染みる、淡々として、しかも確実に訴える氏の文章でした。全文はご紹介できませんが、まだ西光寺の本堂にございますので、どうぞお持ち下さい。
さて、この“無事”という言葉、すっかり日本語に定着していますが、禅学大辞典によれば「1.問題がない。事が起こらない。」という、所謂一般的な意味もありますが、他方「2.寂静無為の境涯。本来の自己に立ち還った安らかさ」とあります。
この“本来の自己に立ち還った”ということを考えるとき、現代に生きる我々は、あまりもその“自己”を取り違え、はき違えて生きているような気がしてなりません。
端的に言えば、文中にある“人間の欲望の全面的な肯定”を実行することが“自己表現”だと勘違いし、それを実行できる“自由”を最上の価値として盲信することが現代人の“自己”そしてそれを邁進してきた結果が、この現代の社会ではないか。
例えば、これは佐伯啓思氏が繰り返し仰っていることですが、自由とはそもそも自明の権利ではなく、単純にその時の社会・政治・状況が許しただけの中での“自由”であり、かつ(現代では、それがさも最上の真理であるかのように思われているが)最上に据え置くべき価値・目標ではなく、自らが信じうる価値への“ただの手段”が“自由”である、ということ。
そして、その自由のはき違えが、「新自由主義」を生みだし、「構造改革」の名の下に推し進められ、隠蔽され続けてきた、格差社会・生産要素の市場化、ひいては市場中心主義を増大させてしまった、ということです。
だいぶ話しを端折っているので、この文意も的確ではないのですが、つまり我々は“自由だ”とか“これこそが至上の価値だ”とか、ある意味、普遍的真理のように思っていることって、実際、大したことのない、極めて脆弱で、不確かな社会の価値だったりします。
そこを気がつかずに、“世間の常識”が真理であるかの如く信奉する態度、これが仏教的に言うところの“無明”であります。
一つだけ言えるのは、こうした無明を抑え、解くために仏教の智慧があるのであり、たぶん仏教に限らず、宗教や道徳や哲学や芸術と言った、近代化の中で価値を置かれなかったものの中に、或いはその複合体の中に、その答えがあるということ。そして、それを“自らが実行する”ことが、重要ではないでしょうか。
この記事へのコメント
「無事が何より」、
私がよく使うことばです。
無事で日々過ごせることの有り難さを知っても悪くないと思いますよ。
また「自由と平等」も否定しませんが、「自由と平等」を主張するためには「義務と責任」を果たさなければならないことを、日本人の多くは都合よく忘れてしまったようですね。
今多くの人々が言っている「自由と平等」は「自分勝手」なだけですよ。。
私がよく使うことばです。
無事で日々過ごせることの有り難さを知っても悪くないと思いますよ。
また「自由と平等」も否定しませんが、「自由と平等」を主張するためには「義務と責任」を果たさなければならないことを、日本人の多くは都合よく忘れてしまったようですね。
今多くの人々が言っている「自由と平等」は「自分勝手」なだけですよ。。
Posted by 青蛉返 at 2012年03月29日 06:51
>青蛉返さま
コメントありがとうございます。
まったくもって、仰るとおりだと私も思います。”無事”のありがたさ、自由と責任に対する態度、まこと我々は忘れがちです。
佐伯啓思氏は、著書「自由とは何か?」の中で、実はその”自由と責任”とか”自由”ということについても、結局は時代の一潮流に過ぎず、それが最上の価値があると思っているのは、現代の人間だけで、かつ、自由の意味もゆがめられてしまった、というような事を書かれています。興味深い本です。
コメントありがとうございます。
まったくもって、仰るとおりだと私も思います。”無事”のありがたさ、自由と責任に対する態度、まこと我々は忘れがちです。
佐伯啓思氏は、著書「自由とは何か?」の中で、実はその”自由と責任”とか”自由”ということについても、結局は時代の一潮流に過ぎず、それが最上の価値があると思っているのは、現代の人間だけで、かつ、自由の意味もゆがめられてしまった、というような事を書かれています。興味深い本です。
Posted by 泰明@西光寺 at 2012年03月29日 08:30