2012年04月01日
絵本『地獄』のすごすぎる話
『地獄』、と題された絵本が密かな人気を集めているようです。
数週間前に、ネットのニュースで見て以来、度々メディアでも採り上げられ、昨日は朝のワイドショー(死語か?)でも放送されていました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120305-00000305-jisin-ent

昨日のテレビでは、幼稚園くらいの子どもがこの『地獄』を読み聞かされて、泣き出すシーンも。
もう少し大きな(小学生?)になると・・・
「ノンフィクションって書いてない?書いてないなら(作り話だから)大丈夫。」と不安そうな表情で必死に絵本の表紙を見る始末(笑)。
ノンフィクションって書いてあったら無条件で信じるんでしょうか?その一見、合理的で賢そうな考えですが、それこそ疑うべき、恐ろしい教育だと思いませんか?
さておき、私がこの本で非常に興味を覚えたのは、実は「しつけに良い」からではありません。
結論から言えば、結局、絶対的・普遍的に善を助長し、悪を抑止する真理、力などどこにもないからこそ(ニーチェを引き合いに出すまでもなく)、その善悪の判断基準はどこにあるのか?という疑問です。
これまた最初に答えを言えば、それは結局、道徳や宗教や地域風習、大きく言えば帰属する社会に対する“信仰”が、個々人をして、その標準ならしめるものであります。であれば、この『地獄』が教育やしつけ、もっと言えば、人格形成に多大な影響を与え、それなしでは結局、どんな法律や実証主義や科学や、合理主義をもってしても自身の“善悪の標準”にはできないのです。
考えてもみてください。もし全時代・全人間共通の普遍+不変的、絶対的真理があるとしたら、そんなものとっくに見つかっています。でも見つからない。さっきも書いたけど、ないからです。
だからこそ、宗教や哲学や道徳や風習に対する信仰、別の言葉に代えれば、それを“身につけること”が、“よく生きる”ための手段であるはず、というのが私の考えです。
ですが、現代人がすべからく持っている合理主義・科学万能・自由をはき違えた自己への“盲信”(あえて盲信と書きます)とそれへの過度の信奉、そしてそれを許してきた社会が崩れつつあります。
これは当たり前です。もう一度書きますが、当たり前です!
なぜならば、合理主義や科学万能は、それ自体、“よく生きる”こととは何も関係なく、そしてみなさんが自明として置く合理主義や科学万能だって、それを信じている限り、所詮は“信仰=盲信”に過ぎません。であればこそ、崩れるのは当然です。(急いで付け加えますが、別に科学者や研究者個人を指しているわけではありません。あくまで、それらの結果を“無条件で信じている”我々の態度を批判するのです。ついでに、私は科学や合理主義を批判しているのではありません。それだけが絶対的真理だと思い込んでいる、我々を、です。)
今、それが崩れつつあり、そうしてようやくその大切さが理解され始めている。
その意味で、この本が売れているという背後には、今まで「取るに足らない物」と打ち棄てられてきた、道徳や宗教や地域風習、帰属する社会に対する“信仰”への、再帰、再評価があるからではないでしょうか。もっとも、テレビでは全くそのことに触れてませんが・・・。
数週間前に、ネットのニュースで見て以来、度々メディアでも採り上げられ、昨日は朝のワイドショー(死語か?)でも放送されていました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120305-00000305-jisin-ent
わが子が”よい子”に豹変する絵本『地獄』のすごすぎる中身
(女性自身 3月5日(月)17時3分配信)
大人でさえはらわたをえぐられるような凄惨シーン満載の『絵本 地獄』(風濤社刊)が、いま大ブームになっている。東村アキコさんが6歳になる一人息子の子育てライフを描いたマンガ『ママはテンパリスト』(集英社刊)第4巻に、この絵本を読み聞かせる場面が登場。一気に注目を集めることとなった。
ページをめくると血の色を象徴する赤が鮮烈に使われた、色調豊かな地獄ワールドが広がる。「針地獄」「火あぶり地獄」に「かまゆで地獄」。圧巻「なます地獄」の図では、生きたままある人はお尻から杭で串刺しにされ、ある人は包丁で胴体を輪切りにされ、それを煮たり焼いたりしながら喜々として食べる鬼たちの姿が……。
「効果はてきめん。その日から息子がよい子に豹変しました。悪いことをしたら地獄に落とされると口で言うより、ビジュアルでイメージを植え付けたほうが効果的なんでしょう。それからは『えんま様はどこからでも見ている』と感じたのか、親の前だけではなく私がいないところでも『悪いことはできない』と思ってるみたいです」と東村さん。

昨日のテレビでは、幼稚園くらいの子どもがこの『地獄』を読み聞かされて、泣き出すシーンも。
もう少し大きな(小学生?)になると・・・
「ノンフィクションって書いてない?書いてないなら(作り話だから)大丈夫。」と不安そうな表情で必死に絵本の表紙を見る始末(笑)。
ノンフィクションって書いてあったら無条件で信じるんでしょうか?その一見、合理的で賢そうな考えですが、それこそ疑うべき、恐ろしい教育だと思いませんか?
さておき、私がこの本で非常に興味を覚えたのは、実は「しつけに良い」からではありません。
結論から言えば、結局、絶対的・普遍的に善を助長し、悪を抑止する真理、力などどこにもないからこそ(ニーチェを引き合いに出すまでもなく)、その善悪の判断基準はどこにあるのか?という疑問です。
これまた最初に答えを言えば、それは結局、道徳や宗教や地域風習、大きく言えば帰属する社会に対する“信仰”が、個々人をして、その標準ならしめるものであります。であれば、この『地獄』が教育やしつけ、もっと言えば、人格形成に多大な影響を与え、それなしでは結局、どんな法律や実証主義や科学や、合理主義をもってしても自身の“善悪の標準”にはできないのです。
考えてもみてください。もし全時代・全人間共通の普遍+不変的、絶対的真理があるとしたら、そんなものとっくに見つかっています。でも見つからない。さっきも書いたけど、ないからです。
だからこそ、宗教や哲学や道徳や風習に対する信仰、別の言葉に代えれば、それを“身につけること”が、“よく生きる”ための手段であるはず、というのが私の考えです。
ですが、現代人がすべからく持っている合理主義・科学万能・自由をはき違えた自己への“盲信”(あえて盲信と書きます)とそれへの過度の信奉、そしてそれを許してきた社会が崩れつつあります。
これは当たり前です。もう一度書きますが、当たり前です!
なぜならば、合理主義や科学万能は、それ自体、“よく生きる”こととは何も関係なく、そしてみなさんが自明として置く合理主義や科学万能だって、それを信じている限り、所詮は“信仰=盲信”に過ぎません。であればこそ、崩れるのは当然です。(急いで付け加えますが、別に科学者や研究者個人を指しているわけではありません。あくまで、それらの結果を“無条件で信じている”我々の態度を批判するのです。ついでに、私は科学や合理主義を批判しているのではありません。それだけが絶対的真理だと思い込んでいる、我々を、です。)
今、それが崩れつつあり、そうしてようやくその大切さが理解され始めている。
その意味で、この本が売れているという背後には、今まで「取るに足らない物」と打ち棄てられてきた、道徳や宗教や地域風習、帰属する社会に対する“信仰”への、再帰、再評価があるからではないでしょうか。もっとも、テレビでは全くそのことに触れてませんが・・・。