2012年04月09日
1260年前の今日
今から1260年前の今日、4月9日に奈良東大寺の大仏が完成したそうです。
先日も採り上げましたが、『禅グラフ』(西光寺の本堂で配布中)誌の、西山厚氏(奈良国立博物館学芸部長)のインタビューで、聖武天皇の大仏建立の背景について、語られています。
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(以下、文意を取りながら抜粋)
聖武天皇のお父さんは25で亡くなった。お母さんは聖武天皇を産んだ後、心を病んで人前に出られなくなった。聖武天皇が初めてお母さんに会ったのは37の時です。ちなみに祖父は28で亡くなっている。
そういう家系ですから、20代で亡くなっても不思議はない。
聖武天皇の時代は惨憺たる時代でもありました。飢饉、干ばつ、地震に天然痘の流行。今だったら、雨が降らなくても人間は簡単に死なない。でも昔は雨が降らないだけで人は死んだんです。
聖武天皇はそれを自分のせいだと受け止めた。私の政治が悪いからだと。天皇は若い頃から体が弱くて病気がちだった。しかし、心は強い。精神力で生きていたような方です。
苦しんで苦しんで、苦しんだ末に、大仏を造ることを思いつく。そのとき、大きな力やたくさんの富は、むしろ有害無用なものになる。
小さな力を無数に集めることにこそ価値がある。大仏を生み出したのは、聖武天皇の苦悩です。その苦悩に近づかないと、大仏のことは理解できません。
大きな力で造るな、たくさんの富で造るなと聖武天皇は言った。
極端に言えば、大仏は出来なくてもいいのかもしれない。大仏造りにかかわる人は心の中に大仏を造れ、と言っておられます。
そして、日に三度、大仏を礼拝せよとも言われます。できていないのに、どうするのか。それは心の中の大仏様を礼拝するのです。
自分の力を誇示するため聖武天皇は大仏を造ったという人がたくさんいます。その人は本当に苦しんだことがないのではないでしょうか。みなの幸せを本気で願ったことがないのではないでしょうか。だから苦悩する人の気持ちが分からない。
しかし、一方で苦悩は悪いことではない。法然上人や道元禅師も比叡山でエリートコースにおられたわけですが、それを許さない苦悩があって比叡山をおりた。苦悩した人にしか分からない世界があって、そういう人たちだけが、苦悩する人も苦悩していない人も共に幸せになる世界をつくり出す可能性をもてるのではないでしょうか。_____________
仏教を学んでいるという一般の方は、往々にして“歴史としての仏教”しか見ていないように思います。史実(←こういう概念も怪しいけどね)をのみ仏教として見ている、というか。もちろん、これ自体は悪いことではありませんが、その見方でしか仏教を見ないと、大変に偏狭な理解になってしまいます。

いきなり話が飛躍しますが、最近、内田樹氏のブログを拝読していて、この話と全く違うようでいて、妙に合点のいく、ぼんやりと合致するような文章がありました。
国旗掲揚と、君が代の斉唱についての文章です。全文はコチラから。
http://blog.tatsuru.com/2012/04/04_1251.php
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全く以て、同感であります。ただ、まぁ、今回の聖武天皇と大仏建立の背景とは、かなり論点がずれているところもあります。それは自覚しています。ただ、結局、歴史としての仏教とか、史実としてだけの信仰とかってことを考えると、トピックこそまるで違いますが、あながち大ハズレでもないような印象を強く受けます。
つまり、「法律だけ(“科学的な実証”)がすべてである。それ以外の価値は認めない。」というのは、一見まったくその通りなのでありますが、だからといって、それを“人間性”すべてに適応できるかと言えば、そんなこと不可能なのであります。
あ、あたり前ですが、法律を無視しろということではないですよ。逆に、法律に従え、という話しでも。(当たり前ですので)
そうではなくて、それで人格の形成が出来るかと言えば、甚だ怪しいし、もっといえば、それで縛り付けられると思っている方が短絡的で、めでたい発想だ、と思えるということです。そして、内田氏の論点もそこではないでしょうか。
仏教的にいえば、戒律も同じで、戒律さえ守れば、そのまますぐに悟れるのか、とういう疑問も出てくるし、他方で“守っていること”を堂々と公言して、それを誇ることの方がずっと問題ではないのかという疑念もわいてきます。いや、これも短絡的に“禅は無の境地だから何をやっても良いんだ”という馬鹿げた僧侶もいたって話しも聞くし・・・。
もし、守りさえすれば・・・という発想なら、世の“引きこもり”と言われている人々は、どうなるんでしょうか・・・。
ちょっと話しが大きくなってしまったし、私もよく分からないことが多いので、今日はこの辺で止めておきます。
先日も採り上げましたが、『禅グラフ』(西光寺の本堂で配布中)誌の、西山厚氏(奈良国立博物館学芸部長)のインタビューで、聖武天皇の大仏建立の背景について、語られています。
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(以下、文意を取りながら抜粋)
聖武天皇のお父さんは25で亡くなった。お母さんは聖武天皇を産んだ後、心を病んで人前に出られなくなった。聖武天皇が初めてお母さんに会ったのは37の時です。ちなみに祖父は28で亡くなっている。
そういう家系ですから、20代で亡くなっても不思議はない。
聖武天皇の時代は惨憺たる時代でもありました。飢饉、干ばつ、地震に天然痘の流行。今だったら、雨が降らなくても人間は簡単に死なない。でも昔は雨が降らないだけで人は死んだんです。
聖武天皇はそれを自分のせいだと受け止めた。私の政治が悪いからだと。天皇は若い頃から体が弱くて病気がちだった。しかし、心は強い。精神力で生きていたような方です。
苦しんで苦しんで、苦しんだ末に、大仏を造ることを思いつく。そのとき、大きな力やたくさんの富は、むしろ有害無用なものになる。
小さな力を無数に集めることにこそ価値がある。大仏を生み出したのは、聖武天皇の苦悩です。その苦悩に近づかないと、大仏のことは理解できません。
大きな力で造るな、たくさんの富で造るなと聖武天皇は言った。
極端に言えば、大仏は出来なくてもいいのかもしれない。大仏造りにかかわる人は心の中に大仏を造れ、と言っておられます。
そして、日に三度、大仏を礼拝せよとも言われます。できていないのに、どうするのか。それは心の中の大仏様を礼拝するのです。
自分の力を誇示するため聖武天皇は大仏を造ったという人がたくさんいます。その人は本当に苦しんだことがないのではないでしょうか。みなの幸せを本気で願ったことがないのではないでしょうか。だから苦悩する人の気持ちが分からない。
しかし、一方で苦悩は悪いことではない。法然上人や道元禅師も比叡山でエリートコースにおられたわけですが、それを許さない苦悩があって比叡山をおりた。苦悩した人にしか分からない世界があって、そういう人たちだけが、苦悩する人も苦悩していない人も共に幸せになる世界をつくり出す可能性をもてるのではないでしょうか。_____________
仏教を学んでいるという一般の方は、往々にして“歴史としての仏教”しか見ていないように思います。史実(←こういう概念も怪しいけどね)をのみ仏教として見ている、というか。もちろん、これ自体は悪いことではありませんが、その見方でしか仏教を見ないと、大変に偏狭な理解になってしまいます。

いきなり話が飛躍しますが、最近、内田樹氏のブログを拝読していて、この話と全く違うようでいて、妙に合点のいく、ぼんやりと合致するような文章がありました。
国旗掲揚と、君が代の斉唱についての文章です。全文はコチラから。
http://blog.tatsuru.com/2012/04/04_1251.php
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もし、「この憲法前文を書いたのが実際には何人かのアメリカ人であるという歴史的事実」というにとどまって、「だからこんなものはナンセンスだ」という「リアリスト」がいたら、彼は「戦争に勝った国の人間は敗戦国民にどのような無理難題も押しつけることができる」という命題を「現実的」だと思っていることになる。
けれども、そのときにこの「リアリスト」もまた「戦争に勝ったアメリカ人たち」にはある種の「集合的な意思」があると思っているし、「敗戦国民」には全員に共通する「負け犬的メンタリティ-」が内在していると思っている。
彼もまた「国民」という集合的な意思や感情が存在するということは無批判に前提しているのである。
この「リアリスト」が未成熟なのは、「欲望や支配欲や卑屈や弱さ」は集合的性格でありうるが「できるだけフェアで住みやすい統治システムをめざす意思」が集合的に共有されるということは「ありえない」と信じているからである。
「色と欲」だけがリアルであり、「きれいごと」はフェイクだというのは、その人のパーソナルな経験が生み出した私見であり、一般性を要求できるようなものではない。
けれども、多くの自称「リアリスト」はこの水準から出ることがない。
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全く以て、同感であります。ただ、まぁ、今回の聖武天皇と大仏建立の背景とは、かなり論点がずれているところもあります。それは自覚しています。ただ、結局、歴史としての仏教とか、史実としてだけの信仰とかってことを考えると、トピックこそまるで違いますが、あながち大ハズレでもないような印象を強く受けます。
つまり、「法律だけ(“科学的な実証”)がすべてである。それ以外の価値は認めない。」というのは、一見まったくその通りなのでありますが、だからといって、それを“人間性”すべてに適応できるかと言えば、そんなこと不可能なのであります。
あ、あたり前ですが、法律を無視しろということではないですよ。逆に、法律に従え、という話しでも。(当たり前ですので)
そうではなくて、それで人格の形成が出来るかと言えば、甚だ怪しいし、もっといえば、それで縛り付けられると思っている方が短絡的で、めでたい発想だ、と思えるということです。そして、内田氏の論点もそこではないでしょうか。
仏教的にいえば、戒律も同じで、戒律さえ守れば、そのまますぐに悟れるのか、とういう疑問も出てくるし、他方で“守っていること”を堂々と公言して、それを誇ることの方がずっと問題ではないのかという疑念もわいてきます。いや、これも短絡的に“禅は無の境地だから何をやっても良いんだ”という馬鹿げた僧侶もいたって話しも聞くし・・・。
もし、守りさえすれば・・・という発想なら、世の“引きこもり”と言われている人々は、どうなるんでしょうか・・・。
ちょっと話しが大きくなってしまったし、私もよく分からないことが多いので、今日はこの辺で止めておきます。