2012年04月13日

戒名なんて不要だ、と思うすべての方へ

先日のYahoo!ニュースに、『戒名必要ない56%、葬式簡素派9割…読売調査』というのがありました。
採り上げようかな~、と思っていたのですが、「花まつり」とか地元大手町お花見と重なってしまって書くことが出来ませんでした。・・・余談ですが、お釈迦様の誕生日「花まつり」は、ちょっと想像以上にたくさんの方にお参り頂きました。有難うございます。甘茶ティーバッグは午前中に完売!ついでに大手町のお花見も楽しかった。いろんな世代が寄って(酔って、ではない・・・笑)、改めてコミュニティの強さを認識しました・・・。

さて、そうこうしているうちに、私の尊敬する曹洞宗僧侶、tenjin先輩のブログに『反・戒名不要論』という名ログを発見。ここに採り上げる次第です。

何度もこのブログで申し上げていますが、先輩は学生時代の寮の先輩で、私など及びもつかないほど該博で、同時に非常に優れた学僧でいらっしゃいます。密かに“平成の面山さま”と私なんかはお慕いしています。

そんな訳で、先輩のブログは、時事ネタ以外はかなり内容が高度で、正直、私程度の者が拝読しても理解できないところが多々あります。同時に、僧侶として共感を覚えたり、叱咤激励されている気分になったり、誠に得ること多し、なのです。

ですが、正直、仏教や禅の知識のない方が読まれると、何を言っているのか多分本当に分からないと思うんですね(笑)で、このブログは“一般の方(特に西光寺の檀家さん)にお読み頂く”ことを標榜しているので、先輩のブログに私自身が学ばせて貰っても、それをあまり公開することはありませんでした。(あ、でも本当に素晴らしいブログですよ!)

と言うことで、前置きが非常に長くなってしまいましたが、本題に入ります。

まずは、tenjin師のログをご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/a43878f52687519e199e103363d2a400?fm=rss

補足的に結論だけ言うと、曹洞宗の葬儀は“戒名と不可分”なのです。何故ならば、葬儀の中に“授戒”というパートがあるからです。これは戒を戒師(=導師)より故人に授けられ、これを以てはじめて「仏となる=成仏」とするのであり、その証として血脈(けちみゃく)と戒名が授けられるのです。その“成仏の証”として、そして“仏としての名”としてのものが戒名であります。
ですから、生前の生き様や、季節や、お名前の人文字、性格、趣味やその他さまざまな事を考慮して、住職は故人様に戒名を授けます。もちろん、仏教に関係した言葉で。(逆に言えば、だから生前でも授与される)まさに“名付けの親”になるわけです。

この点で、明言しておきますが“自分で戒名をつけた”というのは戒名として定義されません。そんな単純で基本的なことも知らないままマスコミは、某落語家の“自分でつけた戒名”とやらで一頻り騒いだりするわけです。

だから、戒名が不要だ、と言う方は、少なくとも禅宗式の葬儀は“できない”と思って下さい。不可分だからです。禅宗に限らず基本的に浄土系以外の宗派の葬儀も同様に“授戒”という形式があると聞いています。

で、問題は“何故、みなさんは戒名を不要と思うか”であります。そこを考えることが、僧侶にとっても、みなさんにとっても大切な事だと思います。もちろん、僧侶側のこうした「葬儀の説明」が不足している、という批判もあるでしょう。それに葬儀(というか死が)はいつ行われるか分からない。だから“事前に説明を受ける”ことも絶対に可能だ、とは言えません。

ですが、みなさんは例えば私のような僧侶が“葬儀や戒名”について、上記のようにお話したとして、それを真摯に受け止めてくれるでしょうか?もちろん、これをご覧の方々は“Yes”と仰ってくれるかもしれない。しかし、みんながみんなそうでしょうか?

お寺や仏教に対する偏見や先入観にまみれた方々に、いくら我々が声をからして訴えたとしても、所詮は“聞く耳持たない”ものです。現実、そういう方を何十人も私は見てきています。

おっと、いつになく愚痴っぽくなりました(汗)
戒名なんて不要だ、と思うすべての方へ
話を戻して、まぁ一般的に“戒名が不要=戒名料が法外に高い”という考えがあるからでしょうね。ちなみに西光寺では特例を除き“戒名料”という独立した名目の御布施は納めて貰っていません。前述のように“葬儀と不可分”だからです。

とにかく、こうして問題になったこと自体、それがそのまま問題なのではありません。「過ちと知りて改めざる、これを過ちという」と儒教でも言いますよね。折角なので、葬儀の意味について、戒名について、みなさんも少し学ばれては如何でしょうか?
そうすれば、“良いと思うから必要、悪いと思うから不要”という短絡的で自己中心的な問題を超えた先が見えると思います。・・・そんなの個人の自由じゃん、と思う方は、その“個人の自由”ですら他者や環境との関わりの中で、たまたまそう勝手に思い込んでいるだけのものと知った方が良いですよ。つまりは他者との関係とは不可分のもので、独立的で絶対的な自由などというものは、所詮は幻想に過ぎない、というごくごく基本的なセオリーも知らない浅はかな考えだ、ということ。

蛇足。このブログは「一般の方(特に西光寺の檀家さん)」をターゲットとしていますが、その実、かなり同業者がご覧になっているご様子。この問題を機に、我々自身も教化の在り方を考えなくてはいけないかもしれませんね。


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Posted by 泰明@西光寺 at 18:27
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