2012年06月05日
『未来の住職塾』から見えるもの
何だか、前回の記事は大風呂敷というか、テーマが茫洋としすぎていたきらいがありました。
要約すれば、「未来の住職塾は、おもしろい。が、しかし、セミナーがあたかも“お寺離れの救世主”であるかのごとく、盲目的に持ち上げてしまう自身の心を見つめ直すべき」ということでありました。
これは、たぶん同じ僧侶じゃないと共感できない、というか僧侶でも個々人でその感覚が違うので、何ともいえませんが、極論からすると、「お寺をどうしたいのか?自分はどう生きたいのか?」と言うことを突きつけられていると私は感じました。
というか、それを感じないようでは、また考えないようでは、正直、これだけの耳目を集める、そして実際にクオリティの高いセミナーであっても(いや、であるからこそ)、それ自体を自ら吟味し、咀嚼しないと、何の役にも立たず、意味もないのではないかと思えます。(だから、このセミナーに“新しい!すばらしい!”と猪突猛進し、グループワークで積極的な発言をすることが“正しい”みたいな空気はちょっと苦手
)
つまり、本当に大切なことは、たぶん『未来の住職塾』を受講してお寺を経営すること(だけ)ではなく、『未来の住職塾』から得たものを通して見すえる、僧侶としてのあり方、これを生きることなのだと考えます。
それが結果的に、還俗(僧侶をやめる)という選択肢もあるだろうし、経営第一主義に走ってとにかくお寺を存続させることだけを考えることもあるだろうし(←泰明には無理)、例えば自らのお寺をたたんで、師家(しけ。修行道場などで僧侶に教えを説き、導くことのできる、学問も修行も積んだ僧侶)となって生きることもありえるだろうし、はたまた宗派の行政のトップに上り詰めることもあるだろうし、後は、布教師とか海外に出たり、御詠歌、和讃のエキスパートになって人に教えるでもいいし、とにかく道は一つではないし、何かの道を強制(或いは誘導)させることでもないと思うんですよね。
そしておそらくは、あのスターチーム(と私が勝手に呼んでいる彼岸寺の運営メンバー)も同じようなことを考えていらっしゃると、いささか強引に思っていたりするわけです。
話題はそれるようですが・・・手前の話で恐縮です。先月より東京で行われている『正法眼蔵』の講義に行き始めました。行き始めました、と言うより一回しか行っていないのでエラソーに言えないのですが(汗)、これからも参学するつもりです。
これをご覧の皆様は、とうにご存じかと思いますが、曹洞宗を開かれた道元禅師が手ずから書かれた書物が『正法眼蔵』です。このタイトルは、正法=仏の正しい教え、眼蔵=その眼目、神髄を集めた書、というような意味がありまして、75巻とか、95巻ある書物の総称です。(日本初の哲学書、なんて形容されたりして、実際、哲学者が広く影響を受け、また研究の対象としていると聞いています)
前々から、この講義に参加したい、とは思っていたのですがなかなか踏ん切りがつかなかった。でも、不思議なことに、今年から『未来の住職塾』に行くことになって、ますますこの『正法眼蔵』の講義で参学したい、と思えるようになりました。
言ってみれば、かたやドラッカーやコトラーの理論を用い、MBAホルダーが教える新感覚のお寺マネジメント。かたや、曹洞宗学のホープと期待される(そして泰明が“平成の面山さま”とお慕いする)これまた若手僧侶による、曹洞宗の神髄『正法眼蔵』講義、まるで正反対のことをやっているように思えるかもしれません。が、なぜだか、2つながら相矛盾することなくすんなり腑に落ちるのです。
端から見れば、「2つの先端」を行ってバランスを取ろうとしているのかもしれない。別々のベクトルの、どちらかに偏らないように・・・と、普通ならそう考えそうなものですが、なぜだか、自分の中では”偏る”という考えもあまりなくって、両の先端を”突き進みたい”、のです。
テーマや内容だけパッと見ると、非常に前者は打算的なセミナーに感じるかもしれません。檀家を増やしたり、寺院経営を安定させたり、派手なイベントをうって参拝者を集めたり、というような。
でも、現段階で、私にはそれを目的にして受講しているつもりは微塵もありません。たぶん、主催者の皆さんもそうでしょう。
結局、お寺を考え、自らのあり方を徹底的に考えるとき、そこにはただ、ひとりの僧侶としての自分しかいなくて、それは僧侶であるが故に、たぶん”仏教とは”ということしか考えられないのだと今は思います。
では、後者はどうなのか。「正法眼蔵を学ぶことが、そのまま現代を生きる我々の生き方を示し、衆生の苦しみを救うことになるのか、もっと他にやることはあるのではないか?」こう自問した日々もありました。宗学に関してかなり懐疑的だった時期も長くありました。が、結局、ここに戻ってきました。(この課程については上手く書けないので略)
だからこそ、そこには矛盾もなく、”両の先端を突き進みたい”、という自然な気持ちに繋がっているのかもしれません。
もう少し話を続けますが、では何故私が『未来の住職塾』に参加しているか、ということについて。
・・・正直、まぁ縁があった、ということでしょうか・・・(爆)
そもそも、彼岸寺はかなり前から読んでいましたし、私の永平寺での同期が執筆していることもあり、ごく自然に触れていました。しかし、しかしです。未来の住職塾に先駆けて行われたプレセミナー(1月@東京 光明寺)の募集要項は、すっかり見落としていました(涙)
その後、朝日新聞土曜版のフロントランナー(1面インタビュー記事)に出られていた池口龍法師(浄土宗)のメルマガを拝読していたら、たまたまそのプレセミナーのことが書かれていて、そこで知った、という次第。(ちょいと脱線しますが、最近の池口師のメルマガにも「お寺に人を集めるのは良いが、結局その後、仏教の教えを説けるか?」というようなことが問題提起されていました。まさにその通りです。だから信仰に裏打ちされた教学は必須で、自らの言葉で人に説くこと、説けなくても伝えようとすることが重要だと思うのです)
回りくどい説明はさておき、さっきから考えていたんですが、たぶん、主に3つの理由が参加動機です。
1.お寺の内部組織をマネージする方法を知りたい。
(・・・特にHRM。なぜならば、拙寺では現在までそうした組織が活動していなかったから)
2.他宗派とのコミュニケーションとその可能性(・・・知り合いを作ると言うより、他宗派のお寺のおかれ方や包括宗教法人との関係を知りたい。それから、他宗派の僧侶の生の声=それぞれの教義とか宗学に関する疑問とか、僧侶としての考えを伺いたい。あとは例えば、合同で法要やプロジェクトを進める場合の“最大公約数”とか、修行や声明・法式に関する互換性とか)
3.講師や運営スタッフの魅力(別にここでヨイショする気は毛頭ないのですが・・・笑・・・実際お会いしたりお話をさせていただいて、人間的に非常に魅力的だったということは断言しておきます。)
・・・まだ1回目なので、結論づけてはいけませんが、特に2.の動機、「他宗派の教義に関して、その教義を信奉する僧侶の生の声を聞きたい」という点では、松本師と親鸞聖人の悟りについての見解を話せたことが非常に印象的でした。
まさに、こうしたことはただ知識や歴史としての仏教を学ぶだけでは見えないから、その教えで生きている僧侶の話ってとても興味深いんですよね。逆に、懇親会で受講生の方といろんなお話をさせてもらったのですが、松本師とのその一瞬しか、そうした会話がなかったのが、残念と言えば残念かな。ま、一回目だし。それに、だからこそ自らも学ばないと、と思えるんですけどね。
さんざん長くなりましたが、最後に現在、興味を持っていること。
これはtenjin先輩のご指摘で、私も「はっ!」と思い出したのですが、彼岸寺に限らず、“寺離れが進み、「新しい仏教」が生まれる”(実際は、“かのように見える”、と続くべき)この時代の状況って、明治期にそっくりなんだそうです。
私も何かの本で、明治期(それも確か初期)の仏教運動についての記事を読んだのですが、(大谷光瑞←字合ってますか?・・・の探検隊あたりからだったかなぁ・・・)かなり前に読んだこともあり、それがどの本なのか記憶がない。
でもうろ覚えだけど、“宗派を超えた動き”、“一般人に訴えかける分かりやすさ”“宗学を振りかざしてはいない=考古学とか文献学という西洋思想に基づいた云々”という点があったように思います。(ホントにうろ覚えです)
その運動が、どのように興り、どのような終焉を迎えたのか。これが非常に興味ある点です。今年のテーマ。
最後にくどいですが、これは『未来の住職塾』や今起こっている新しい仏教ムーブメントへの批判ではありません。(というか、批判したいなら、そもそもお金を払って参加しない・・・笑)
あくまで、仏道のまなびは“古教照心”なのであります。
(まだ1回目なので、いや、なのに、か・・・こんな駄文長文をお読み頂き、ただただ感謝です。ありがとうございました。)
要約すれば、「未来の住職塾は、おもしろい。が、しかし、セミナーがあたかも“お寺離れの救世主”であるかのごとく、盲目的に持ち上げてしまう自身の心を見つめ直すべき」ということでありました。
これは、たぶん同じ僧侶じゃないと共感できない、というか僧侶でも個々人でその感覚が違うので、何ともいえませんが、極論からすると、「お寺をどうしたいのか?自分はどう生きたいのか?」と言うことを突きつけられていると私は感じました。
というか、それを感じないようでは、また考えないようでは、正直、これだけの耳目を集める、そして実際にクオリティの高いセミナーであっても(いや、であるからこそ)、それ自体を自ら吟味し、咀嚼しないと、何の役にも立たず、意味もないのではないかと思えます。(だから、このセミナーに“新しい!すばらしい!”と猪突猛進し、グループワークで積極的な発言をすることが“正しい”みたいな空気はちょっと苦手

つまり、本当に大切なことは、たぶん『未来の住職塾』を受講してお寺を経営すること(だけ)ではなく、『未来の住職塾』から得たものを通して見すえる、僧侶としてのあり方、これを生きることなのだと考えます。
それが結果的に、還俗(僧侶をやめる)という選択肢もあるだろうし、経営第一主義に走ってとにかくお寺を存続させることだけを考えることもあるだろうし(←泰明には無理)、例えば自らのお寺をたたんで、師家(しけ。修行道場などで僧侶に教えを説き、導くことのできる、学問も修行も積んだ僧侶)となって生きることもありえるだろうし、はたまた宗派の行政のトップに上り詰めることもあるだろうし、後は、布教師とか海外に出たり、御詠歌、和讃のエキスパートになって人に教えるでもいいし、とにかく道は一つではないし、何かの道を強制(或いは誘導)させることでもないと思うんですよね。
そしておそらくは、あのスターチーム(と私が勝手に呼んでいる彼岸寺の運営メンバー)も同じようなことを考えていらっしゃると、いささか強引に思っていたりするわけです。
話題はそれるようですが・・・手前の話で恐縮です。先月より東京で行われている『正法眼蔵』の講義に行き始めました。行き始めました、と言うより一回しか行っていないのでエラソーに言えないのですが(汗)、これからも参学するつもりです。
これをご覧の皆様は、とうにご存じかと思いますが、曹洞宗を開かれた道元禅師が手ずから書かれた書物が『正法眼蔵』です。このタイトルは、正法=仏の正しい教え、眼蔵=その眼目、神髄を集めた書、というような意味がありまして、75巻とか、95巻ある書物の総称です。(日本初の哲学書、なんて形容されたりして、実際、哲学者が広く影響を受け、また研究の対象としていると聞いています)
前々から、この講義に参加したい、とは思っていたのですがなかなか踏ん切りがつかなかった。でも、不思議なことに、今年から『未来の住職塾』に行くことになって、ますますこの『正法眼蔵』の講義で参学したい、と思えるようになりました。
言ってみれば、かたやドラッカーやコトラーの理論を用い、MBAホルダーが教える新感覚のお寺マネジメント。かたや、曹洞宗学のホープと期待される(そして泰明が“平成の面山さま”とお慕いする)これまた若手僧侶による、曹洞宗の神髄『正法眼蔵』講義、まるで正反対のことをやっているように思えるかもしれません。が、なぜだか、2つながら相矛盾することなくすんなり腑に落ちるのです。
端から見れば、「2つの先端」を行ってバランスを取ろうとしているのかもしれない。別々のベクトルの、どちらかに偏らないように・・・と、普通ならそう考えそうなものですが、なぜだか、自分の中では”偏る”という考えもあまりなくって、両の先端を”突き進みたい”、のです。
テーマや内容だけパッと見ると、非常に前者は打算的なセミナーに感じるかもしれません。檀家を増やしたり、寺院経営を安定させたり、派手なイベントをうって参拝者を集めたり、というような。
でも、現段階で、私にはそれを目的にして受講しているつもりは微塵もありません。たぶん、主催者の皆さんもそうでしょう。
結局、お寺を考え、自らのあり方を徹底的に考えるとき、そこにはただ、ひとりの僧侶としての自分しかいなくて、それは僧侶であるが故に、たぶん”仏教とは”ということしか考えられないのだと今は思います。
では、後者はどうなのか。「正法眼蔵を学ぶことが、そのまま現代を生きる我々の生き方を示し、衆生の苦しみを救うことになるのか、もっと他にやることはあるのではないか?」こう自問した日々もありました。宗学に関してかなり懐疑的だった時期も長くありました。が、結局、ここに戻ってきました。(この課程については上手く書けないので略)
だからこそ、そこには矛盾もなく、”両の先端を突き進みたい”、という自然な気持ちに繋がっているのかもしれません。
もう少し話を続けますが、では何故私が『未来の住職塾』に参加しているか、ということについて。
・・・正直、まぁ縁があった、ということでしょうか・・・(爆)
そもそも、彼岸寺はかなり前から読んでいましたし、私の永平寺での同期が執筆していることもあり、ごく自然に触れていました。しかし、しかしです。未来の住職塾に先駆けて行われたプレセミナー(1月@東京 光明寺)の募集要項は、すっかり見落としていました(涙)
その後、朝日新聞土曜版のフロントランナー(1面インタビュー記事)に出られていた池口龍法師(浄土宗)のメルマガを拝読していたら、たまたまそのプレセミナーのことが書かれていて、そこで知った、という次第。(ちょいと脱線しますが、最近の池口師のメルマガにも「お寺に人を集めるのは良いが、結局その後、仏教の教えを説けるか?」というようなことが問題提起されていました。まさにその通りです。だから信仰に裏打ちされた教学は必須で、自らの言葉で人に説くこと、説けなくても伝えようとすることが重要だと思うのです)
回りくどい説明はさておき、さっきから考えていたんですが、たぶん、主に3つの理由が参加動機です。
1.お寺の内部組織をマネージする方法を知りたい。
(・・・特にHRM。なぜならば、拙寺では現在までそうした組織が活動していなかったから)
2.他宗派とのコミュニケーションとその可能性(・・・知り合いを作ると言うより、他宗派のお寺のおかれ方や包括宗教法人との関係を知りたい。それから、他宗派の僧侶の生の声=それぞれの教義とか宗学に関する疑問とか、僧侶としての考えを伺いたい。あとは例えば、合同で法要やプロジェクトを進める場合の“最大公約数”とか、修行や声明・法式に関する互換性とか)
3.講師や運営スタッフの魅力(別にここでヨイショする気は毛頭ないのですが・・・笑・・・実際お会いしたりお話をさせていただいて、人間的に非常に魅力的だったということは断言しておきます。)
・・・まだ1回目なので、結論づけてはいけませんが、特に2.の動機、「他宗派の教義に関して、その教義を信奉する僧侶の生の声を聞きたい」という点では、松本師と親鸞聖人の悟りについての見解を話せたことが非常に印象的でした。
まさに、こうしたことはただ知識や歴史としての仏教を学ぶだけでは見えないから、その教えで生きている僧侶の話ってとても興味深いんですよね。逆に、懇親会で受講生の方といろんなお話をさせてもらったのですが、松本師とのその一瞬しか、そうした会話がなかったのが、残念と言えば残念かな。ま、一回目だし。それに、だからこそ自らも学ばないと、と思えるんですけどね。
さんざん長くなりましたが、最後に現在、興味を持っていること。
これはtenjin先輩のご指摘で、私も「はっ!」と思い出したのですが、彼岸寺に限らず、“寺離れが進み、「新しい仏教」が生まれる”(実際は、“かのように見える”、と続くべき)この時代の状況って、明治期にそっくりなんだそうです。
私も何かの本で、明治期(それも確か初期)の仏教運動についての記事を読んだのですが、(大谷光瑞←字合ってますか?・・・の探検隊あたりからだったかなぁ・・・)かなり前に読んだこともあり、それがどの本なのか記憶がない。
でもうろ覚えだけど、“宗派を超えた動き”、“一般人に訴えかける分かりやすさ”“宗学を振りかざしてはいない=考古学とか文献学という西洋思想に基づいた云々”という点があったように思います。(ホントにうろ覚えです)
その運動が、どのように興り、どのような終焉を迎えたのか。これが非常に興味ある点です。今年のテーマ。
最後にくどいですが、これは『未来の住職塾』や今起こっている新しい仏教ムーブメントへの批判ではありません。(というか、批判したいなら、そもそもお金を払って参加しない・・・笑)
あくまで、仏道のまなびは“古教照心”なのであります。
(まだ1回目なので、いや、なのに、か・・・こんな駄文長文をお読み頂き、ただただ感謝です。ありがとうございました。)