2012年09月11日
今時の手元供養、ペンダントとか
もう、けっこう前の話になるんですが、現代仏壇やメモリアルペンダントのデザイナーをされている、どすごいブロガー、エプロンデザイナーさんが西光寺に来て下さり、お話をさせていただく機会を得ました。(この記事、書いておいたのにアップし忘れてた・・・ごめんなさい)
この数日前に、ご本人から”手元供養や、仏壇についての僧侶としての意見を伺いたい”、と丁寧なメールを頂戴し、今回の運びとなりました。地方ブログならでは。感謝です。
お会いしたこの日は、実は坐禅会の翌日で、なぜか昨夜のテンションそのままに、多岐にわたる会話ができました。(いや、正確にはこっちが話し散らした、という感じ・・・)
私自身も、手元供養やメモリアルペンダントの実態をお伺いすることができ、誠に得がたい、貴重な時間をいただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。
さて、手元供養とかメモリアルペンダントってどんなものかご存じでしょうか?
私は恥ずかしながら、よく知りませんでした。お骨の一部をペンダントに入れる、といったくらいの知識。
手元供養に至っては、まったくの無知。
今回のお話で、分骨(いわゆる、本山などに納骨する小さなお骨壺)をきれいにディスプレイして、文字通り手元で供養するのが手元供養だと知りました。
そのデザインを見せて頂き、また具体的に長男家系ではない方や、結婚された娘さん(つまり、直接的に自分の血縁の仏壇を置けない方)が手元供養をされている事実を知りました。彼ら彼女らの置かれた状況などを知り、いたく感心したのでした。勉強になります。
ただ、1つ気になったのが、ペンダントであれ、手元供養であれ、基本的に位牌や本尊と言った、いわば”敬うべき対象”がないことです。
「自分の家族が亡くなったんだから、別にお骨を祀るだけで何が悪い?!」と感じられるかもしれません。まぁ、その気持ちもわかります。悪くはないのかもしれない。
ですが、それって、結局のところ、”悲しいから、いつも手元に置いておきたい”という、言葉は悪いですが”ペット”即ち”愛玩の対象”になってはしませんか?
あまねく世界宗教が、本来”葬式の教え”ではないのにも関わらず、葬儀を、儀礼を執り行っているその背後には、”愛する人が死ぬというやりきれなさ”を何とか精算するためのものじゃないでしょうか。大部分の日本仏教が”没後作僧”という形式を採用したり、神への礼拝を通し”神のもとへ”というキリスト教の儀礼であったり(違っていたらごめんなさい)。
いずれにせよ、こうした儀礼には、宗教者が本来持っているだろう”慈しみの心”の発露であるし、同時に故人が”異化”(仏教の場合なら「ほとけ」という存在に転化)することで、ようやく少し安心できるのかな、と思います。
結局、言い方は悪いですが、宗教・信仰なき供養って(そもそも供養という単語自体が仏教語だが)、”もう使えないのに愛着のある鞄”を持っていることと変わらないのでは・・・と危惧しています。
ま、ともあれ、このとき”も”、とにかく私が一方的に話してしまって、後でけっこう反省したのですが(←こればっかり)、中でも印象的だったご質問をいただきました。それは・・・
「お坊さんとして、何をしているときが、一番楽しいですか?」というもの。
これ、結構難しいですよ!
一瞬戸惑いました。
楽しいこと・・・あんまりないような気がします(笑)
このときは、
「今の様に、仏教の話を、気軽に会話するようにできることです。
葬儀や法事の場ではなく、形式的な食事の席でもなく、大上段からの話でもなく、キャッチボールをするように、自然に仏教の話ができること、できる機会が、自分にとっての喜びです。」
とお答えしました。
もちろん、それはただ自分が話をした満足感という卑小なものではなく、相手の方が納得したり、新しいことに気づいて下さったり、新たな視座や知識を提供できれば、という条件付きですけど。
ともあれ、貴重な時間でした。
この数日前に、ご本人から”手元供養や、仏壇についての僧侶としての意見を伺いたい”、と丁寧なメールを頂戴し、今回の運びとなりました。地方ブログならでは。感謝です。
お会いしたこの日は、実は坐禅会の翌日で、なぜか昨夜のテンションそのままに、多岐にわたる会話ができました。(いや、正確にはこっちが話し散らした、という感じ・・・)
私自身も、手元供養やメモリアルペンダントの実態をお伺いすることができ、誠に得がたい、貴重な時間をいただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。
さて、手元供養とかメモリアルペンダントってどんなものかご存じでしょうか?
私は恥ずかしながら、よく知りませんでした。お骨の一部をペンダントに入れる、といったくらいの知識。
手元供養に至っては、まったくの無知。
今回のお話で、分骨(いわゆる、本山などに納骨する小さなお骨壺)をきれいにディスプレイして、文字通り手元で供養するのが手元供養だと知りました。
そのデザインを見せて頂き、また具体的に長男家系ではない方や、結婚された娘さん(つまり、直接的に自分の血縁の仏壇を置けない方)が手元供養をされている事実を知りました。彼ら彼女らの置かれた状況などを知り、いたく感心したのでした。勉強になります。
ただ、1つ気になったのが、ペンダントであれ、手元供養であれ、基本的に位牌や本尊と言った、いわば”敬うべき対象”がないことです。
「自分の家族が亡くなったんだから、別にお骨を祀るだけで何が悪い?!」と感じられるかもしれません。まぁ、その気持ちもわかります。悪くはないのかもしれない。
ですが、それって、結局のところ、”悲しいから、いつも手元に置いておきたい”という、言葉は悪いですが”ペット”即ち”愛玩の対象”になってはしませんか?
あまねく世界宗教が、本来”葬式の教え”ではないのにも関わらず、葬儀を、儀礼を執り行っているその背後には、”愛する人が死ぬというやりきれなさ”を何とか精算するためのものじゃないでしょうか。大部分の日本仏教が”没後作僧”という形式を採用したり、神への礼拝を通し”神のもとへ”というキリスト教の儀礼であったり(違っていたらごめんなさい)。
いずれにせよ、こうした儀礼には、宗教者が本来持っているだろう”慈しみの心”の発露であるし、同時に故人が”異化”(仏教の場合なら「ほとけ」という存在に転化)することで、ようやく少し安心できるのかな、と思います。
結局、言い方は悪いですが、宗教・信仰なき供養って(そもそも供養という単語自体が仏教語だが)、”もう使えないのに愛着のある鞄”を持っていることと変わらないのでは・・・と危惧しています。
ま、ともあれ、このとき”も”、とにかく私が一方的に話してしまって、後でけっこう反省したのですが(←こればっかり)、中でも印象的だったご質問をいただきました。それは・・・
「お坊さんとして、何をしているときが、一番楽しいですか?」というもの。
これ、結構難しいですよ!
一瞬戸惑いました。
楽しいこと・・・あんまりないような気がします(笑)
このときは、
「今の様に、仏教の話を、気軽に会話するようにできることです。
葬儀や法事の場ではなく、形式的な食事の席でもなく、大上段からの話でもなく、キャッチボールをするように、自然に仏教の話ができること、できる機会が、自分にとっての喜びです。」
とお答えしました。
もちろん、それはただ自分が話をした満足感という卑小なものではなく、相手の方が納得したり、新しいことに気づいて下さったり、新たな視座や知識を提供できれば、という条件付きですけど。
ともあれ、貴重な時間でした。
この記事へのコメント
とても貴重なお話しをありがとうございました。
本当に勉強になりましたし、楽しい時間でした。
宗教は取っ掛かりがないと、難しいですね。
また、何かの機会にお話しできる事を楽しみにしています
本当に勉強になりましたし、楽しい時間でした。
宗教は取っ掛かりがないと、難しいですね。
また、何かの機会にお話しできる事を楽しみにしています
Posted by エプロンデザイナー
at 2012年09月11日 20:24

>エプロンデザイナーさん
こんにちは。先日は、本当にありがとうございました。
せっかく貴重なお時間をいただいて、しかも記事にまでしておいたのに・・・忘れてましてすみません!
こちらこそ、たくさんのことを学ばせて頂きました。ありがとうございました。またお目にかかれるのを楽しみにしています。
こんにちは。先日は、本当にありがとうございました。
せっかく貴重なお時間をいただいて、しかも記事にまでしておいたのに・・・忘れてましてすみません!
こちらこそ、たくさんのことを学ばせて頂きました。ありがとうございました。またお目にかかれるのを楽しみにしています。
Posted by 泰明@西光寺 at 2012年09月12日 09:53