2011年01月27日
お寺に対する本音 -前編-
金子牧師さんのブログに、あおい葬祭さんがコメント(=僧侶に対する質問)を残されていまして、その内容が考えさせられるものでしたので、遅ればせながら反省と勉強の意味を込めてお答えします。
(該当ページ)→ http://kanegon.dosugoi.net/e95780.html
① お布施の談合について
・・・私はこれに関して寡聞にして知りません。本当にそんなことをやっている僧侶がいるのでしょうか?むしろそっちの方が知りたいです。
② 葬儀、仏壇、墓石の指定業者のリベートについて
・・・これも私のいるお寺では指定業者が一切ありませんので、それはありません。
業者の選択は、すべてお檀家さんご自身のご判断にお任せしています。
「お店を紹介してくれ」と言われた場合は、基本的にそのお檀家さんのお住まいから一番近いお店をお教えします。その際も、一つに固定せずに、複数のお店をお教えしています。
③ 死んだ後の戒名がどうしてランクがあるのか?またその違いは何か?
・・・私も興味があってちょこっとづつ調べて入るのですが、正直、よく分かりません。
多分、「同じ人間なのにどうして戒名ひとつでそんなに金額が違うんだ!!」という意見が、みなさんの中で圧倒的にあるのではないでしょうか?私もそう思います。
がしかし、これはそんな単純な説明で終わるほど簡単なものではないようです。
まず、新生児や幼児・子供さんに対してだけ付ける戒名(正確には”位階”の部分)があることも事実です。こうしたことは特に「その幼な子の死を悼む」表れに他なりません。これを”ランク”と呼べるのでしょうか。
また、「いくらお金を積まれても、戒名を付けない」、という話も枚挙に暇がありません。
具体的に書けば「わしはこれだけ布施するから、院号を付けてくれ」と言われても、お寺に本質的に援助(お金だけじゃないですから)や、信心を惜しまない檀家さんでなければ、どんなに大金を積まれても絶対に住職は付けなかった、という話です。
これは言うなれば、そのお施主さんの完全なる「名誉欲」あるいは「肩書き」欲しさのための権利買収に他ならないからです。
住職からしたら、そんなものは戒名じゃないし、戒名はそうあってはならない、ということなんでしょうね。
(*特に院号は基本的にそのお寺の総代さんなど、物心両面でお寺に貢献した方にのみつけます。原意は「院=建物、を建てた」ということでもあるからです。だから今の感覚で言ったら「家一軒を建てて寄付した」方、ということです。)
さて、ここからは私個人の憶測で書きますから、典拠となるものはありません。それをご承知の上、お読みください。
ランクがあること、これを簡単に説明すると、「檀家さんと一口に言っても、いろんな経済状況があります。収入の少ない家は、少ないなりに、きちんとお寺は先祖を守っていく、また多い家は多いなりにたくさんお寺に布施してもらって、そのお金で寺院を運営していく」ということの方便として、戒名に差があるのではないかということです。
こうした葬儀は、(民衆においては、ですが)江戸時代の頃から続いてることで、多分にそうやって各家を保護してきた背景があるんだろうと思います。何しろ身分制度もあった時代ですから。
じゃあだったら、今はどうなの?という話になります。しかし、現在でもそうして「方便として」使われている事実はあるのではなかろうか、と考えます。それに一律全部同じ金額、という定額にしたら、それこそ「払えない方は檀家じゃないのか」という話になりますよね。(こんなことはあってはなりませんが)
で、なぜ「方便」が必要なのかと言うと、そうしないと一般の方は納得できなかったから、ではないかと思います。
だって同じ金額を払って、全部ランクの違う品物が出てきたら一般的に納得できるでしょうか。ここは「布施」という観念と、世俗的価値観の背反が引き起こす相違だと愚考しています。
いずれにせよ、考えていかなければならない、重要な問題ですね。私も折に触れ、考えたいと思います。
④ 檀家がたくさんいるお寺様のほうが見ていてえばってるようにみえるのですが・・・?
・・・あはは~(笑) こういう「絵にかいたような」住職っているんでしょうね。お金があるから?なんでしょうかね?でも私には恥ずかしさを通り越して、コミカルに映ります。
⑤ 住職の奥さんや子供がクリスチャンだったり創価学会だったり それってどう?
・・・え~~~?!びっくりです。もちろん信教の自由ですから結構ですが、それにしても・・・。
住職を見て仏教に嫌気がさしたんですかね(笑)
あっ、ちなみにウチの場合は、結婚後すぐに妻は寺族得度(お寺の奥さんが仏教に帰依する式)をしています。
長くなってしまったので、後編に続きます。
(該当ページ)→ http://kanegon.dosugoi.net/e95780.html
① お布施の談合について
・・・私はこれに関して寡聞にして知りません。本当にそんなことをやっている僧侶がいるのでしょうか?むしろそっちの方が知りたいです。
② 葬儀、仏壇、墓石の指定業者のリベートについて
・・・これも私のいるお寺では指定業者が一切ありませんので、それはありません。
業者の選択は、すべてお檀家さんご自身のご判断にお任せしています。
「お店を紹介してくれ」と言われた場合は、基本的にそのお檀家さんのお住まいから一番近いお店をお教えします。その際も、一つに固定せずに、複数のお店をお教えしています。
③ 死んだ後の戒名がどうしてランクがあるのか?またその違いは何か?
・・・私も興味があってちょこっとづつ調べて入るのですが、正直、よく分かりません。
多分、「同じ人間なのにどうして戒名ひとつでそんなに金額が違うんだ!!」という意見が、みなさんの中で圧倒的にあるのではないでしょうか?私もそう思います。
がしかし、これはそんな単純な説明で終わるほど簡単なものではないようです。
まず、新生児や幼児・子供さんに対してだけ付ける戒名(正確には”位階”の部分)があることも事実です。こうしたことは特に「その幼な子の死を悼む」表れに他なりません。これを”ランク”と呼べるのでしょうか。
また、「いくらお金を積まれても、戒名を付けない」、という話も枚挙に暇がありません。
具体的に書けば「わしはこれだけ布施するから、院号を付けてくれ」と言われても、お寺に本質的に援助(お金だけじゃないですから)や、信心を惜しまない檀家さんでなければ、どんなに大金を積まれても絶対に住職は付けなかった、という話です。
これは言うなれば、そのお施主さんの完全なる「名誉欲」あるいは「肩書き」欲しさのための権利買収に他ならないからです。
住職からしたら、そんなものは戒名じゃないし、戒名はそうあってはならない、ということなんでしょうね。
(*特に院号は基本的にそのお寺の総代さんなど、物心両面でお寺に貢献した方にのみつけます。原意は「院=建物、を建てた」ということでもあるからです。だから今の感覚で言ったら「家一軒を建てて寄付した」方、ということです。)
さて、ここからは私個人の憶測で書きますから、典拠となるものはありません。それをご承知の上、お読みください。
ランクがあること、これを簡単に説明すると、「檀家さんと一口に言っても、いろんな経済状況があります。収入の少ない家は、少ないなりに、きちんとお寺は先祖を守っていく、また多い家は多いなりにたくさんお寺に布施してもらって、そのお金で寺院を運営していく」ということの方便として、戒名に差があるのではないかということです。
こうした葬儀は、(民衆においては、ですが)江戸時代の頃から続いてることで、多分にそうやって各家を保護してきた背景があるんだろうと思います。何しろ身分制度もあった時代ですから。
じゃあだったら、今はどうなの?という話になります。しかし、現在でもそうして「方便として」使われている事実はあるのではなかろうか、と考えます。それに一律全部同じ金額、という定額にしたら、それこそ「払えない方は檀家じゃないのか」という話になりますよね。(こんなことはあってはなりませんが)
で、なぜ「方便」が必要なのかと言うと、そうしないと一般の方は納得できなかったから、ではないかと思います。
だって同じ金額を払って、全部ランクの違う品物が出てきたら一般的に納得できるでしょうか。ここは「布施」という観念と、世俗的価値観の背反が引き起こす相違だと愚考しています。
いずれにせよ、考えていかなければならない、重要な問題ですね。私も折に触れ、考えたいと思います。
④ 檀家がたくさんいるお寺様のほうが見ていてえばってるようにみえるのですが・・・?
・・・あはは~(笑) こういう「絵にかいたような」住職っているんでしょうね。お金があるから?なんでしょうかね?でも私には恥ずかしさを通り越して、コミカルに映ります。
⑤ 住職の奥さんや子供がクリスチャンだったり創価学会だったり それってどう?
・・・え~~~?!びっくりです。もちろん信教の自由ですから結構ですが、それにしても・・・。
住職を見て仏教に嫌気がさしたんですかね(笑)
あっ、ちなみにウチの場合は、結婚後すぐに妻は寺族得度(お寺の奥さんが仏教に帰依する式)をしています。
長くなってしまったので、後編に続きます。
この記事へのコメント
戒名についての文章で、亡くなった幼児を悼むという気持ちの表現として、戒名をつけるということに、「なるほど」と思いました。
今の社会では、戒名についての話が必ずお金の話とリンクしてしまいますが、元々これはそういう話ではなかったような気がします。多分、戒名をつけるという起源の段階では、個々の戒名に有意な差はなかった。しかし、檀家さんの経済状況はいろいろで、御寺への貢献度を目に見える形で現してほしいという社会的な要請があって、止むを得ず金額の多寡で戒名に「ランク」をつける必要が生まれた。泰明さんも「方便」と言っておられるように、そういう説明はありだと思います。ちなみに、私もよくやりますが、憶測であっても、その推測で事柄がある程度説明できるならば、その推測に基づいて論を展開するのはありだと思います。新事実なり知識なりがわかったらまた修正すればいいのですし。
>住職を見て仏教に嫌気がさしたんですかね
キリスト教でも似たような話があります。特定の人を優遇する牧師に嫌気がさしてプロテスタントからカトリックに行った話とか、キリスト教から新興宗教に行った話とか、やはりそういうことはあるのですね。
今の社会では、戒名についての話が必ずお金の話とリンクしてしまいますが、元々これはそういう話ではなかったような気がします。多分、戒名をつけるという起源の段階では、個々の戒名に有意な差はなかった。しかし、檀家さんの経済状況はいろいろで、御寺への貢献度を目に見える形で現してほしいという社会的な要請があって、止むを得ず金額の多寡で戒名に「ランク」をつける必要が生まれた。泰明さんも「方便」と言っておられるように、そういう説明はありだと思います。ちなみに、私もよくやりますが、憶測であっても、その推測で事柄がある程度説明できるならば、その推測に基づいて論を展開するのはありだと思います。新事実なり知識なりがわかったらまた修正すればいいのですし。
>住職を見て仏教に嫌気がさしたんですかね
キリスト教でも似たような話があります。特定の人を優遇する牧師に嫌気がさしてプロテスタントからカトリックに行った話とか、キリスト教から新興宗教に行った話とか、やはりそういうことはあるのですね。
Posted by ヒソカ at 2011年01月27日 22:09
ヒソカさま
おはようございます。コメントありがとうございます。
まさにヒソカさまの仰る通りです。(私の文章より遥かに的確で、私が一番納得してしまいました・・・笑)
ヒソカさまがご指摘の「社会的要請」、私の言葉で言えば「世俗化」というものが、皆さん思ってらっしゃる以上に、この日本の宗教(仏教に限らず)では強く、大きく影響しています。
厄介なのは、私たち自身がそれと気づかないほど大きいということです。これについては近日中に『沼地「日本」』というタイトルでアップする予定です。ご高覧賜れば幸甚です。
あ、それからもしよろしければ、リンクさせていただけませんか。よろしくお願いいたします。
おはようございます。コメントありがとうございます。
まさにヒソカさまの仰る通りです。(私の文章より遥かに的確で、私が一番納得してしまいました・・・笑)
ヒソカさまがご指摘の「社会的要請」、私の言葉で言えば「世俗化」というものが、皆さん思ってらっしゃる以上に、この日本の宗教(仏教に限らず)では強く、大きく影響しています。
厄介なのは、私たち自身がそれと気づかないほど大きいということです。これについては近日中に『沼地「日本」』というタイトルでアップする予定です。ご高覧賜れば幸甚です。
あ、それからもしよろしければ、リンクさせていただけませんか。よろしくお願いいたします。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年01月28日 09:37
>泰明さん
そうそう、リンクをお願いしようと思っていて忘れていました。どうぞリンクしてください。こちらこそよろしくお願いします。
「世俗化」というのは、キリスト教でもしばしば論題になるテーマです。大抵は否定的な文脈で用いられます。反対に、20世紀の神学者のボンヘッファーという人は、「現代世界は世俗化した世界だから、脅したり不安を煽ったりするような伝道(布教)は論外だ。世俗化した世界におけるキリスト教を考えねばならない」という意味のことを言っています。平たく言うと、「世俗化」との付き合い方をそれまでとは違ったものとして考える必要があるということです。
日蓮宗の了法寺(http://ryohoji.jp/about.html)の試みをご存知ですか?ここのやり方は「世俗化」との肯定的な付き合い方と捉えることができると思います。アメリカに留学中の友人が「仏教、進化しすぎでしょ」と賞賛していました(笑)。
そうそう、リンクをお願いしようと思っていて忘れていました。どうぞリンクしてください。こちらこそよろしくお願いします。
「世俗化」というのは、キリスト教でもしばしば論題になるテーマです。大抵は否定的な文脈で用いられます。反対に、20世紀の神学者のボンヘッファーという人は、「現代世界は世俗化した世界だから、脅したり不安を煽ったりするような伝道(布教)は論外だ。世俗化した世界におけるキリスト教を考えねばならない」という意味のことを言っています。平たく言うと、「世俗化」との付き合い方をそれまでとは違ったものとして考える必要があるということです。
日蓮宗の了法寺(http://ryohoji.jp/about.html)の試みをご存知ですか?ここのやり方は「世俗化」との肯定的な付き合い方と捉えることができると思います。アメリカに留学中の友人が「仏教、進化しすぎでしょ」と賞賛していました(笑)。
Posted by ヒソカ at 2011年01月28日 10:10
お疲れ様です^^
遅くなりましたがブログ開設おめでとうございます。
このブログを通してお寺様とはどんな人達なのか、また
仏教とは何なのかなど教えていただけるとうれしいです。
遅くなりましたがブログ開設おめでとうございます。
このブログを通してお寺様とはどんな人達なのか、また
仏教とは何なのかなど教えていただけるとうれしいです。
Posted by 家族葬専門葬儀社あおい葬祭 深谷憲弘 at 2011年01月28日 11:24
コメントありがとうございます!
>ヒソカさん
リンクをご快諾いただき、ありがとうございます。さっそく登録させていただきました。
やはりキリスト教においても「世俗化」は避けて通れないのですね。(まぁそれを言うとすべての宗教に言えますが)ボンヘッファー氏のご意見はご尤も、と思います。
それにしても、日本という国は、そうした側面からすると、その”世俗化”が結構特殊なのかな、と日本仏教史を通して思います。私も、どちらかというと否定的に捉えてはいません。(昔はかな~り否定的でしたが・・・笑)
了法寺さん、ウェブサイトを拝見しましたが、結構ぶっとんでますね(笑)ウチはちょっとまねできません(涙)
>深谷さん
いらっしゃいませ。コメントありがとうございます。
そうですね。おっしゃる通り、皆様にとっては僧侶の日常やその教え(と実践)が一番、見えにくいのだろうと思います。(悪口の方が伝わりやすいですし・・・涙)
ちょっとづつ頑張っていきます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
>ヒソカさん
リンクをご快諾いただき、ありがとうございます。さっそく登録させていただきました。
やはりキリスト教においても「世俗化」は避けて通れないのですね。(まぁそれを言うとすべての宗教に言えますが)ボンヘッファー氏のご意見はご尤も、と思います。
それにしても、日本という国は、そうした側面からすると、その”世俗化”が結構特殊なのかな、と日本仏教史を通して思います。私も、どちらかというと否定的に捉えてはいません。(昔はかな~り否定的でしたが・・・笑)
了法寺さん、ウェブサイトを拝見しましたが、結構ぶっとんでますね(笑)ウチはちょっとまねできません(涙)
>深谷さん
いらっしゃいませ。コメントありがとうございます。
そうですね。おっしゃる通り、皆様にとっては僧侶の日常やその教え(と実践)が一番、見えにくいのだろうと思います。(悪口の方が伝わりやすいですし・・・涙)
ちょっとづつ頑張っていきます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
Posted by 泰明@西光寺
at 2011年01月28日 11:59

すげえ了法寺・・・これが噂の「萌え寺」か・・・
Posted by kanegon at 2011年01月28日 14:45
>kanegonさん
昨日はありがとうございました!!
すごいですね了法寺さん・・・ウチは真似できんけど・・・(笑)
昨日はありがとうございました!!
すごいですね了法寺さん・・・ウチは真似できんけど・・・(笑)
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年01月29日 15:18