2011年02月02日
これからの「葬儀」の話をしよう -0-
*****お知らせ*******
「-1-」をアップした後に、ちょっと言葉が足りなかった点がありましたので、ここに急ぎ補足としてヴァージョン「-0-」を書いておきたいと思います。
****************
今回、この”これからの「葬儀」の話をしよう”を書き始めたのには、一つの大きな理由があります。
それは、葬儀に関して、僧侶である私も悩んでいる(いた)から
です。
「え?なんで?」って思われるかもしれません。「マスコミのせいで、葬儀の数が減ったから??」いえいえ、それもあるかもしれませんが、そんな簡単なことではありません。
でも、これにはそれなりの複合的要因がありました。ここでは大っぴらに書けませんので、もしどうしてもお知りになりたかったら、私のところに来てください。仲良くなったら喋るかも?!!(笑)
さて、ともかく、私も悩んでいるんです。
わからないことも多いし、自分だけではどうしようもないこともある。でも、まずはこのブログの「はじめに」でも書いたように”悩み、立ち止り、壁にぶつかる、しかもそれを隠さず”に、書いていこうと思っています。「みなさんも一緒に考えていきましょう」&「僧侶からの一面的な見方はやめたいです」そうした思いから、このタイトルを付けました。

それで・・・問題なのは、「答えは一言で言えるほど簡単ではない!」ということ。
昨今、池上彰さんの大活躍を見るまでもなく、出版関係でも「わかりやすい××」みたいなものが売れています。売れる理由も何となくは分かりますし、「分かりやすく説明してよ!」という皆さんのお気持ちもよく理解できます。でも「わかりやすいことは、そんなにいいことか??」と私は常々思っているので、ちょっと複雑な気分です。
分かりやすいことって、そんなにいいんでしょうか?まぁこれついて書き始めるとまた長くなるので、日を改めて(そして覚えていたら)書こうと思いますが、分かりやすい、という視座で書くと、こうなっちゃうんです↓。
例えば、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書・島田 裕巳著)のような本が売れました。そのことに対して、簡単に反論すると・・・
「この著者は、オウム真理教に肩入れして、しかもその危険性すら指摘できず、挙句の果てにそれが原因で宗教学の学会から追放された、とんでもない学者。そんな方が書いた本を信じられますか?」
・・・みたいな書き方になっちゃうんですよね。
別にこの方を嫌っているわけでもなんでもないんですが、分かりやすい、という書き方だとこんな風になっちゃうんです。著者に対して失礼な書き方ですよね。
もちろん、この本に関してはさまざまな宗教者がつっこみを入れまくっていますが(笑)、私も読んだとき、相当「あちゃ~。何にも知らないんだなこの人」と思ったのを覚えています。(面倒なのでイチイチ書きませんが)
あ、かなり脱線しましたね。
とにかく、「皆さんに理解してほしい、一緒に考えてほしい」とは常々思いますが、でも「=わかりやすい」事とは少しだけベクトルが違う、ということをご理解いただけたら、と思います。
だから-1-の冒頭にも書きましたが、歴史的とか社会的とか経済的とか、まぁいろんな視点から葬儀を見ていきたい、と強く願うものです。ですからみなさんも「西光寺の坊さんが、こう言ってたから」などと鵜呑みにせず、逆に「坊主の言うことなんて、何一つ信用できん!」とカッカせずに(笑)、みんなで考えていきましょう。
私も不勉強だし、そもそも文化人類学者でも、歴史好きでも、まして経済評論家でもないので、間違っている意見は多々あると思います。それは当たり前だからこそ、訂正したり、修正したりするのもまた当然と思っていますので、どうぞご意見をください。
最後に、-1-のまとめ、補足だけしておきます。
「葬儀が民俗信仰であった」といったのは「だから僧侶には責任がない」とか「歴史が歪めた」とか言っているのではありません。
むしろ、「『葬式仏教』と呼ばれるようになったのは、僧侶が堕落したからだ。当然の報いだ」みたいに考えている方が多いので、そんな単純に答えは出ないよ、ということの提示です。
葬儀を考えていくうえで、一番初めのスタートラインを設定する、それが「葬儀が民俗信仰であった」ということでして、別の言葉にすれば”ここから考えていきましょう”、ということです。
どうぞこの意をお汲み取りください。
「-1-」をアップした後に、ちょっと言葉が足りなかった点がありましたので、ここに急ぎ補足としてヴァージョン「-0-」を書いておきたいと思います。
****************
今回、この”これからの「葬儀」の話をしよう”を書き始めたのには、一つの大きな理由があります。
それは、葬儀に関して、僧侶である私も悩んでいる(いた)から
です。
「え?なんで?」って思われるかもしれません。「マスコミのせいで、葬儀の数が減ったから??」いえいえ、それもあるかもしれませんが、そんな簡単なことではありません。
でも、これにはそれなりの複合的要因がありました。ここでは大っぴらに書けませんので、もしどうしてもお知りになりたかったら、私のところに来てください。仲良くなったら喋るかも?!!(笑)
さて、ともかく、私も悩んでいるんです。
わからないことも多いし、自分だけではどうしようもないこともある。でも、まずはこのブログの「はじめに」でも書いたように”悩み、立ち止り、壁にぶつかる、しかもそれを隠さず”に、書いていこうと思っています。「みなさんも一緒に考えていきましょう」&「僧侶からの一面的な見方はやめたいです」そうした思いから、このタイトルを付けました。

それで・・・問題なのは、「答えは一言で言えるほど簡単ではない!」ということ。
昨今、池上彰さんの大活躍を見るまでもなく、出版関係でも「わかりやすい××」みたいなものが売れています。売れる理由も何となくは分かりますし、「分かりやすく説明してよ!」という皆さんのお気持ちもよく理解できます。でも「わかりやすいことは、そんなにいいことか??」と私は常々思っているので、ちょっと複雑な気分です。
分かりやすいことって、そんなにいいんでしょうか?まぁこれついて書き始めるとまた長くなるので、日を改めて(そして覚えていたら)書こうと思いますが、分かりやすい、という視座で書くと、こうなっちゃうんです↓。
例えば、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書・島田 裕巳著)のような本が売れました。そのことに対して、簡単に反論すると・・・
「この著者は、オウム真理教に肩入れして、しかもその危険性すら指摘できず、挙句の果てにそれが原因で宗教学の学会から追放された、とんでもない学者。そんな方が書いた本を信じられますか?」
・・・みたいな書き方になっちゃうんですよね。
別にこの方を嫌っているわけでもなんでもないんですが、分かりやすい、という書き方だとこんな風になっちゃうんです。著者に対して失礼な書き方ですよね。
もちろん、この本に関してはさまざまな宗教者がつっこみを入れまくっていますが(笑)、私も読んだとき、相当「あちゃ~。何にも知らないんだなこの人」と思ったのを覚えています。(面倒なのでイチイチ書きませんが)
あ、かなり脱線しましたね。
とにかく、「皆さんに理解してほしい、一緒に考えてほしい」とは常々思いますが、でも「=わかりやすい」事とは少しだけベクトルが違う、ということをご理解いただけたら、と思います。
だから-1-の冒頭にも書きましたが、歴史的とか社会的とか経済的とか、まぁいろんな視点から葬儀を見ていきたい、と強く願うものです。ですからみなさんも「西光寺の坊さんが、こう言ってたから」などと鵜呑みにせず、逆に「坊主の言うことなんて、何一つ信用できん!」とカッカせずに(笑)、みんなで考えていきましょう。
私も不勉強だし、そもそも文化人類学者でも、歴史好きでも、まして経済評論家でもないので、間違っている意見は多々あると思います。それは当たり前だからこそ、訂正したり、修正したりするのもまた当然と思っていますので、どうぞご意見をください。
最後に、-1-のまとめ、補足だけしておきます。
「葬儀が民俗信仰であった」といったのは「だから僧侶には責任がない」とか「歴史が歪めた」とか言っているのではありません。
むしろ、「『葬式仏教』と呼ばれるようになったのは、僧侶が堕落したからだ。当然の報いだ」みたいに考えている方が多いので、そんな単純に答えは出ないよ、ということの提示です。
葬儀を考えていくうえで、一番初めのスタートラインを設定する、それが「葬儀が民俗信仰であった」ということでして、別の言葉にすれば”ここから考えていきましょう”、ということです。
どうぞこの意をお汲み取りください。
この記事へのコメント
いや~、私もつじつまの合いすぎた話とかわかりやすい話を警戒する人間なので、「大事なことを話すのには時間がかかる。スパッといかない」という姿勢に同感です。
多分、私が内田樹先生に惹かれるのは、内田先生が複雑な物事を単純な見方に縮減するのを自制できる方だからという理由もあると思います。
葬儀や弔いというのは、クリスチャンの私にとっても念頭から去らないテーマです。一緒に考えていきましょう。
多分、私が内田樹先生に惹かれるのは、内田先生が複雑な物事を単純な見方に縮減するのを自制できる方だからという理由もあると思います。
葬儀や弔いというのは、クリスチャンの私にとっても念頭から去らないテーマです。一緒に考えていきましょう。
Posted by ヒソカ at 2011年02月02日 15:44
この「僧侶が葬儀に関わる」問題は本当に複雑怪奇(とまで言っても良いかも)なんですよね。小原兄の言う通りに…。
そして、そもそも「これだ」なんていう「正統」の解答なんてものはない、と私は考えます。
「時代的変遷」、「土着の民間信仰」、「時の国政」等々、本当に様々な要因が今の「仏教」を形成しているんです。
その全てを包括して、檀家さんと接し、布教また教化して「心の安穏」の種をまいて歩いています。私はね。合掌
そして、そもそも「これだ」なんていう「正統」の解答なんてものはない、と私は考えます。
「時代的変遷」、「土着の民間信仰」、「時の国政」等々、本当に様々な要因が今の「仏教」を形成しているんです。
その全てを包括して、檀家さんと接し、布教また教化して「心の安穏」の種をまいて歩いています。私はね。合掌
Posted by 雲栄山 at 2011年02月02日 22:49
>ヒソカさん
うれしいお言葉を頂戴しました。まさに「一緒に考えていく」ことが、私の望むことであり、ヒソカさんのお言葉に元気をいただきました。ありがとうございます。
私事、ちょっとここんとこ立て込んでいて、このシリーズの次回を、いつどんなテーマで書けるか、全く未定なんですが(笑)、気長にお待ちいただけるとうれしいです。
>雲栄山さま
どこかで目にした山号だと思ったら・・・(笑)
そうなんだよね。僕も「正統」なんてないと思います。だいいち、誰かも言っていたけれど、「仏教の教義やシステムが、原始仏教そのままだったら、とっくの昔に時代の波に飲まれて消滅している」はずなんだけど、そうはならなかった。
逆に言ったら、「時代的変遷」、「土着の民間信仰」、「時の国政」などが変わっていくから、その都度、自ら僧侶として仏教を構築していかなければならないし、今までの祖師方がそうした”躍動的”な思想形成をしてくださった結果が、今なお仏教が生き続ける証左だと思っています。
でも結局、僕も檀家さんとお話しするときは「仏教は安心への教え」ということからスタートしてます。
またご意見ください。頓首
うれしいお言葉を頂戴しました。まさに「一緒に考えていく」ことが、私の望むことであり、ヒソカさんのお言葉に元気をいただきました。ありがとうございます。
私事、ちょっとここんとこ立て込んでいて、このシリーズの次回を、いつどんなテーマで書けるか、全く未定なんですが(笑)、気長にお待ちいただけるとうれしいです。
>雲栄山さま
どこかで目にした山号だと思ったら・・・(笑)
そうなんだよね。僕も「正統」なんてないと思います。だいいち、誰かも言っていたけれど、「仏教の教義やシステムが、原始仏教そのままだったら、とっくの昔に時代の波に飲まれて消滅している」はずなんだけど、そうはならなかった。
逆に言ったら、「時代的変遷」、「土着の民間信仰」、「時の国政」などが変わっていくから、その都度、自ら僧侶として仏教を構築していかなければならないし、今までの祖師方がそうした”躍動的”な思想形成をしてくださった結果が、今なお仏教が生き続ける証左だと思っています。
でも結局、僕も檀家さんとお話しするときは「仏教は安心への教え」ということからスタートしてます。
またご意見ください。頓首
Posted by 泰明@西光寺
at 2011年02月03日 10:03
