2011年03月02日
仏教Q&A お経とは・・・
みなさまからのご質問に不肖泰明がお答えしていく大人気(ホントか??!)のコーナーです。今日は3つのご質問にお答えします。
<質問>
*お経について*
お祝いのお経と葬儀のお経って違うのですか?またお祝いのお経は嬉しそうに読むのですか?
<答え>
お祝いのお経と葬儀や法事のお経は、同じものもあれば、違うものもあると思います。
というのも、葬儀であれ、法事であれ、お祝いであれ、そこで”お経を読む”というのは、基本的な考え方として「お経を読んだ功徳(善い行い)を、他のもの(=仏様とかご先祖さまとか、お施主さま=クライアント)に振り向ける」ということがベースだからです。これを”回向”(えこう)といいます。
ですから、お経が終わると、引き続き、僧侶が何か祝詞みたいなものを読んでいるんですが、これが”回向文”(えこうもん)といい、お経の功徳を何に対してどのように振り向けるか、という事が書かれています。
西光寺では、法事の際に、(差支えなければ、ですが)参列者の方々にも一緒に読んでいただきます。これは一緒に読むことによって、それぞれの功徳(善い行い)を、ご先祖に向ける、という意味があるからです。
ちなみにお祝いの時も嬉しそうには読みません(笑)
<質問>
*その他*
駅前でボロボロのお寺様の格好をして店先でお金もらうまでお経を唱えているおじさんがいます。
本物のお寺様なのでしょうか?
<答え>
これは超難問です・・・。ホントに托鉢(たくはつ)をされている可能性もあるし、そうでない可能性もあるし。
ただ、もし曹洞宗なら、布施されたとき「ざいほうにせ、くどくむりょう・・・」という短い句をお唱えします。私がむかし駅前で見た僧侶もどきは、布施されたとき「ありがとうございます」と言っていたので、「これは絶対偽物だ!」と思ったことを覚えています。
布施は、イコール自分の収入ではないので、「ありがとう」ではおかしいのです。布施をした人が、布施をしたことで功徳を積む、という基本ルールがあるからです。イメージとしては、”寄付”と言った方が分かりやすいかもしれません。(ただ、厳密には全然違う意味なんですけどね。これも詳しく書くと、とんでもない文量に・・・
)
それから、托鉢って、普通は一か所に立ってやるもんじゃなくて、歩いて家々を回るものだと思うんですよね。だから駅前で募金活動みたいにやっている方は・・・どうなんですかね?・・・そういえば、昔一度だけ私が法衣(=要するに僧侶の恰好)姿で、そうした方の前を通ったら背中を向けられたことがありましたよ(笑)
<質問>
*お経について*
お経はどうして漢字ばかりで意味がよく解らないものが多いのでしょうか?聖書は意味がわかるように書かれていますよね。意味が解れば有難い内容や、勉強になることが多いのだと思いますが。
<答え>
質問者様のおしゃる通りです
お経が漢字ばっかりなのは、インド生まれの仏典が中国で漢訳されて、それが日本に入ってきたからです。もう一ついうなら、日本人の知識階級が”漢字を読めた”からです。正確に言えば、「訓読というシステムを発明した」から和語にする必要がなかった、とも言えます。
写経や読経が行われ始めたのは、平安期だと聞いたことがあります。その当時から、お経を読んだり書いたりするとご利益があると考えられていたのです。
それから、”あんまり意味が解らんことを、何となくありがたく思ってしまう”という意識が私たちの中にあるみたいです。
数年前に、こんなことがありました。
東海地区の僧侶とお寺の総代さんが集まって大きな集会(500人規模・檀家さんがほとんど)をしたときのことです。この集会は、講演を聞いたり、お経を読んだりして総代さんの檀信徒としての意識を高め、同時に僧侶もあるべき曹洞宗の姿を考え、実行していくという目的があります。
曹洞宗の行政を執行しているトップの僧侶も来て、集会の最後に、質問・要望コーナーが設けられていました。
一人の若手僧侶(たぶん40代前半)が、行政トップの僧侶に対して「お経の意味が分からない、という声がたくさん檀家さんから上がっています。だれでも読んで理解できるようなお経を、曹洞宗として作ってほしいです」との要望を出しました。
私もそれを聞いていて、「そうだよな~」と思った刹那、70代とおぼしき総代さん(男性)がすかさず手を挙げてこう言い放ちました。「わからんから、ありがたいんじゃないか。」
まぁ現代の感覚からすれば、若手僧侶に分があるような気もしますが、さりとて、総代さんが言われたのも本音でしょう。
どちらがいいとか悪いとかではなく、まずは「お経の解釈ができる僧侶になる」のが先決で、その後、「檀家さんにお経の意味を説明できる僧侶になる」のが大事なのではないでしょうか。が、口で言えるほど容易ではないんですがね・・・私もかなりかなり反省しています・・・。すみません。
<質問>
*お経について*
お祝いのお経と葬儀のお経って違うのですか?またお祝いのお経は嬉しそうに読むのですか?
<答え>
お祝いのお経と葬儀や法事のお経は、同じものもあれば、違うものもあると思います。
というのも、葬儀であれ、法事であれ、お祝いであれ、そこで”お経を読む”というのは、基本的な考え方として「お経を読んだ功徳(善い行い)を、他のもの(=仏様とかご先祖さまとか、お施主さま=クライアント)に振り向ける」ということがベースだからです。これを”回向”(えこう)といいます。
ですから、お経が終わると、引き続き、僧侶が何か祝詞みたいなものを読んでいるんですが、これが”回向文”(えこうもん)といい、お経の功徳を何に対してどのように振り向けるか、という事が書かれています。
西光寺では、法事の際に、(差支えなければ、ですが)参列者の方々にも一緒に読んでいただきます。これは一緒に読むことによって、それぞれの功徳(善い行い)を、ご先祖に向ける、という意味があるからです。
ちなみにお祝いの時も嬉しそうには読みません(笑)
<質問>
*その他*
駅前でボロボロのお寺様の格好をして店先でお金もらうまでお経を唱えているおじさんがいます。
本物のお寺様なのでしょうか?
<答え>
これは超難問です・・・。ホントに托鉢(たくはつ)をされている可能性もあるし、そうでない可能性もあるし。
ただ、もし曹洞宗なら、布施されたとき「ざいほうにせ、くどくむりょう・・・」という短い句をお唱えします。私がむかし駅前で見た僧侶もどきは、布施されたとき「ありがとうございます」と言っていたので、「これは絶対偽物だ!」と思ったことを覚えています。
布施は、イコール自分の収入ではないので、「ありがとう」ではおかしいのです。布施をした人が、布施をしたことで功徳を積む、という基本ルールがあるからです。イメージとしては、”寄付”と言った方が分かりやすいかもしれません。(ただ、厳密には全然違う意味なんですけどね。これも詳しく書くと、とんでもない文量に・・・

それから、托鉢って、普通は一か所に立ってやるもんじゃなくて、歩いて家々を回るものだと思うんですよね。だから駅前で募金活動みたいにやっている方は・・・どうなんですかね?・・・そういえば、昔一度だけ私が法衣(=要するに僧侶の恰好)姿で、そうした方の前を通ったら背中を向けられたことがありましたよ(笑)
<質問>
*お経について*
お経はどうして漢字ばかりで意味がよく解らないものが多いのでしょうか?聖書は意味がわかるように書かれていますよね。意味が解れば有難い内容や、勉強になることが多いのだと思いますが。
<答え>
質問者様のおしゃる通りです

お経が漢字ばっかりなのは、インド生まれの仏典が中国で漢訳されて、それが日本に入ってきたからです。もう一ついうなら、日本人の知識階級が”漢字を読めた”からです。正確に言えば、「訓読というシステムを発明した」から和語にする必要がなかった、とも言えます。
写経や読経が行われ始めたのは、平安期だと聞いたことがあります。その当時から、お経を読んだり書いたりするとご利益があると考えられていたのです。
それから、”あんまり意味が解らんことを、何となくありがたく思ってしまう”という意識が私たちの中にあるみたいです。
数年前に、こんなことがありました。
東海地区の僧侶とお寺の総代さんが集まって大きな集会(500人規模・檀家さんがほとんど)をしたときのことです。この集会は、講演を聞いたり、お経を読んだりして総代さんの檀信徒としての意識を高め、同時に僧侶もあるべき曹洞宗の姿を考え、実行していくという目的があります。
曹洞宗の行政を執行しているトップの僧侶も来て、集会の最後に、質問・要望コーナーが設けられていました。
一人の若手僧侶(たぶん40代前半)が、行政トップの僧侶に対して「お経の意味が分からない、という声がたくさん檀家さんから上がっています。だれでも読んで理解できるようなお経を、曹洞宗として作ってほしいです」との要望を出しました。
私もそれを聞いていて、「そうだよな~」と思った刹那、70代とおぼしき総代さん(男性)がすかさず手を挙げてこう言い放ちました。「わからんから、ありがたいんじゃないか。」
まぁ現代の感覚からすれば、若手僧侶に分があるような気もしますが、さりとて、総代さんが言われたのも本音でしょう。
どちらがいいとか悪いとかではなく、まずは「お経の解釈ができる僧侶になる」のが先決で、その後、「檀家さんにお経の意味を説明できる僧侶になる」のが大事なのではないでしょうか。が、口で言えるほど容易ではないんですがね・・・私もかなりかなり反省しています・・・。すみません。
この記事へのコメント
>”あんまり意味が解らんことを、何となくありがたく思ってしまう”という意識
これは日本人特有の意識のような気がします。難解信仰は、私にとっては理解に苦しむもので、「中身のないものをさも中身があるかのように誇張しているだけだろう」と思っています。ひねくれ者の私は、「偉い」人が難解なことを言うと、「それで、それは具体的にどういうことでしょうか?」と尋ねることがあります。その時に「こんなこともわからんのか」みたいな態度を取る人はだめだと思うことにしています。
>だれでも読んで理解できるようなお経
この「誰でも読んで理解できるような」というのも、曲者なところがあります。単純に仏教用語を排して、日常的な表現にすれば「誰にでもわかりやすくなる」というものでもないでしょう(そもそも「日常的な表現」自体、時代や社会の変化と共に変わるわけですし)。これは宗教の世界に限りませんが、2~3の専門用語を使っていても、相手に話が通じることもあるし、通じないこともある。難解信仰の反対の「何でもわかりやすくあるべきだ」というのも一つの極端で、振り子が反対からもう反対に振れただけだと思います。
語義的にとてもわかりやすい御経を作ってそれで終わりというのではなく、その思想なり教えの根幹・核心を大事にしつつ、万人に開かれた言葉遣いにする、そういう努力を内側の人が絶えずやってゆくことが大事だと思います。言うまでもなく、同じことはキリスト教にも言えるわけで、教会内部でしか通じない言葉遣いとは違う言葉遣いを常に模索しています。
これは日本人特有の意識のような気がします。難解信仰は、私にとっては理解に苦しむもので、「中身のないものをさも中身があるかのように誇張しているだけだろう」と思っています。ひねくれ者の私は、「偉い」人が難解なことを言うと、「それで、それは具体的にどういうことでしょうか?」と尋ねることがあります。その時に「こんなこともわからんのか」みたいな態度を取る人はだめだと思うことにしています。
>だれでも読んで理解できるようなお経
この「誰でも読んで理解できるような」というのも、曲者なところがあります。単純に仏教用語を排して、日常的な表現にすれば「誰にでもわかりやすくなる」というものでもないでしょう(そもそも「日常的な表現」自体、時代や社会の変化と共に変わるわけですし)。これは宗教の世界に限りませんが、2~3の専門用語を使っていても、相手に話が通じることもあるし、通じないこともある。難解信仰の反対の「何でもわかりやすくあるべきだ」というのも一つの極端で、振り子が反対からもう反対に振れただけだと思います。
語義的にとてもわかりやすい御経を作ってそれで終わりというのではなく、その思想なり教えの根幹・核心を大事にしつつ、万人に開かれた言葉遣いにする、そういう努力を内側の人が絶えずやってゆくことが大事だと思います。言うまでもなく、同じことはキリスト教にも言えるわけで、教会内部でしか通じない言葉遣いとは違う言葉遣いを常に模索しています。
Posted by ヒソカ at 2011年03月03日 10:59
>ヒソカさん
非常に重要な示唆を頂戴しました。ありがとうございます。
そうですね、やはり難しい(風に見える)用語を乱発(?)して教義の説明をするのは、「自分に酔っている」だけにしか見えません(笑)
でも逆もそうなんですけど、この辺は本当に難しい問題です。
最後の段で言われていますが、「常にアップデート」的な思考が経典に対しても、教義に対しても、自分の信仰の在り方に対しても必要なんだろうと感じています。
実は、このブログをやっているというのも、表向きは(笑)皆さんに向けて発信しているかに見えて、実は自分の思考の足跡を残すために、でもあったりします。
今こうして書いている文章が、数年後に「あぁ、未熟者・・・」と反省できないようであれば、進歩していないわけですし(笑)
でもヒソカさんのコメントってホントに勉強になります。自分では気付いていないことに気付かされるというか、学びがまたいっそう深まる気がするからです。ありがとうございます。
非常に重要な示唆を頂戴しました。ありがとうございます。
そうですね、やはり難しい(風に見える)用語を乱発(?)して教義の説明をするのは、「自分に酔っている」だけにしか見えません(笑)
でも逆もそうなんですけど、この辺は本当に難しい問題です。
最後の段で言われていますが、「常にアップデート」的な思考が経典に対しても、教義に対しても、自分の信仰の在り方に対しても必要なんだろうと感じています。
実は、このブログをやっているというのも、表向きは(笑)皆さんに向けて発信しているかに見えて、実は自分の思考の足跡を残すために、でもあったりします。
今こうして書いている文章が、数年後に「あぁ、未熟者・・・」と反省できないようであれば、進歩していないわけですし(笑)
でもヒソカさんのコメントってホントに勉強になります。自分では気付いていないことに気付かされるというか、学びがまたいっそう深まる気がするからです。ありがとうございます。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年03月04日 09:07
>泰明さん
いえいえ、こちらもいろいろ考えさせられることが多々あり、こちらこそ勉強になります。いつもありがとうございます。
難解さかわかりやすさかの二者択一ではなく、何を伝えるのか、どうしたら伝わるのかというのを常に考え続ける中で、相手に伝わる言葉遣いになっていくのではないかと考えています。わかりやすい表現をしていても、私に伝えようという姿勢のない言葉は、聞いていると眠くなってきます。むずかしい表現でも、「何とかあなたに伝えたい」という語り口は、中身はわからんけれど、伝えようとしていることだけはわかる、そういうものです。
私が尊敬している哲学者レヴィナスの、タルムード(聖書と並ぶユダヤ教の教典)の師シュシャーニは、こう言っています。「人間の中身が定められるのは、彼を不安にさせるものによってであって、彼を安心させるものによってではないのだ。それというのも、神は動きを意味しているのであって、説明を意味しているわけではないのだからな」と。硬直した姿勢は、自分を不安にさせるものを遠ざけようとします。だから、難解な言い回しをすることに安住しようとする。他方、「そもそもこの教えはどういうことかいな?」と考え、自分の言葉にしようとすると、うまく言葉にできないもどかしさを覚えます。それが、教えの根幹・核心をもっと理解しようという姿勢を引き出す。そういう営みを積み重ねていくところから、いろんな人に通じる語り口はできてくるんじゃないかと思いますが、いかがでしょう?
そうそう、他人(未来の自分を含む)に向かって考えを発信するということを通して、「ああ、自分の考えはこういうものだったんだ」とわかる。自分の考えを発見するためにも他者に向かって発信するのは必要なのでしょうね。
いえいえ、こちらもいろいろ考えさせられることが多々あり、こちらこそ勉強になります。いつもありがとうございます。
難解さかわかりやすさかの二者択一ではなく、何を伝えるのか、どうしたら伝わるのかというのを常に考え続ける中で、相手に伝わる言葉遣いになっていくのではないかと考えています。わかりやすい表現をしていても、私に伝えようという姿勢のない言葉は、聞いていると眠くなってきます。むずかしい表現でも、「何とかあなたに伝えたい」という語り口は、中身はわからんけれど、伝えようとしていることだけはわかる、そういうものです。
私が尊敬している哲学者レヴィナスの、タルムード(聖書と並ぶユダヤ教の教典)の師シュシャーニは、こう言っています。「人間の中身が定められるのは、彼を不安にさせるものによってであって、彼を安心させるものによってではないのだ。それというのも、神は動きを意味しているのであって、説明を意味しているわけではないのだからな」と。硬直した姿勢は、自分を不安にさせるものを遠ざけようとします。だから、難解な言い回しをすることに安住しようとする。他方、「そもそもこの教えはどういうことかいな?」と考え、自分の言葉にしようとすると、うまく言葉にできないもどかしさを覚えます。それが、教えの根幹・核心をもっと理解しようという姿勢を引き出す。そういう営みを積み重ねていくところから、いろんな人に通じる語り口はできてくるんじゃないかと思いますが、いかがでしょう?
そうそう、他人(未来の自分を含む)に向かって考えを発信するということを通して、「ああ、自分の考えはこういうものだったんだ」とわかる。自分の考えを発見するためにも他者に向かって発信するのは必要なのでしょうね。
Posted by ヒソカ at 2011年03月04日 13:55
>ヒソカさん
コメントありがとうございます。
「伝える」ということについては・・・ちょっと長くなりそうな気配があります(笑)というのも、今推敲中の2つほどのログがあり、その拙文がもしかしたらヒソカさんもご興味を持たれるのじゃないかなぁと思っています。そこでお話しできたら幸甚です。また直接メールを申し上げます。
一点、「自分の言葉にしようとすると、うまく言葉にできないもどかしさを覚えます。それが、教えの根幹・核心をもっと理解しようという姿勢を引き出す。そういう営み」・・・これは非常に重要だと思いますよ。
わたし、もどかしさを毎日感じてますもん(笑)
でもそこで思考停止をしてはいけないと思うんですよね。僅かずつでも「歩む」行為が大切なのかな、と思ったりしております。
コメントありがとうございます。
「伝える」ということについては・・・ちょっと長くなりそうな気配があります(笑)というのも、今推敲中の2つほどのログがあり、その拙文がもしかしたらヒソカさんもご興味を持たれるのじゃないかなぁと思っています。そこでお話しできたら幸甚です。また直接メールを申し上げます。
一点、「自分の言葉にしようとすると、うまく言葉にできないもどかしさを覚えます。それが、教えの根幹・核心をもっと理解しようという姿勢を引き出す。そういう営み」・・・これは非常に重要だと思いますよ。
わたし、もどかしさを毎日感じてますもん(笑)
でもそこで思考停止をしてはいけないと思うんですよね。僅かずつでも「歩む」行為が大切なのかな、と思ったりしております。
Posted by 泰明@西光寺
at 2011年03月06日 17:42
