2011年03月10日

仏教Q&A キリスト教の方より

(*今回は、キリスト教の信者さんよりご質問をいただきました。極めてハイレベルな質問のため、このようにお答えが遅くなりましたこと、この場をお借りしてお詫び申し上げます。)

<ご質問>
(前略)
 自分の普段の営みが限られた範囲の「常識」であることに気付きます。聖書も教会も初めてという人が教会に行くと、とても緊張していますし、周りのクリスチャンが滑らかに行うことを自分はできないという心細さを感じます。そこでその人の心細さや緊張を緩和するような配慮ができるかどうかが、クリスチャンの信仰が内実の伴ったものかを見分ける指標になります。内側の論理を前提にして「わかっているでしょ」という態度で外の人に接しても、相手は話をしようとしません。ですから、自分の見方を一時的に凍結する、かっこに入れるのです。クリスチャンが「伝道」と言った時の言葉が相手に通じないものになるのは、自分たちの見方を相対化していないからではないか、それが私が常々感じている疑問です。


<お答え>
正直、どのようにお答えするのが良いのか、あれこれと考えておりました。
しかし、結局、私は曹洞宗の僧侶ですので「仏教的に」しかお答えできないことに気が付きました(笑)

そこで、今回は敢えて専門用語をしっかり織り込みつつお話をしていきたいと思います。

(↓全文はコチラからどうぞ)
いきなりですが、「菩薩」(ぼさつ)という言葉があります。菩薩と聞くと、仏教にお詳しい方なら、「あぁ仏像にもなっている。仏さんのことでしょ。」とお気づきになるかもしれません。

菩薩というのは本来、大乗仏教において民衆を救おうと修行し、努力する僧侶の理想形を指します。その菩薩を目指すべく、僧侶たちが自身のために行うべき徳目が六波羅蜜(ろくはらみつ、6種類の徳目。布施・持戒…と6つ続く)であり、民衆を救うための方法が「四摂法」(ししょうぼう)と呼ばれる行為です。

今はこの「四摂法」(ししょうぼう)を取り上げてみたいと思います。「四摂法」は”布施・愛語・利行・同事”の4つがあり、今回のご質問で有用だと思われるのは「愛語」と「同事」です。ごくごく簡単にご説明します。

「愛語」(あいご)というのは、思いやりある言葉をかけることであり、特に道元禅師は”子供に対して話しかけるように(損得勘定なしで無条件に)、思いやりのある言葉を話しなさい”と言われています。

そして「同事」(どうじ)というのは、”相手の立場に立つこと”で、ともに喜び、ともに悲しむという、大雑把に言えば”他者とのシンクロニシティ”と言えるのかもしれません。

ということで、ご質問に戻りますと、キリスト教の教義は私は存じませんが、とりあえず仏教では、非常に重要な徳目のうちに、こうした行為があります。

初めて礼拝に出られる方はさぞや緊張されているでしょう。その緊張を察するのが「同事」であり、そこで相手の立場に立って、すなわち相手にとって理解できるように、また緊張を解きほぐすように話しかけることが「愛語」であるといえます。
(更に一点加えるならば、ブッダが生きている頃から相手に教えを説く手段として”対機説法”というやり方が用いられます。
これは、相手のレベルに合わせ、相手が本当に知りたいことを言葉を自在に変えて問題を解決するという、基本的な説法の仕方です。ですから、”内輪の論理”よりも先に、相手に伝わる言葉を探し出すのが先決と言えます。)


ただ、ここからが難しいのですが、前述のとおりキリスト教の教義を存じないので、”信者さんたちは何を求めているのか”がよく分からないのです。仏教、とりわけ大乗仏教と呼ばれるカテゴリ(日本の伝統仏教は全部)には、こうした他者への思いやりは極めて重要な実践的徳目です。キリスト教も、ご質問者さまの文意から察するに”クリスチャンの信仰が内実の伴ったものかを見分ける指標”とありますので、大事な徳目だと理解して話を進めます。

この「自分見方を相対化」することは、仏教においても難しい問題です。
今、この問題の全てをお話しすることはできませんが、軽くさわりだけでも書きます。

前にも書いたような気がしますが、通仏教的な思想で言えば、「出家」といったタームで考えられそうです。
「出家」は家出ではなく、その地位や肩書や財産や家族、すべてを捨てて僧侶になることで、世俗の捕われを捨て去ります。
そうなると、当然、世俗の価値観を壊さざるを得なくなり、その過程で「自分とは何か?」とか「執着とは何か?」とか、「常識とは?」みたいな世俗の事、自分自身に対することを一一具に観察できるのではないかと思うのです。そうして今まで疑いを抱くことなく接してきた事象に対し、改めて観察した結果、そこから初めて「仏教の価値」が分かるのだと思います。
(その結果の1つが、”無我”・・・これは”自分がない”という意味ではなく、”永遠不変の自我意識はない”と言った意味です・・・のような、疑っている”自分”すらも疑えてしまうという仏教的理解に繋がるのだと思います。よく誤解される言葉ですが、スポーツなどをやっていて「頭の中が真っ白になって、集中する」のは無我の境地ではありません)

そして、”世俗ではない”が故に、かえって世俗の事が見えやすく、だからブッダのもとには国王や信者が話を聞きに、また相談に来たのだと思います。(もちろん、ブッダが生きていた頃は、ブッダに限らずこうした出家者のもとへ話を聞きに来るのが一般的であったと考えられますが)

そういう点からすると、”自分”(それは今までの経験や信仰に対する知識などにもよる)に捕われているそのクリスチャンの方たちは、相対化できる、できない以前の問題で、たぶん、その”自分”から離れることなどできないのではないかと思います。

ですが、ここで私も疑問なのは、出家の価値は基本的に僧侶におかれるもので、一般信者はそうではない、ように見えるのです。もちろん、”一般信者には出家の価値が分からないし分かる必要もない”、という意味ではなく、そこだけに価値をもっていくよりも、ただ法事をしてほしいだけの人もいるし、お経の意味は分からなくても、長い時間読経してほしいと思う信者もいるだろうし・・・複合的な要請が仏教にはあり、そしてその白から黒までの要請に応えてきたからこそ、仏教が存続しているわけで、甚だ難しいと思えるのです。つまり信者としての宗教的要請が一様ではない、ということです。

(具に言えば、通仏教的に考えて、仏教の目的は”悟る”こと、と言えます。でもそれを目的に仏教を学ぶ信者さんはまずいないでしょう。そして、悟りに至る為に、悟りを言語化した、仏教思想(四諦八正道・中道・空の思想など)を”聞きたい”と思う信者さんもまた然りなのです。)


詳しく知りませんが、聖書の中に「私は剣をもって投げ入れにきたのだ。父や母や・・・捨て去って私のところに来なさい」というフレーズがあったような気がします。(全然違ったらごめんなさい)

私はその一節を目にしたときに、「これってすごく仏教的だな」と思いました。いや、言葉が不的確ですね。「仏教的」というより、「仏教的理解ができる」と言った方が正しいですね。
その本の解説によれば、そうした”既定のもの(家族や世間)を断ち切って”というところにキリスト教のすごさがある、みたいなことが書かれていましたが、およそ偉大な宗教というのはその「世俗的価値」を無効化できうるところに真髄があるのかもしれませんね。(前にも書きましたので、再確認ですが、”反世俗的”なのではなく、”非世俗的”であります)

と、いうことで、その聖書の一説も(たぶん)仏教で言うところの出家的思考、つまりは現在の世俗や風習や常識を一度無効化し、再考の余地を与え、再構築したものを、最終的には実生活の上に置けるから、心のやすらぎを得ることができるのではないか、と考えています。

ちょっとまとまりのない文章になってしまって、大変恐縮ですが、ひとまず回答になっているのかなっていないのか、不明なお答えを終わります。
もし、ご質問の意図と違っておりましたら、何なりとお申し付けください。長文+乱文で失礼いたしました。合掌

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Posted by 泰明@西光寺 at 12:40
Comments(4)仏教 Q&A
この記事へのコメント
うわ~、すごい。

>「同事」とは、”相手の立場に立つこと”で、ともに喜び、ともに悲しむ
 これは新約聖書「ローマの信徒への手紙」に同じものがあります。12章15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。こうなると、「この考えはキリスト教の専売特許です」みたいな態度がますますバカらしくなります(笑)。

>相手のレベルに合わせ、相手が本当に知りたいことを言葉を自在に変えて問題を解決するという、基本的な説法の仕方

 内田樹先生はこれ、おできになります。一般向けの本のほとんどは、こうです。バックボーンの知識としてフランス現代思想や聖書その他いろいろあるのですが、専門用語を使わず、相手のレベルに合わせた答え方をされます。『街場の現代思想』(文春文庫)はモロにそうです。1970年代世代でないのに、内田先生はクロスオーバーする考えが出来る人なんですわ。


>”自分”(それは今までの経験や信仰に対する知識などにもよる)に捕われているそのクリスチャンの方たちは、相対化できる、できない以前の問題で、たぶん、その”自分”から離れることなどできないのではないか

 おお、鋭いですね。確かにこういうタイプのクリスチャンの言葉遣いを聞いていると、「私は~する」「私に~して」「私が~」というのが多いです。極端な例を上げれば、「これだけ奉仕しているのに、神様は私に何もしてくれない」とか「クリスチャンになったのに私の問題は何も解決してくれない。もうやめた」という方がおられます。でも、これって何かの商品を買って、それが思った通りの効能を出さないので文句を言うクレーマーと同じなのです。要するに"世俗"の価値観を疑ってみたことがない。


「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(中略)わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ12:34-37)
  なるほど、仏教的理解も可能ですね。「既定のもの(家族や世間)を断ち切って”というところにキリスト教のすごさがある」。「剣をもたらすために」というのを、「包丁を入れるために来た」と訳す方もおられます。この聖句は立場を曖昧にして、なあなあで済ませているところにほんまもんの平和なんてありゃせんよという意味です。

 やっぱりキリスト教とか仏教という枠を超えて通じるものってあるんですね。まあ、こんなことは「信仰深い」人からすれば「ケシカラン」話なんでしょうが、うぷぷ。
Posted by ヒソカ at 2011年03月10日 15:26
>ヒソカさん

すみません、大変雑駁なご回答になってしまい、何だか申し訳ないです。もしご質問のご趣意と違うようでしたら、ご指摘ください。

今回は、ちょっと頑張って書いてみました(笑)

そうそう、やっぱり「剣をもたらすために」という箇所の意味は、違いましたね。すみません。本来の解釈はそういうことを言っているんですね。勉強になります。
Posted by 泰明@西光寺泰明@西光寺 at 2011年03月11日 12:58
いやいや、質問の趣旨と違うという感じはしません。

「剣をもたらすために」の意味は、泰明さんの述べたこともあながち間違いではないと思いますよ。本来の解釈というか、私はそう考えると、「なるほどな」と思うというだけです。クリスチャンたって、聖書のことが完全にわかっている人なんていやしません(笑)。
Posted by ヒソカ at 2011年03月11日 17:01
>ヒソカさん

ホントに遅くなってごめんなさい。何を今更、とお叱りください。

”クリスチャンたって、聖書のことが完全にわかっている人なんていやしません(笑)”・・・なんか、こういう風にさらっと言える方って、逆にその融通無碍なる気持ちが伝わってきて、うらやましいです。すがすがしいというか。

私も頑張らないと・・・(笑)
Posted by 泰明@西光寺泰明@西光寺 at 2011年03月19日 18:13
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