2011年03月06日

仏教Q&A お寺離れとか

今日は仏教、とりわけ僧侶に熱い激励(と叱咤)を送ってくださる方からのご質問です。

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1.仏教は私たちを救ってくれますか?

私の答えは「Yes, We can !」です(古っ?!)
”完璧”に、とか”確実に”、とか”全ての人を”、とかは残念ながら非力な今の私には言えません。しかし、救いを求める人には全力で当たりたいと思いますし、仏教の思想・哲学は私たちが思っているより、ずっと広大で深遠で面白くて、そして柔軟です。2500年も続いてる思想だから、絶対に何かあるはずだと感じています。
それに、”自分だけではなく、みんなも救う”というのが大乗仏教の真髄ですもん。自分だけ修行して、すまし顔で悟っていればいい、という考えは大乗仏教にはないのです。



2.私たちの身近な僧侶は私たちを本当に救ってくれますか?
私、思うんですが、みなさんの周りにいる”身近な僧侶”こそ、最大のエフォートを発揮してくれると思います。
確かに、逆の立場だったら、お寺の本堂やお墓にお参りするのは簡単でも、住職とか僧侶に話しかけるのって、相当勇気のいることだと思うんです。ものすごい壁もあるような気がするし、話しかけていい存在かどうかも疑わしいですよね(笑)いや、お気持ちは分かるんです。
でも、私がこうしてブログをやっていることも「みなさんとお話をしたい。みんなで一緒に考えたい」ということの証左なんです。それに私は超能力者じゃないので、みなさんの悩みを”話もせずに”言い当てるなど不可能です(笑)だから会話が必要なんです。仏教は万能薬ではありません。「このお経を読みさえすれば、たちどころに解決!」なんてことはありません。この気持ちを分かってほしいです!

そんでもって、みなさんも”初めの一歩”を踏み出してみませんか?案外、拍子抜けするくらい簡単なことかもしれませんよ。



3.なぜ寺離れなんておこっていると思いますか?

さまざま原因はあります。
一番みなさんにとって考えやすく、しっくりくるのが、「僧侶の出番が葬式と法事しかない」ことだろうと思います。確かにそれもありましょう。しかし、『クローズアップ現代』で上田教授も言っておられましたが、「私たちは、本当にお寺と向き合ってきたのでしょうか」ということです。何も今までのお寺を100%弁護しようとか、そんな思いで書いているのではありません。しかし、問題というのは常に一方のみから発生するものなのか、ということです。

それから、すごく単純に思えますが、いわゆるサラリーマンの方は忙しすぎます。そして、あまりにも自由になる時間が少ない。これは私の同世代の友人たちと話していて、とみに思います。一週間にたった1日だけの休日を(あれば良い方ですが)、お寺だけのために費やすことなど、できるはずもないと私ですら思います。逆に自営業が多かった時代は、「ちょっと2時間くらいお寺に行ってくるわ」で済む話です。ですが、それができる方が限られてきているような気もします。

まだあります。ライフスタイルの多様化もあげられます。つまり、数世代前のお寺の役割というのは、今の比ではなく、何かの会合があり、お祭りのようなイベントあり、寺子屋あり、歌舞伎などの芸能あり、そしてお寺自身のイヴェント的法要も多数あったと考えられます。そうした「複合的」なお寺が、どんどん細分化され、切りとられ、今や「歌舞伎をお寺で見よう」とはだれも考えないと思います。

卑近な例で言うならば、現在のファッション雑誌を見てください。一世代前ならば、必ず読めば流行のアイテム(色とか、コートの種類とか)が分かるようになっていました。しかし、現在、私が読んでもはっきりわかる流行のアイテムというのは皆無です。すでにモノが溢れすぎて、何をやっても焼き直しに感じられます。そして、”みんながおっかける”流行など、どこにもないのです。そういう意味で個性化・多様化している中で、お寺だけがその波から免れる、なんてことは夢物語です。

ついでに共同体の崩壊も・・・って、めちゃ長くなりそうです。
まだまだ原因はあると思いますが、とりあえずこの辺で。



4.僧侶の仕事って何ですか?

これ、ちょっとはっきり申し上げたいのですが、私自身、僧侶は「仕事ではない」と考えています。
これには理由があって、昔、英会話教室に通っていたときのことです。
ネイディヴの先生とのフリートークの中で、「お寺の暮らし」みたいなことを話していたときです。私が" That's my work. "みたいなことを言ったら、その先生が真剣な顔で、「いいか、君のやっていることは仕事とは言わない。聖職者なんだから、それは仕事ではない」みたいなことを言われて、すごく衝撃を受けたのを覚えています。

振り返ってみると、私自身、僧侶の法事や葬式や掃除やその他諸々を「仕事」と認識したことはほとんどなく、例外的に、豊川稲荷での4年間の職務(「泰明はどこにいる?」をご参照ください)くらいを「仕事」と見做しておりました。

では何なのかと言えば、ある意味「ライフワーク」というか、ほとんど「人生」そのもの、みたいなものだと考えています。

みなさんはビックリされるのを分かって敢えて言いますが、私の中では「葬式や法事を全くしなくても僧侶と言えるが、坐禅や作務(=掃除)などを仏道と考えてやらないのであれば、いくら葬式をやっていてもそれは僧侶ではない」と思っています。

「え~~~葬式やらなくても僧侶なの?」と質問が殺到しそうですが、考えてみても、葬式をやらないお寺って歴史の中で、もちろん今に至るまで多くあります。(現在では應典院とか他にも)極端に言えば、”葬式、その中だけに”仏教があるわけではないのです。

つまり、生き様そのものが僧侶であり、かっこよく言えば、「生きざまを見せるのが仕事」と言えるのかもしれません。(カッコいいかな?・・・汗)



5.僧侶から見て良い僧侶ってどんな人?
げげげ・・・最後に超難問が来ました。(←と、ここまで打ってから、答えが出ずに数日悩む泰明・・・face07

う~~ん、完璧な人格がこの世にいないように、たぶん”良い”にもさまざまな面があってしかるべきだと思います。法話が上手い僧侶、字が上手い僧侶、国際的に活躍している僧侶、地元で愛される僧侶、口下手だけど、淡々と坐禅をしている僧侶・・・まぁ、いろいろいらっしゃるから仏教って面白いんだと思います。

ですがねぇ、僧侶から見てって言われると・・・どうなんだろ。

たぶん人それぞれ個性があるように、僧侶それぞれも求めるものが違うので、一概に「こういう人」とは言えないのですが・・・

私はやっぱり「謙虚」で「柔和」な人かなぁと思います。

謙虚な人って自分に厳しい人が多いし(だから”俺が俺が!”人間にはならない)、かつ「柔和」というのは、人の痛みや苦しみや喜びを敏感に感じられる、相当な懐の深さを持っていないと、身につかない気がします。
ある意味、本当に仏教を学び(だからこういうタイプの僧侶に仏教の質問をすると、自分に分かるレベルに落として答えてくれる)、本当に仏道を行じてきた人は、両方を併せ持つような気もしています。だからこそ、僧侶にも、そして間違いなくお檀家さんにも人気があるんじゃないか、と密かに考えています。
そんな僧侶になりたいです。


今回は、質問者さんの僧侶に対する思いのたけを感じられるような、素晴らしい質問でした。一僧侶として、いただいたご質問を肝に銘じて、これからも参りたいと思います。合掌


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Posted by 泰明@西光寺 at 21:18
Comments(5)仏教 Q&A
この記事へのコメント
>君のやっていることは仕事とは言わない。聖職者なんだから、それは仕事ではない


どちらの国の方が言われたものか分かりませんが、「らしい」考え方ですね。


また

>数世代前のお寺の役割というのは、今の比ではなく、何かの会合があり、お祭りのようなイベントあり、寺子屋あり、歌舞伎などの芸能あり、そしてお寺自身のイヴェント的法要も多数あったと考えられます。


これは「神社」という施設及びシステムにも当てはまりますね。
Posted by 青蛉返 at 2011年03月06日 21:54
質問です
お坊さんで即身成仏となるように苦行を積まれる方がいらっしゃいましたが、あれば仏の教えとして正しいのですか?
見方を変えれば現世から逃げない形の自死にも見えるような・・・
そしてお坊さんから伝えることの出来る自殺についてのメッセージみたいなのはありますか?
僕にとって死を感じることが生きている証しみたいな時もあるので何となく聞いてみたいです。

BYホシヲ
Posted by ホシヲ&ゆみホシヲ&ゆみ at 2011年03月06日 23:20
>青蛉返さま

コメントありがとうございます。
そうですね、米国の方でしたが、おっしゃる通り「らしい」ですね。

それから、「神社」について、私は門外漢なので、とやかくいう筋合いはないのですが、江戸以前は「神社」も「お寺」も、そうした宗教的複合システム、或いは施設の中に統合された存在だったのでしょうね。殊更に”神道”や”仏教”という教理を持ち出す必要もなく(また民衆もそれを望んでいないかに見えます)、うまく「日本文化」として機能していたんだと思います。



>ホシヲさん

超難問をいただきました(笑)
これを文章にして説明すると、たぶん問題になりそう+うまく文章にする自身がないので、直接お会いできた時に、会話をしながらご説明したいと思います。

今しばらくは、非常に単純な回答のみを記載します。

「即身成仏」、これは「成仏」になるのが主眼であって、それを修行している僧侶(要するに”五穀断ち”とか)からしたら「現世から逃げない形の自死」とはこれっぽっちも考えていないと思うんです。

これはどんなものの見方でもそうですが、私たちは、私たちのいる時代が普遍的で当たり前で、その見方で古い事象を理解しようとするから間違ってしまう、或いは無意識に”今の私”というフィルターをかけてモノを見るので、こうした考えに陥りやすいのです。お経の理解も正にそうした”現代人の傲慢”色眼鏡で見るから、間違った理解になるそうです。

で、仏教的に正しいか正しくないかというと「あり」としか答えられません。すみません。ある地点のある仏教教義からすれば「正しい」のでしょうけど、現在の私たちの教義に照合すると「あり」くらいにしかお答えできないんです・・・。

「死を感じることが生きている証し」・・・これについては、南師の『語る禅僧』に近い表現があったと記憶しています。もしよかったらお貸しします。
Posted by 泰明@西光寺泰明@西光寺 at 2011年03月07日 10:16
何かややこしい事書いてごめんなさい。
出来たら真の豊かさって何だろうか解いて欲しいです。
僕はずっと悩み模索し続けていてまだまだ解らないです。
前にも書きましたが死に近づく事で生きている喜びを感じる事が出来ます。
ただそれは正しい形ではないと思ってもいます。

いつもいつも悩み苦しむのは僕は存在していいのかと言う事です。
Posted by ホシヲ at 2011年03月08日 01:07
>ホシヲさん

いえいえ、ややこしいだなんて、とんでもないです。

「真の豊かさ」大事な問題ですね。

仏教的に、いろいろお話できることはあります。ただ、仏教というのはその誕生した段階で「こういう思想体系があります。だから信じなさい」ではなく、悩んでいる人、一人一人に「こういう風に悩んでいるのなら、こうしてみたら?」という説き方をします。

だから、文章で「仏教とは、これこれこういうことです」とは書ききれないのです。だから私が「直接お会いした時に」といつも言っているのはそのためです。またゆっくりお話しさせていただければ、と思います。非力ではありますが、お答えしたいと思います。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年03月08日 10:39
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