2011年06月15日
仏目線
前回のつづきです。ドイツ声明公演の準備会にて。
(前回の記事→)http://saikouji.dosugoi.net/e198880.html
2つ目に思ったことは「仏様の目線にたつと・・・」ということ。
前回にも書きましたが、日本のコンサートホールで法要を行う場合、祭壇はステージの一番奥に配置して、ステージを本堂に見立てて行います。ですから、法要中、祭壇の仏様に向かって礼拝するとき、読経するときなどは、観客はすべて”僧侶の背中”を見ているわけです。
でも、今回は逆に、ステージの一番客席寄りに配置されます。ですから、観客と僧侶は対面するので表情や所作が見えるわけですが・・・ここで重大なことが。
通し練習が終わった後に、舞台の配置や僧侶の立ち位置などを観客席側からチェックしていたお坊さんが、開口一番こう言われました。
「(参列している僧侶の)下を向く視線がものすごく気になる」
つまり、普通、この法要を行う時は、参列する僧侶の前に机が置かれ、その上に講本(簡単に言えば法要の台本、お経が書かれている)を置きます。
60分にもわたる法要ですので、すべてを暗記するのは、かなり難しいこと。
だから経本を見ながら法要をするのですが、立っているときも座っているときも、どうしても視線が経本にいってしまう。
特に残念なのが、仏を讃嘆して、何度も五体投地の礼拝をする箇所があるのですが、そのシーンでは・・・
「ほとんど全員が置かれた経本に視線が行ってしまう。本来なら祭壇上の仏を仰ぎ見る、というのが本意ではないか。
仏を称えて、仏の名前を唱えながら礼拝するべきなのに、これでは何の意味もない。」とその舞台監督僧(?)は言われました。
誠にその通りです。
通常の法要であれば、背中側から見ているので、視線など気になりはしないでしょう。考えることさえなかったかもしれない。
しかし、今回に限っては逆の方向、つまり観客が”祭壇の仏さん”の視点になるのです。そこからすると”こちらを拝んでいるはずなのに、チラチラ下を向くな”とお思いになるに違いありません(笑)まさにコペルニクス的転回。
まぁ、エクスキューズをすれば、今回の法要は、前述の通り若干のパフォーマンス的要素を取り込んでいるので、実は”様々な種類の声明を、ベースとなる法要に織り交ぜた、スペシャルヴァージョン”なのです。
だから、当然世界に一つしかない、特別に組まれた法要ですので、全員見るのも参列するのも初めてです。だからこそ、気になって経本から目が離せないという理由もあるんですが。まぁでも、何度も目を通せば慣れるし記憶できるとは思います。

(これがドイツスペシャルバージョンの経本。kamenoさん、またお借りしました・・・)
そうは言ってもひどく考えさせられますね。
”形式化と形骸化”というべきか。
つまり、疑いもなく、これらの法要が形成された頃(一説には中国唐時代には形式が整っていたとか)は僧侶たちの”仏を敬い、礼拝する”気持ちが形となって表れ、それが形式化されたものでしょう。
しかし、形式化はその瞬間から形骸化と隣り合わせになっていく。
今回の僧侶の言葉で、そのことを強く思ったのでした。
ただ、考えなければならないのは、形骸化してもなお、形が残っていたからこそ、現代まで伝えられてきた筈で、そうであってみれば、これらは表裏一体をなすもので、かつ、お互いに影響をしあう概念なのだと思います。
このことがあったがゆえに、もう一度”仏を敬う”気持ちを起こす。起きたからこそ、その気持ちを受け止め表現する”形”が出来上がる。形骸化を免れないかもしれないが、形があるからこそ、その生命を、その意味を絶えず吹き込むことができる。それは螺旋のように、ループのようにぐるぐるとまわり続ける。
今回の法要練習でそんなことを感じました。
(前回の記事→)http://saikouji.dosugoi.net/e198880.html
2つ目に思ったことは「仏様の目線にたつと・・・」ということ。
前回にも書きましたが、日本のコンサートホールで法要を行う場合、祭壇はステージの一番奥に配置して、ステージを本堂に見立てて行います。ですから、法要中、祭壇の仏様に向かって礼拝するとき、読経するときなどは、観客はすべて”僧侶の背中”を見ているわけです。
でも、今回は逆に、ステージの一番客席寄りに配置されます。ですから、観客と僧侶は対面するので表情や所作が見えるわけですが・・・ここで重大なことが。
通し練習が終わった後に、舞台の配置や僧侶の立ち位置などを観客席側からチェックしていたお坊さんが、開口一番こう言われました。
「(参列している僧侶の)下を向く視線がものすごく気になる」
つまり、普通、この法要を行う時は、参列する僧侶の前に机が置かれ、その上に講本(簡単に言えば法要の台本、お経が書かれている)を置きます。
60分にもわたる法要ですので、すべてを暗記するのは、かなり難しいこと。
だから経本を見ながら法要をするのですが、立っているときも座っているときも、どうしても視線が経本にいってしまう。
特に残念なのが、仏を讃嘆して、何度も五体投地の礼拝をする箇所があるのですが、そのシーンでは・・・
「ほとんど全員が置かれた経本に視線が行ってしまう。本来なら祭壇上の仏を仰ぎ見る、というのが本意ではないか。
仏を称えて、仏の名前を唱えながら礼拝するべきなのに、これでは何の意味もない。」とその舞台監督僧(?)は言われました。
誠にその通りです。
通常の法要であれば、背中側から見ているので、視線など気になりはしないでしょう。考えることさえなかったかもしれない。
しかし、今回に限っては逆の方向、つまり観客が”祭壇の仏さん”の視点になるのです。そこからすると”こちらを拝んでいるはずなのに、チラチラ下を向くな”とお思いになるに違いありません(笑)まさにコペルニクス的転回。
まぁ、エクスキューズをすれば、今回の法要は、前述の通り若干のパフォーマンス的要素を取り込んでいるので、実は”様々な種類の声明を、ベースとなる法要に織り交ぜた、スペシャルヴァージョン”なのです。
だから、当然世界に一つしかない、特別に組まれた法要ですので、全員見るのも参列するのも初めてです。だからこそ、気になって経本から目が離せないという理由もあるんですが。まぁでも、何度も目を通せば慣れるし記憶できるとは思います。

(これがドイツスペシャルバージョンの経本。kamenoさん、またお借りしました・・・)
そうは言ってもひどく考えさせられますね。
”形式化と形骸化”というべきか。
つまり、疑いもなく、これらの法要が形成された頃(一説には中国唐時代には形式が整っていたとか)は僧侶たちの”仏を敬い、礼拝する”気持ちが形となって表れ、それが形式化されたものでしょう。
しかし、形式化はその瞬間から形骸化と隣り合わせになっていく。
今回の僧侶の言葉で、そのことを強く思ったのでした。
ただ、考えなければならないのは、形骸化してもなお、形が残っていたからこそ、現代まで伝えられてきた筈で、そうであってみれば、これらは表裏一体をなすもので、かつ、お互いに影響をしあう概念なのだと思います。
このことがあったがゆえに、もう一度”仏を敬う”気持ちを起こす。起きたからこそ、その気持ちを受け止め表現する”形”が出来上がる。形骸化を免れないかもしれないが、形があるからこそ、その生命を、その意味を絶えず吹き込むことができる。それは螺旋のように、ループのようにぐるぐるとまわり続ける。
今回の法要練習でそんなことを感じました。
この記事へのコメント
なるほど……
その舞台監督僧さん(?)、素敵です!!
“世界に一つしかない法要”と聞くと、すごく気になります(笑
“形式化と形骸化”……
これもまた、なるほど、です。
僕は、自分が絵を描くときのことを思い浮かべたんですが、
確かに、何年か制作をしてると
ある一定の描き方(自分の絵の雰囲気)ができあがってきて(形式化)
そうなってくると、別に何かを考えて描いてなくても
なんとなく、作品は完成する(形骸化)のですが
そういう作品はたいてい“心ここにあらず”というのが
見ていて伝わってしまいます(^_^;)
もっとも、僕なんかじゃぁ、ループができるほどのものではないですけどね(笑
ただ、泰明さん(というか、今生きてるお坊さんたち)は、
この、“形式化と形骸化”のループに乗っかってるわけですよね?
それってすごいと思います!
あ、あと、経本の左側は、一体何を表わしているものなんですか??
その舞台監督僧さん(?)、素敵です!!
“世界に一つしかない法要”と聞くと、すごく気になります(笑
“形式化と形骸化”……
これもまた、なるほど、です。
僕は、自分が絵を描くときのことを思い浮かべたんですが、
確かに、何年か制作をしてると
ある一定の描き方(自分の絵の雰囲気)ができあがってきて(形式化)
そうなってくると、別に何かを考えて描いてなくても
なんとなく、作品は完成する(形骸化)のですが
そういう作品はたいてい“心ここにあらず”というのが
見ていて伝わってしまいます(^_^;)
もっとも、僕なんかじゃぁ、ループができるほどのものではないですけどね(笑
ただ、泰明さん(というか、今生きてるお坊さんたち)は、
この、“形式化と形骸化”のループに乗っかってるわけですよね?
それってすごいと思います!
あ、あと、経本の左側は、一体何を表わしているものなんですか??
Posted by 志穏 at 2011年06月15日 13:16
>志穏さん
コメントありがとうございます。
書いた通り、世界に一つだけの法要です。何だか歌のタイトルみたいですが(笑)
ただ、何でもかんでも組み合わせればよいというものではなく、意味内容やパフォーマンス要素(メロディックなお経や太鼓などの楽器を使う所作など)も考慮に入れて組み合わされた法要なので、中々にハイレベルなんですよ(笑)
形式化と形骸化というのは、もしかしたら、ちょっと志穏さんの言われる”絵”とは違うのかもしれませんね。
絵はあくまで作家個人の芸術的な追究でしょうし、法要とは宗教者や信仰者の宗教性の発露であるからです。しかし、まぁアウトラインは仰る通りですよね。
それから、鋭いご質問をいただきました。
あのバーコードのような左側のは、実は楽譜なんです。太鼓とシンバルのようなもの(ハツ、と言うのですが、漢字が出てこない。金偏に”跋”の字の右側)のための楽譜です。
因みに、私はこのシンバル担当で、この楽譜は暗譜してます。(というか、暗譜してこいと先生に言われたので・・・涙)
コメントありがとうございます。
書いた通り、世界に一つだけの法要です。何だか歌のタイトルみたいですが(笑)
ただ、何でもかんでも組み合わせればよいというものではなく、意味内容やパフォーマンス要素(メロディックなお経や太鼓などの楽器を使う所作など)も考慮に入れて組み合わされた法要なので、中々にハイレベルなんですよ(笑)
形式化と形骸化というのは、もしかしたら、ちょっと志穏さんの言われる”絵”とは違うのかもしれませんね。
絵はあくまで作家個人の芸術的な追究でしょうし、法要とは宗教者や信仰者の宗教性の発露であるからです。しかし、まぁアウトラインは仰る通りですよね。
それから、鋭いご質問をいただきました。
あのバーコードのような左側のは、実は楽譜なんです。太鼓とシンバルのようなもの(ハツ、と言うのですが、漢字が出てこない。金偏に”跋”の字の右側)のための楽譜です。
因みに、私はこのシンバル担当で、この楽譜は暗譜してます。(というか、暗譜してこいと先生に言われたので・・・涙)
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年06月15日 22:38