2011年09月05日

おはぎ理論

実は前回からの続きです

この前、お檀家さんからいただいたおはぎを食べながらふと思ったんですよね、「美味しい!」って・・・という話ではなく(笑)、そこで急に思いついたのです。

おはぎって、もち米の周りに餡を包み込んだお菓子です。そんなこと分かってるよ、と思われるでしょう。では、おはぎは小豆でしょうか?砂糖でしょうか?それとも、もち米??

何か変なことを言い始めている、と訝しげないでください(笑)

つまり、最初の問いに戻りますが、
「“お盆や彼岸は、神道の行事である”とか“葬式は仏教ではない”などと言うような主張があるが、そこに宗教的な区分を一方的に押し付けて、本来の豊かな宗教性を持つ行事を、分断・断片化させているのではないか?その分析的なものの見方は果たして正しいのだろうか?」ということです。

現代的な一般的なものの見方、或いは科学的と言うか、分析的なものの見方では、おはぎは、小豆であり、砂糖であり、もち米です。
勿論、その理解はそれで正しくはありますし、小豆は小豆で煮込む工程から、粒あんやこしあんに至る工程があり、中のもち米は蒸して搗き、半殺しや餅状態にまでするという工程は、みなさんご承知の通りだと思います。

で?それでおはぎのおいしさを理解できたことになるでしょうか?

私が思っていたことはここにあります。
例えば小豆が仏教とします。もち米を神道とします。で、初めの主張“お盆や彼岸は、神道の行事である”を考えます。

私が思うに、外見は仏教なのかもしれません。仏教的なことに“砂糖”という別の教理(儒教とか)が流入して餡になる。
あるいは中身(=淵源)は神道なのかもしれません。神道それ自体も、もち米であったものが蒸され、搗かれ、美味しい中身に変化する。

もっと突っ込んでみれば、”民俗”とか”風習”という曰く不確かな不文のものが加わる。これを”もち米を搗く”という行為に比定してもいいかもしれません。すると、最初のもち米は姿を変え、食感が変わっていく。

もちろん、それぞれの立場で言い分がありましょう。ただ、そうして原料を分けて、分けた原料がそれぞれ主張し、かたや「おはぎは小豆である」こなた「いいや、おはぎはもち米である」とは見えませんか??定義づけ(アイデンティファイ)や、断定することが”現代的な考えである”と胸を張っていませんか?


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Posted by 泰明@西光寺 at 18:27
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