2011年09月06日

おはぎ理論・完結編★

前回からのつづき、これにて完結)

私の意見では、別にどっちだっていいのです。いえ、”どっちでもいい”とは語弊があります。どちらかはっきり言えるほど真相は単純ではないからこそ、安易な断定はしない方がいいのではないか、という事です。
それから、優劣をつけたり、簡単に言いきれるものではない、と言うことも理解した方が良いと思うのです。そんなに簡単に理解できることだったら、とっくの昔にだれかやっていますよ。

そんなことは、おはぎを「美味しくいただく」上では関係のないことです。

“美味しいと思えるおはぎ”・・・これこそが、今も生き続ける・意味を持ち続ける、お盆であり、お彼岸であり、各種の祭礼であり、日本の風土に根付く行事だと思います。そこには宗派の優劣も、教義の論争もない。ただ市井の人々が祈り、気持ちを新たにできる節目であり、行事である。尾藤正英の言った“生きた宗教として機能する”とはこういうことを指すのでしょう。

ここで、前回の記事で紹介した末木先生の文

「そもそも、日本の思想は仏教・儒教・国学・神道など、各別に研究されてきて、必ずしもそれらが統合的に考察されていないという問題があった。」


これは、『日本仏教史』にも同じような文章があります。
”各別に研究”とは、原材料別の研究ですね(笑)小豆とか、砂糖とか、もち米なんかの。
”統合的”、を言い換えれば、「おはぎ」全体を考える、おはぎを味わう、ということになりましょう。そうしたことが、実は顧みられてこなかった、ということです。

続いて、末木先生は丸山眞男の語を引きます。

「私たちの思考や発想の様式をいろいろな要素に分解し、それぞれの系譜を遡るならば、仏教的なもの、儒教的なもの、シャーマニズム的なもの、西欧的なもの―要するに私たちの歴史にその足跡を記したあらゆる思想の断片に行き当たるだろう。問題はそれらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としないところにある。」


それだけ、かの泰斗をしても簡単な理解はできない、という証左です。であれば、少なくとも「一言で言いきれるほど簡単ではない」くらいのことは理解できてもいいはずです。

もちろん、だからと言って歩み(=研究)を怠っていい理由にはなりません。ただ、事象が事象なだけに、文献に残されている、とか、統計が残っているという可能性は非常に少ないわけで。

もう一度繰り返しますが、だから「おはぎを味わう」という大切さを、見直してもいいのではないか、というのが私の考えです。



(*今回の連載?はこれで終わりです。長々すみません。もちろん、これは私にとっても興味ある事項であり、これで解決できたとは到底思えません。どちらかというと、すべての文が単なる問題提起にすぎません。だからこそ、折を見て書いてみたいと思いますし、時々で考えが変わることも十分あります。何かご意見などございましたら、ぜひどうぞ。)


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Posted by 泰明@西光寺 at 19:26
Comments(2)仏教のこと
この記事へのコメント
さぁ、続きをやりますか♪♪
Posted by 青蛉返 at 2011年09月06日 22:08
>青蛉返さま

コメントありがとうございます!

続きって・・・??!もうネタ切れですよ・・・(汗)なのでまた勉強します。
あっ、直接お会いして、という意味でしょうか??
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年09月07日 16:08
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