2011年12月06日
種を蒔く人 -2-
(前回からのつづきです)
単純に「お寺イベントを増やそう」ということではありません。イベントも良いですが、どちらかというと「いろんな立場の人々が、バラバラだけど集まってきてくれてバランスのとれているお寺」ということです。
これはちょっと説明するのが難しいのですが・・・つまり、檀家様はいろんな性格・境遇・年齢・立場の方々がいらっしゃいます。
人間というのは傲慢なもので、自分ができれば人もできる、自分が当然理解していることは他人も同じように思っているという、無自覚で厄介な癖があります。日頃、檀家さんとお話させてもらったりしていると、いやと言うほど、その“違い”に気がつかされます。
ちょっと脱線しますが、例えば、今皆さんがいらっしゃる環境(人間関係)を考えてみましょう。
同じ会社だったり、同じ学校だったり、同じように小さい子供を持つ親同士だったり、同じ趣味を持つ者同士だったり、とかく“同じこと”で繋がっている関係性が非常に多い。逆に“同じこと”を持たざる人と関係性を保ち続けるのは、簡単なことではないですよね。「そんなの当たり前じゃん」と思われるかもしれません。
しかし、お寺というのは、正直、檀家さんを選べません。「気に入らないから檀家を辞めろ」「同じ考えを共有しないなら出て行ってくれ」なんて住職に絶対言われないはずです。(大変申し訳ないですが、はっきり言っておきます。稀に「檀家もお寺を選べないだろ!」と憤慨する人がいますが、それは嘘です。檀家さんには選択権があります。ただ、お寺はそれぞれにルールがありますから、「現在は墓地がないから、檀家にはお入り頂けません」とお断りするケースはあるだろうと思います。)
逆に言えば、我々僧侶というのは、自然に檀家さんによって「全然違う立場や生き方」を学ばせて貰っているといえます。
話を戻しまして、そういう風に考えると、すべての方にそれ相応の満足度(宗教的な)を、たった一つやり方でする、なんてのはどだい無理な話です。
だからこそ、いろんな立場の人にむけて、様々な機会を作ろう、というのが、今回の増員の主旨、というより目指すべき姿への為の変革です。最終的には、役員さん達がもっと活発に、いろんなアイディアを持ち寄ってお寺を使ってもらえるように、そしてそれらをご自身達で運営してもらえるようになったら、お寺が活性化するのでは、と思っています。だからこそ、役員さん達もバラバラの立場でいいと思っていますし、そうなるように人選をしているつもりです。
それから、もう少しつっこんで考えてみたいと思います。
お寺というのは、多分にその矛盾というか、バラバラな要素を含んで存在してきました。
住職がなぜ「住持」(じゅうじ)と呼ばれるのか。(住職、という言葉は近代明治に入ってから、職務の分類上できた言葉(確か)で、本来は“住持”と呼ばれています)
住持というのは、文字通り「住む」「持つ」という意味ですが、何に住んで何を持つのかと言えば、お寺に“住んで”、仏教を“持つ”ことです。それはお寺が、修行の道場だからに他なりません。修行道場であれば、まずは自己の研鑽、師匠について仏道を淡々と行うのが第一義。しかも仏教は“出家”という大前提のシステムがあります。それならば、市井に存在する必要はない。
しかし一方で、一般の方にしてみれば、「お寺=修行道場」という認識・イメージは一部のお寺を除いてないはずです。
いわゆる、美しい庭園や建物、貴重な仏像があるなどの観光寺、困った時の駆け込み寺、まれにですがホームレスの方の一泊の宿(というか宿り木的な)とか、ストレスが溜まった時の癒しの場、先祖が眠る場所、あるいは庶民文化の養生地(落語や歌舞伎の会場)などなど、非常に多様な側面・要素を複合しています。だからこそ、今まで存続できているのかもしれません。
もし仮に、一義的に「お寺は僧侶が仏道を行じる、修行道場だ」と決めつけたら、あなたは果たしてそれでもお寺に行きますか??
確かに時代の流れには逆らえないものもあります。ちょっと気が病んだと自覚したら、お寺ではなく病院やカウンセリングに行くでしょうし、歌舞伎を見にお寺に行くというのも不思議な感覚かもしれません。しかし、何でもかんでも細分化・専門分化が進む中で、それでも今なお複合的で、矛盾しているような要素を包含して存続するのが、お寺だと思いますし、そうあって欲しいとも思います。
いわば、グレーゾーンを埋めるような存在。これが、お寺の持つ特殊性であり、独自性であるかもしれません。
完全な専門的知識はないかもしれない。しかし、“衆生を救う”という発願のもとに、日々檀家さんに接し、檀家さんが困っていたら“直接的に”何かできなくても、話を聞くとか、他に対処できる人を探したり紹介したり“間接的に”救いとなるように奔走する。
その原動力は、すべて仏教者の“慈悲心”、つまり困っている人に手をさしのべるという、思いやりの発現でありましょう。そこに仏教がなければ、単なる「事業」になってしまいます。
他者と他者とを結ぶメディウム(媒体)がお寺の機能であり、そのメディウムを提供し続けるのが僧侶で、その源泉は“慈悲心”ではないかと思うのです。
ただし、これは自戒の意味を込めて書きますが、「必ずしも、檀家さんが増えたり、交流が活発になることだけが、目的ではない」ということです。僧侶は仏道を行じているが故に僧侶です。お寺は確かに法人ですが、そこにマネージメントや経営や、露骨に言えば金儲けを追い求める必要は全くないと私は思います。それは他の方にしてもらえばいい。まずは自分自身が僧侶としてキチンとしていなければ、と思います。
単純に「お寺イベントを増やそう」ということではありません。イベントも良いですが、どちらかというと「いろんな立場の人々が、バラバラだけど集まってきてくれてバランスのとれているお寺」ということです。
これはちょっと説明するのが難しいのですが・・・つまり、檀家様はいろんな性格・境遇・年齢・立場の方々がいらっしゃいます。
人間というのは傲慢なもので、自分ができれば人もできる、自分が当然理解していることは他人も同じように思っているという、無自覚で厄介な癖があります。日頃、檀家さんとお話させてもらったりしていると、いやと言うほど、その“違い”に気がつかされます。
ちょっと脱線しますが、例えば、今皆さんがいらっしゃる環境(人間関係)を考えてみましょう。
同じ会社だったり、同じ学校だったり、同じように小さい子供を持つ親同士だったり、同じ趣味を持つ者同士だったり、とかく“同じこと”で繋がっている関係性が非常に多い。逆に“同じこと”を持たざる人と関係性を保ち続けるのは、簡単なことではないですよね。「そんなの当たり前じゃん」と思われるかもしれません。
しかし、お寺というのは、正直、檀家さんを選べません。「気に入らないから檀家を辞めろ」「同じ考えを共有しないなら出て行ってくれ」なんて住職に絶対言われないはずです。(大変申し訳ないですが、はっきり言っておきます。稀に「檀家もお寺を選べないだろ!」と憤慨する人がいますが、それは嘘です。檀家さんには選択権があります。ただ、お寺はそれぞれにルールがありますから、「現在は墓地がないから、檀家にはお入り頂けません」とお断りするケースはあるだろうと思います。)
逆に言えば、我々僧侶というのは、自然に檀家さんによって「全然違う立場や生き方」を学ばせて貰っているといえます。
話を戻しまして、そういう風に考えると、すべての方にそれ相応の満足度(宗教的な)を、たった一つやり方でする、なんてのはどだい無理な話です。
だからこそ、いろんな立場の人にむけて、様々な機会を作ろう、というのが、今回の増員の主旨、というより目指すべき姿への為の変革です。最終的には、役員さん達がもっと活発に、いろんなアイディアを持ち寄ってお寺を使ってもらえるように、そしてそれらをご自身達で運営してもらえるようになったら、お寺が活性化するのでは、と思っています。だからこそ、役員さん達もバラバラの立場でいいと思っていますし、そうなるように人選をしているつもりです。
それから、もう少しつっこんで考えてみたいと思います。
お寺というのは、多分にその矛盾というか、バラバラな要素を含んで存在してきました。
住職がなぜ「住持」(じゅうじ)と呼ばれるのか。(住職、という言葉は近代明治に入ってから、職務の分類上できた言葉(確か)で、本来は“住持”と呼ばれています)
住持というのは、文字通り「住む」「持つ」という意味ですが、何に住んで何を持つのかと言えば、お寺に“住んで”、仏教を“持つ”ことです。それはお寺が、修行の道場だからに他なりません。修行道場であれば、まずは自己の研鑽、師匠について仏道を淡々と行うのが第一義。しかも仏教は“出家”という大前提のシステムがあります。それならば、市井に存在する必要はない。
しかし一方で、一般の方にしてみれば、「お寺=修行道場」という認識・イメージは一部のお寺を除いてないはずです。
いわゆる、美しい庭園や建物、貴重な仏像があるなどの観光寺、困った時の駆け込み寺、まれにですがホームレスの方の一泊の宿(というか宿り木的な)とか、ストレスが溜まった時の癒しの場、先祖が眠る場所、あるいは庶民文化の養生地(落語や歌舞伎の会場)などなど、非常に多様な側面・要素を複合しています。だからこそ、今まで存続できているのかもしれません。
もし仮に、一義的に「お寺は僧侶が仏道を行じる、修行道場だ」と決めつけたら、あなたは果たしてそれでもお寺に行きますか??
確かに時代の流れには逆らえないものもあります。ちょっと気が病んだと自覚したら、お寺ではなく病院やカウンセリングに行くでしょうし、歌舞伎を見にお寺に行くというのも不思議な感覚かもしれません。しかし、何でもかんでも細分化・専門分化が進む中で、それでも今なお複合的で、矛盾しているような要素を包含して存続するのが、お寺だと思いますし、そうあって欲しいとも思います。
いわば、グレーゾーンを埋めるような存在。これが、お寺の持つ特殊性であり、独自性であるかもしれません。
完全な専門的知識はないかもしれない。しかし、“衆生を救う”という発願のもとに、日々檀家さんに接し、檀家さんが困っていたら“直接的に”何かできなくても、話を聞くとか、他に対処できる人を探したり紹介したり“間接的に”救いとなるように奔走する。
その原動力は、すべて仏教者の“慈悲心”、つまり困っている人に手をさしのべるという、思いやりの発現でありましょう。そこに仏教がなければ、単なる「事業」になってしまいます。
他者と他者とを結ぶメディウム(媒体)がお寺の機能であり、そのメディウムを提供し続けるのが僧侶で、その源泉は“慈悲心”ではないかと思うのです。
ただし、これは自戒の意味を込めて書きますが、「必ずしも、檀家さんが増えたり、交流が活発になることだけが、目的ではない」ということです。僧侶は仏道を行じているが故に僧侶です。お寺は確かに法人ですが、そこにマネージメントや経営や、露骨に言えば金儲けを追い求める必要は全くないと私は思います。それは他の方にしてもらえばいい。まずは自分自身が僧侶としてキチンとしていなければ、と思います。