2011年02月15日
まっくろくろすけでておいで~
タイトルと本文は全然関係ありません、ごめんなさい
今日も楽しく青be(朝日新聞土曜版)を読んでいましたら、面白い一節を見つけました。(2月5日)
一面の特集「フロントランナー」です。今日はダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン代表 金井真介さんのお話です。
この「ダイアログ~」という会社(?)は読んで字のごとく「真っ暗闇での会話」を体験するという、ドイツの哲学者が考案したエンターテイメントだそうです。
参加者は数人のチームに分かれ、アテンド役の視覚障がい者に導かれて施設内を探検する、というもの。真っ暗な空間には、落ち葉が敷き詰められていたり、水が流れていたり、橋が架けられていたりとさまざまな仕掛けが配されている、とのこと。
白杖で足場を確かめ、手さぐりで進むと、自然と見知らぬ者同士が声を掛け合い、協力し、次第に暗闇に対する恐怖が解け、最後には心地よさに変わっていくそう。
なかなか面白そうですね!

今回のインタビューを読んでいて、私としてはここが一番気になりました。
以下、ちょっと掲載文を拝借。
これ、非常に仏教的ですよ!!!!面白い!
例えば、前段部分はまさに「出家」。
つまり、僧侶になることは文字通り、「家(=インドでは屋根のある場所を意味しているそうです)を出る」ことで、一所不住の生活をします。
その時、肩書き、地位、名誉、すべてを捨てて、またそれが故に「自己の執着」を認識して、そこから脱却することを指しています。
もう少し補足すると、要するに仏教では「世俗の価値」(つまり、いい車だとかいい大学出身だとか、ルックスがいいとか)を一旦捨てます。捨てるのには理由があって、それが原因で「心の苦しみ」が生まれることを知っているからです。
もっともっと卑近な例で言えば、今までお金があって豪奢な暮らしをしている人がいたとします。その人が没落して、今までの暮らしができなくなったら、どんな風に思うでしょうか?
きっと、悲しみますよね。何故悲しいかと言えば、「心の苦しみ」が生まれるから。つまり、今までの豪奢な生活に対する執着心と、お金を失ったことで気づく「お金に対する執着心」が苦しみを生むからです。
どうですか?面白いでしょ?
また、後段は「修行生活」に置き換えられます。
例えば、私がいた永平寺。
修行に入るとき、どんな人でも、それまでの経験や地位や年齢さえも、一旦リセットされて一律「新米修行僧」になるわけです。つまりさっきの「出家」のような感覚で、持ち物や食べ物、生活リズム、すべて自己の思い通りにならない生活に没入します。
当然に、修行は厳しく、その中で、「大事だと思っていたもの」(ひとそれぞれありますよね)を手放さなければなりません。そうすると、まさに文中の通り、「人は不安になり、孤立したような気持ちになり」ます。本当に「一瞬、この暗闇(=修行生活)から出られないのではと思う」んです。
でも、苦しい時もお互いに励まし合い、時に慰め合いながら修行生活を共にしていくうちに、修行の同期というのは、まるで「乳水のごとくに和合」するのです。
もしかしたら、いつの時代にも人々から慕われる僧侶がいるのは、この「孤独の味」を知っているからなのかもしれませんね。
ただ、この「ダイアログ~」はエンターテイメントなので、きちんと出口で終わりますが(笑)、僧侶の生活は、この「執着を捨てて」生きることにその真髄があると思うんです。だから「解脱」と言われるし、「出世間」と言われたりします。
最後に、私の好きな、最古のお経と言われているスッタニパータの一節を書いておきます。
慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め (スッタニパータ・73)

今日も楽しく青be(朝日新聞土曜版)を読んでいましたら、面白い一節を見つけました。(2月5日)
一面の特集「フロントランナー」です。今日はダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン代表 金井真介さんのお話です。
この「ダイアログ~」という会社(?)は読んで字のごとく「真っ暗闇での会話」を体験するという、ドイツの哲学者が考案したエンターテイメントだそうです。
参加者は数人のチームに分かれ、アテンド役の視覚障がい者に導かれて施設内を探検する、というもの。真っ暗な空間には、落ち葉が敷き詰められていたり、水が流れていたり、橋が架けられていたりとさまざまな仕掛けが配されている、とのこと。
白杖で足場を確かめ、手さぐりで進むと、自然と見知らぬ者同士が声を掛け合い、協力し、次第に暗闇に対する恐怖が解け、最後には心地よさに変わっていくそう。
なかなか面白そうですね!

今回のインタビューを読んでいて、私としてはここが一番気になりました。
以下、ちょっと掲載文を拝借。
―――なぜ暗闇が必要なのですか?
私たちは日常、視覚情報に頼り(中略)見ることで生まれる固定観念や先入観もある。(中略)暗闇では容姿も肩書や地位も関係なく、「ただの一人の自分」として参加できる。
―――体験するうちに人に対してやさしい気持ちになりますね。
暗闇では、視覚、地位や名誉など、それぞれが大事だと思っているものを手放さなければいけない。大事なものを手放すと、人は不安になり、孤立したような気持ちになり、一瞬、この暗闇から出られないのではと思う。
そして、出るためには(中略)励まし合いながら進むうちに、お互いが他人じゃない、という気持ちになるのだと思います。
これ、非常に仏教的ですよ!!!!面白い!
例えば、前段部分はまさに「出家」。
つまり、僧侶になることは文字通り、「家(=インドでは屋根のある場所を意味しているそうです)を出る」ことで、一所不住の生活をします。
その時、肩書き、地位、名誉、すべてを捨てて、またそれが故に「自己の執着」を認識して、そこから脱却することを指しています。
もう少し補足すると、要するに仏教では「世俗の価値」(つまり、いい車だとかいい大学出身だとか、ルックスがいいとか)を一旦捨てます。捨てるのには理由があって、それが原因で「心の苦しみ」が生まれることを知っているからです。
もっともっと卑近な例で言えば、今までお金があって豪奢な暮らしをしている人がいたとします。その人が没落して、今までの暮らしができなくなったら、どんな風に思うでしょうか?
きっと、悲しみますよね。何故悲しいかと言えば、「心の苦しみ」が生まれるから。つまり、今までの豪奢な生活に対する執着心と、お金を失ったことで気づく「お金に対する執着心」が苦しみを生むからです。
どうですか?面白いでしょ?
また、後段は「修行生活」に置き換えられます。
例えば、私がいた永平寺。
修行に入るとき、どんな人でも、それまでの経験や地位や年齢さえも、一旦リセットされて一律「新米修行僧」になるわけです。つまりさっきの「出家」のような感覚で、持ち物や食べ物、生活リズム、すべて自己の思い通りにならない生活に没入します。
当然に、修行は厳しく、その中で、「大事だと思っていたもの」(ひとそれぞれありますよね)を手放さなければなりません。そうすると、まさに文中の通り、「人は不安になり、孤立したような気持ちになり」ます。本当に「一瞬、この暗闇(=修行生活)から出られないのではと思う」んです。
でも、苦しい時もお互いに励まし合い、時に慰め合いながら修行生活を共にしていくうちに、修行の同期というのは、まるで「乳水のごとくに和合」するのです。
もしかしたら、いつの時代にも人々から慕われる僧侶がいるのは、この「孤独の味」を知っているからなのかもしれませんね。
ただ、この「ダイアログ~」はエンターテイメントなので、きちんと出口で終わりますが(笑)、僧侶の生活は、この「執着を捨てて」生きることにその真髄があると思うんです。だから「解脱」と言われるし、「出世間」と言われたりします。
最後に、私の好きな、最古のお経と言われているスッタニパータの一節を書いておきます。
慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め (スッタニパータ・73)
この記事へのコメント
記事の抜粋後の「出家」の解説を読んでいて、「あ、そうだ」と膝を打ったのは、旧約聖書創世記12章1節「主はアブラムに言われた、『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」の言っていることと「出家」は同じことを言っているのだということです。
「父の家」というのは、私たちがそこに育ち、根を下ろしている「世界」のことであり、物事を判断する際の枠組みであり、固有の価値観のことです。神の命令によってそこから「出よ」と言われるか、自分から捨てるかの違いはありますが、足を踏み入れた先はそれまでの価値観・枠組みが一切通じない世界という点は同じです。「出家」はそういう意味だったのですね。物理的に「家を出る」なら「家出」と異ならないので、どういう意味か、以前から引っかかっていました。
スッタニパータの「世間すべてに背くことなく」というのは重要だと思います。キリスト教信仰に生きるというのは、この世と違う価値観で生きることを意味するわけですが、時折、この世の価値観に敵対的でないといけないと考える人がいます。しかし、この世の価値観と違った生き方を示すというのと、この世の価値観に対して敵対するのは、似ているようで違います。世間全てに背いたら、人間は生きていけません。こちらの価値観と世間の価値観の境界で折り合わなければ、信仰的生き方を追究することすらできません。
「父の家」というのは、私たちがそこに育ち、根を下ろしている「世界」のことであり、物事を判断する際の枠組みであり、固有の価値観のことです。神の命令によってそこから「出よ」と言われるか、自分から捨てるかの違いはありますが、足を踏み入れた先はそれまでの価値観・枠組みが一切通じない世界という点は同じです。「出家」はそういう意味だったのですね。物理的に「家を出る」なら「家出」と異ならないので、どういう意味か、以前から引っかかっていました。
スッタニパータの「世間すべてに背くことなく」というのは重要だと思います。キリスト教信仰に生きるというのは、この世と違う価値観で生きることを意味するわけですが、時折、この世の価値観に敵対的でないといけないと考える人がいます。しかし、この世の価値観と違った生き方を示すというのと、この世の価値観に対して敵対するのは、似ているようで違います。世間全てに背いたら、人間は生きていけません。こちらの価値観と世間の価値観の境界で折り合わなければ、信仰的生き方を追究することすらできません。
Posted by ヒソカ at 2011年02月16日 00:02
>ヒソカさん
コメントありがとうございます。相変わらず(と言っては失礼ですかね・・・笑)素晴らしいコメントをいただきました。
改めて認識したことは、キリスト教・仏教は(もちろん他にもそういう宗教はあるでしょうが)疑いようのない”世界宗教”であるということです。
「父の家」を捨てること、それはすなわち”世間=共同体の価値、を捨てる”ことでもありますね。正にそうした点が”世界宗教”の世界宗教たる所以ではないでしょうか。
世俗の価値観との相違こそ”宗教の価値”と思っている方、結構おおいですよね(笑)
ぼーさんでも”わしは解脱してるから、どんなことにも捕らわれない。だから何してもいいんだ”と言ってお姉さん遊び(!?)や高級外国車を乗り回している人いるみたいだし(笑)
・・・まったく残念なことです。私の先輩(このブログもリンクさせていただいています)も書かれていましたが、「宗教とは本来が社会的なものでなくてはならない」と私も思います。
コメントありがとうございます。相変わらず(と言っては失礼ですかね・・・笑)素晴らしいコメントをいただきました。
改めて認識したことは、キリスト教・仏教は(もちろん他にもそういう宗教はあるでしょうが)疑いようのない”世界宗教”であるということです。
「父の家」を捨てること、それはすなわち”世間=共同体の価値、を捨てる”ことでもありますね。正にそうした点が”世界宗教”の世界宗教たる所以ではないでしょうか。
世俗の価値観との相違こそ”宗教の価値”と思っている方、結構おおいですよね(笑)
ぼーさんでも”わしは解脱してるから、どんなことにも捕らわれない。だから何してもいいんだ”と言ってお姉さん遊び(!?)や高級外国車を乗り回している人いるみたいだし(笑)
・・・まったく残念なことです。私の先輩(このブログもリンクさせていただいています)も書かれていましたが、「宗教とは本来が社会的なものでなくてはならない」と私も思います。
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年02月16日 12:06
>泰明@西光寺さん
「相変わらず」、いえいえ、失礼ではありませんよ(笑)。
ある宗教が世界宗教になった理由というのは、ちゃんとあると思います。その理由とは何かを時に考えてみることは、自身の信仰を見つめ直す上でも必要なことでしょう。「キリスト教が世界宗教になったのはそれが神様の御心だから」と平気で言うキリスト者に出会ったことがありますけれど、これは何も説明していないただの同語反復です。
「生まれ故郷、父の家を離れて」という神様の命令は、ふつうに読んでもかなりひどいことを言っています(笑)。要するに「親を捨てろ」という無茶ぶりなわけですから。しかし、普段自分が大切にしている価値観と全く違った価値観で生きることの大転換をうまく表現しています。新しい仕事やポストに就いた時にこの言葉を引用される方がいるのですが、この言葉はそういうことを言っているのではないと思います。これはいずれ拙ブログで考えてみたい。
>世俗の価値観との相違こそ”宗教の価値”と思っている方、結構おおいですよね
なんでなのでしょうね。興味深い論件だと思います。
「相変わらず」、いえいえ、失礼ではありませんよ(笑)。
ある宗教が世界宗教になった理由というのは、ちゃんとあると思います。その理由とは何かを時に考えてみることは、自身の信仰を見つめ直す上でも必要なことでしょう。「キリスト教が世界宗教になったのはそれが神様の御心だから」と平気で言うキリスト者に出会ったことがありますけれど、これは何も説明していないただの同語反復です。
「生まれ故郷、父の家を離れて」という神様の命令は、ふつうに読んでもかなりひどいことを言っています(笑)。要するに「親を捨てろ」という無茶ぶりなわけですから。しかし、普段自分が大切にしている価値観と全く違った価値観で生きることの大転換をうまく表現しています。新しい仕事やポストに就いた時にこの言葉を引用される方がいるのですが、この言葉はそういうことを言っているのではないと思います。これはいずれ拙ブログで考えてみたい。
>世俗の価値観との相違こそ”宗教の価値”と思っている方、結構おおいですよね
なんでなのでしょうね。興味深い論件だと思います。
Posted by ヒソカ at 2011年02月16日 22:59
>ヒソカさん
コメントありがとうございます。
なんか、キリスト教のお話を書かれているのに、妙に仏教とオーヴァーラップしてきます(笑)
”「キリスト教が世界宗教になったのはそれが神様の御心だから」と平気で言うキリスト者”・・・いますいます、仏教でも(笑)
コメントありがとうございます。
なんか、キリスト教のお話を書かれているのに、妙に仏教とオーヴァーラップしてきます(笑)
”「キリスト教が世界宗教になったのはそれが神様の御心だから」と平気で言うキリスト者”・・・いますいます、仏教でも(笑)
Posted by 泰明@西光寺 at 2011年02月17日 09:47