2012年01月11日
僧侶の本分・本懐 -1-
(前回からの続きです。)
役員会のあと、珍しく神経が高ぶっていたようで、寝付けなかった、というお話です。その時考えていたことについて。
新しく護持会役員を承諾してくださった方には、本当に感謝しています。
そして、有名無実のままの状態でずっと待ってくださっていた旧来の役員さんには、それ以上に感謝しています。
だから、もっともっと努力してうまくこの護持会を機能させたいと切実に思います。
しかし、同時に思うこともあるのです。ここから結構重要ですが、はっきり言って、「今やっていることは、言ってみれば組織の立ち上げであって、これは僧侶の本分なのかな?」、と自問自答しないでもないのです。
「おいおい、なんだそりゃ。じゃあ、やってもらっている方に失礼だろ」と思われるかもしれません。確かにそうなのですが、ちょっとそんなに単細胞な話ではありません。
私が思う護持会の在り方は、現在こそ僧侶中心・先導でやっていますが、ゆくゆくはもう少し護持会役員主導で動いて頂きたいと思うのです。
つまり、今は黎明期でありますので、そこは住職なり私なりが微力ながらお手伝いをさせていただいて、規約を決めたり、活動内容をサジェストしたりとしていますが、最終的にはもう少し独立性のある、つまりは互いに僧侶として、或いは在家(一般の方)としての立場にのっとって、うまいバランスをとりながら会がまわっていくと良いな、と思っているのです。
僧侶-護持会役員-一般檀家というトップダウンではなく、もう少し三権分立的と申しましょうか、それぞれが上手く調和しているような組織、これが理想かなと思っています。
何故そう思うのかというと、やはり「僧侶の本分」とは何か、ということを考えさせられるから。もっと言えば、最近とみに己の仏教の不勉強さを恥じることが多いからです。
”僧侶の本分”という書き方をしましたが、これについて皆さん誤解されている。
つまり、ごく一般的なイメージ(事実ではなく“イメージ”)として、僧侶は「葬式と法事をする人」に終始しています。「坊さんって葬式と法事をすることが仕事でしょ?」と思っていませんか?
それはあくまで一面に過ぎません。
すべての基本は、仏道を行じること。即ち、仏教を学び、実践し(修行し)、わが曹洞宗においては行持道環(発心・修行・菩提・涅槃)が回り続けることこそが、出家者の意義であり、僧侶の本分だと強く思っています。
その過程で、僧侶としての「慈悲心」(=他者への思いやりの心)が基盤となって葬祭行事を行うべきなのです。
もっと分かりやすく言えば、何で坊さんが葬式をやっているのかといえば、「悲しんでいる人をほってはおけないから」です。他人の悲しみを少しでも和らげたい、故人に安らかに眠って欲しい、その気持ちが僧侶をして葬儀をさせしめている。これが全てのはじまりです。
役員会のあと、珍しく神経が高ぶっていたようで、寝付けなかった、というお話です。その時考えていたことについて。
新しく護持会役員を承諾してくださった方には、本当に感謝しています。
そして、有名無実のままの状態でずっと待ってくださっていた旧来の役員さんには、それ以上に感謝しています。
だから、もっともっと努力してうまくこの護持会を機能させたいと切実に思います。
しかし、同時に思うこともあるのです。ここから結構重要ですが、はっきり言って、「今やっていることは、言ってみれば組織の立ち上げであって、これは僧侶の本分なのかな?」、と自問自答しないでもないのです。
「おいおい、なんだそりゃ。じゃあ、やってもらっている方に失礼だろ」と思われるかもしれません。確かにそうなのですが、ちょっとそんなに単細胞な話ではありません。
私が思う護持会の在り方は、現在こそ僧侶中心・先導でやっていますが、ゆくゆくはもう少し護持会役員主導で動いて頂きたいと思うのです。
つまり、今は黎明期でありますので、そこは住職なり私なりが微力ながらお手伝いをさせていただいて、規約を決めたり、活動内容をサジェストしたりとしていますが、最終的にはもう少し独立性のある、つまりは互いに僧侶として、或いは在家(一般の方)としての立場にのっとって、うまいバランスをとりながら会がまわっていくと良いな、と思っているのです。
僧侶-護持会役員-一般檀家というトップダウンではなく、もう少し三権分立的と申しましょうか、それぞれが上手く調和しているような組織、これが理想かなと思っています。
何故そう思うのかというと、やはり「僧侶の本分」とは何か、ということを考えさせられるから。もっと言えば、最近とみに己の仏教の不勉強さを恥じることが多いからです。
”僧侶の本分”という書き方をしましたが、これについて皆さん誤解されている。
つまり、ごく一般的なイメージ(事実ではなく“イメージ”)として、僧侶は「葬式と法事をする人」に終始しています。「坊さんって葬式と法事をすることが仕事でしょ?」と思っていませんか?
それはあくまで一面に過ぎません。
すべての基本は、仏道を行じること。即ち、仏教を学び、実践し(修行し)、わが曹洞宗においては行持道環(発心・修行・菩提・涅槃)が回り続けることこそが、出家者の意義であり、僧侶の本分だと強く思っています。
その過程で、僧侶としての「慈悲心」(=他者への思いやりの心)が基盤となって葬祭行事を行うべきなのです。
もっと分かりやすく言えば、何で坊さんが葬式をやっているのかといえば、「悲しんでいる人をほってはおけないから」です。他人の悲しみを少しでも和らげたい、故人に安らかに眠って欲しい、その気持ちが僧侶をして葬儀をさせしめている。これが全てのはじまりです。
この記事へのコメント
”我が意を得たり”という感じです。ちょっと失礼でしたか!すいません
”僧侶の本分”私は理解しているつもりです。基本となる軸がぶれなければ
もっと檀家さんのなかに入っていくべきだと思います。たしかに今の世の中
本分を忘れ金儲けに走り檀家さんから遊離しているお寺さんよく見たり聞いたりします。仏教(曹洞宗)の教えを伝え広めることも重要な僧侶の役割であり、それをおこなうため護持会と一体となり色々な行事を開催するのも重要
です。 なにか行事をするにあたりまず役員さんに企画の段階ではいってもらうのも、ひとつの手では・・・・。
私が保護司を拝命してまもないころ、担当した対象者(17歳の少年)の処遇について悩み先輩保護司に相談したところ「市川先生、そう熱くなりなさんな」
と言われ、自分がこれだけ少年の更生のことを思っているのにそんなことを言わなくてもいいのに!と憤慨したことがありました。しかし経験を積むにつれ先輩保護司が言われたことがわかってきました。それは、少年を思うあまり、ひとりよがりとなり、自分の考えをおしつけたり、周りの環境を見過ごしたり視野が狭くなっていることに気がつきました。忠告をいただいた先輩に頭がさがるおもいでした。
”僧侶の本分”私は理解しているつもりです。基本となる軸がぶれなければ
もっと檀家さんのなかに入っていくべきだと思います。たしかに今の世の中
本分を忘れ金儲けに走り檀家さんから遊離しているお寺さんよく見たり聞いたりします。仏教(曹洞宗)の教えを伝え広めることも重要な僧侶の役割であり、それをおこなうため護持会と一体となり色々な行事を開催するのも重要
です。 なにか行事をするにあたりまず役員さんに企画の段階ではいってもらうのも、ひとつの手では・・・・。
私が保護司を拝命してまもないころ、担当した対象者(17歳の少年)の処遇について悩み先輩保護司に相談したところ「市川先生、そう熱くなりなさんな」
と言われ、自分がこれだけ少年の更生のことを思っているのにそんなことを言わなくてもいいのに!と憤慨したことがありました。しかし経験を積むにつれ先輩保護司が言われたことがわかってきました。それは、少年を思うあまり、ひとりよがりとなり、自分の考えをおしつけたり、周りの環境を見過ごしたり視野が狭くなっていることに気がつきました。忠告をいただいた先輩に頭がさがるおもいでした。
Posted by 市川明人 at 2012年01月12日 18:31
>市川様
何より有り難い箴言を頂戴しました。何度も読み返しております。本当にそうだな、と深く肝に銘じております。
先輩保護司さんのお言葉は重みがありますね。
前にも申し上げたとおり、私の弱点は「熱しやすく冷めやすい」ところです。ですから、熱が上がると時として回りが見えなくなりがちということを自覚し、自戒しております。
そうならないためにも、積極的に役員さんたちに自分の考えやヴィジョンをお聞きいただき、逆に役員さんたちのアドヴァイスを柔軟に取り込んで行きたいとも思います。(何分、私は若造ですし、力も学もないので)
早い段階、まだ形に出来ていない企画の時に、役員さんにお聞き頂くというのは、とても良いアドバイスをいただいたと感謝しております。確かにそこで一度役員さんたちにお聞きすることで、企画の具体性が増し、役員さんたちのコンセンサスも取れ、よりよい実施に向けて動けるような気がします。
あまり焦らずに、しっかりと歩みを進めていきたいと思います。市川さんも、このように未熟な私ですので、自分の子だと思って厳しいご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。 合掌
何より有り難い箴言を頂戴しました。何度も読み返しております。本当にそうだな、と深く肝に銘じております。
先輩保護司さんのお言葉は重みがありますね。
前にも申し上げたとおり、私の弱点は「熱しやすく冷めやすい」ところです。ですから、熱が上がると時として回りが見えなくなりがちということを自覚し、自戒しております。
そうならないためにも、積極的に役員さんたちに自分の考えやヴィジョンをお聞きいただき、逆に役員さんたちのアドヴァイスを柔軟に取り込んで行きたいとも思います。(何分、私は若造ですし、力も学もないので)
早い段階、まだ形に出来ていない企画の時に、役員さんにお聞き頂くというのは、とても良いアドバイスをいただいたと感謝しております。確かにそこで一度役員さんたちにお聞きすることで、企画の具体性が増し、役員さんたちのコンセンサスも取れ、よりよい実施に向けて動けるような気がします。
あまり焦らずに、しっかりと歩みを進めていきたいと思います。市川さんも、このように未熟な私ですので、自分の子だと思って厳しいご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。 合掌
Posted by 泰明@西光寺
at 2012年01月12日 23:44

「最終的にはもう少し独立性のある、つまりは互いに僧侶として、或いは在家(一般の方)としての立場にのっとって、うまいバランスをとりながら会がまわっていくと良いな、と思っている」
↑これとほぼ同じことを、私は自分の所属教会について考えています。牧師や教会役員が言うことを鵜呑みにするのではなく、また「私は聖書もよく読んでおらず神学も勉強していません」と尻ごみするのでもなく、自立した信徒となって、自分が教会を支えていくのだという責任感を抱いて、牧師や役員と対等の関係を築いていくようになりたい、そう願い、考えています。ちなみに、私は牧師も役員もそうでない信徒も、神の前にはみんな平等だと考えていますから、この種の尻ごみはないです。
護持会の運営初期段階では僧侶が関わる必要がありますけれど、おぼろげながらでも会の形が見えてきたら、役員は自分で考えて、必要なら本を読むなり調べるなりすればいいと思います。今は、書店に行けば仏教関連の本はたくさんありますし、読む本がわからなければ僧侶に聞けばよい。それを他の役員にシェアして試行錯誤を繰り返していく。そうしたら僧侶の手を離れるでしょうし、僧侶も自分の本文に従事できるでしょう。
また、仏典を読み、考え、修行をすることなくして、葬儀・法事はできませんよね。それらを日々きちきちやっているから、葬儀・法事ができるのですから(リアルに釈迦に説法ですね(笑))。
↑これとほぼ同じことを、私は自分の所属教会について考えています。牧師や教会役員が言うことを鵜呑みにするのではなく、また「私は聖書もよく読んでおらず神学も勉強していません」と尻ごみするのでもなく、自立した信徒となって、自分が教会を支えていくのだという責任感を抱いて、牧師や役員と対等の関係を築いていくようになりたい、そう願い、考えています。ちなみに、私は牧師も役員もそうでない信徒も、神の前にはみんな平等だと考えていますから、この種の尻ごみはないです。
護持会の運営初期段階では僧侶が関わる必要がありますけれど、おぼろげながらでも会の形が見えてきたら、役員は自分で考えて、必要なら本を読むなり調べるなりすればいいと思います。今は、書店に行けば仏教関連の本はたくさんありますし、読む本がわからなければ僧侶に聞けばよい。それを他の役員にシェアして試行錯誤を繰り返していく。そうしたら僧侶の手を離れるでしょうし、僧侶も自分の本文に従事できるでしょう。
また、仏典を読み、考え、修行をすることなくして、葬儀・法事はできませんよね。それらを日々きちきちやっているから、葬儀・法事ができるのですから(リアルに釈迦に説法ですね(笑))。
Posted by T.Emi at 2012年01月13日 23:54
>Emiさん
コメントありがとうございます。
まったくその通りですね。僕もそんな風に会のあり方、活動が緩やかにシフトしていくといいな、とは思います。
ただ、仏教においては、原始仏教からの教義上、僧侶と一般の方(在家)は、同じ仏教でも求める物が違っているように見えます。すなわち、僧侶は「悟り」を、在家は「僧侶を供養(原義は、食べ物などを捧げて養うこと)することで得られる功徳をつみ、最終的には”来世でよりよい世界に生まれ変わる”こと」が目的です。
ここが仏教のよく分からないところで(笑)、一般人の方が「悟り」を求めてはいけないとは書いていないまでも、基本的に役割が違うらしいのです。
そういう意味で、僧侶の立場・一般人(檀信徒)の立場、という風に書いたのは、それぞれそのスタンスを守りつつ、というニュアンスで書きました。
この点はちょっとキリスト教とは違うのかもしれません。
とはいうものの、組織は生き物ですから、体裁を整えれば(=メンバーを入れて規約を作れば)自動的にうまくいく、なんてことはないですから、そこは僕も僧侶としてきちんと頑張っていかなければならないところであります。
コメントありがとうございます。
まったくその通りですね。僕もそんな風に会のあり方、活動が緩やかにシフトしていくといいな、とは思います。
ただ、仏教においては、原始仏教からの教義上、僧侶と一般の方(在家)は、同じ仏教でも求める物が違っているように見えます。すなわち、僧侶は「悟り」を、在家は「僧侶を供養(原義は、食べ物などを捧げて養うこと)することで得られる功徳をつみ、最終的には”来世でよりよい世界に生まれ変わる”こと」が目的です。
ここが仏教のよく分からないところで(笑)、一般人の方が「悟り」を求めてはいけないとは書いていないまでも、基本的に役割が違うらしいのです。
そういう意味で、僧侶の立場・一般人(檀信徒)の立場、という風に書いたのは、それぞれそのスタンスを守りつつ、というニュアンスで書きました。
この点はちょっとキリスト教とは違うのかもしれません。
とはいうものの、組織は生き物ですから、体裁を整えれば(=メンバーを入れて規約を作れば)自動的にうまくいく、なんてことはないですから、そこは僕も僧侶としてきちんと頑張っていかなければならないところであります。
Posted by 泰明@西光寺
at 2012年01月15日 09:59
