2013年03月08日
正法眼蔵の真筆拝覧と眼蔵会
アクセス数が上がりそうもないタイトルだよなぁ、と思いつつ、久方ぶりのブログです。・・・最近、ちょっと気がつくと平気で半月もブログを放置してしまってます。反省です。
さて、先日、私の所属する東三河曹洞宗青年会(東三河の曹洞宗青年僧侶=40歳以下、60名ほどで構成される組織)主催の『正法眼蔵』講義が行われました。
正法眼蔵とは、”しょうぼうげんぞう”と読み、曹洞宗の宗祖、道元禅師が書かれた書物です。よく「日本最初の哲学書」なんて言われていたりもします。また、タイトルは”仏教の正しき教えを見ききし集めた”くらいの意味(だったような・・・)です。
いろんな編集形式がありますが、一口にいって95巻からなる書物で、一巻一巻にタイトルが附され、その教えが記されております。
そして、我が街、豊橋のお寺に、実は道元禅師の御真筆、要するに写本ではない、本物の正法眼蔵が蔵されております。
今回、特別にその正法眼蔵「山水経」(さんすいきょう)を拝見させていただき、引き続き、この「山水経」についての講義が行われました。これに併せて、私の属する会だけではなく、県内の他のエリアの青年会、岐阜、三重、静岡などの隣県の会にもお声掛けし、50余名が集まりました。

ちなみに、この正法眼蔵山水経は重要文化財です。私も、数年前に豊橋市美術館で1度拝見したのみ。当然、ガラス越しですし、1ページ分(冊子のようになっているため)しか見られなかった。
かつて私が師事していた書家の先生は「とにかく本物を何度も見ること。そして絶対にガラス越しではだめだよ」と仰っていました。
まさにこの日、間近で正法眼蔵を拝見することができ、法悦(ほうえつ・・・仏教の教えに触れる喜び)とはこういうことなのか、と本当に感激しました。
曹洞宗で江戸時代最大の学僧と呼ばれた面山瑞方禅師も、真筆をご覧になられたとき
「方に今、真蹟を拝読し、告誡の始末に感激す。」と書かれています。
うまく言えないのですが、やはり書というのは人柄がでるような気がします。もちろん時代によって字勢とか運筆とか違うわけですが、道元禅師の書はとにかくキレイ。綺麗といっても我々が想像する「きちんとした楷書」という意味では無く(そもそも、宋時代のスタイルなので)、線がとても繊細で、一見壊れそうな雰囲気。しかし、繊細と言っても、逆に迷いのない、まるで研ぎ澄まされた小刀のような字。たぶんお人柄がにじみ出ているのでしょう。
その日は、拝覧の後にそのまま講義をいただきました。講師は私の尊敬する先輩であり、曹洞宗の研究機関におつとめの方。何度も書いていますが、”平成の面山様”と私が常にお慕いしている方です。
特に今回は、山水経の中でも最も勘所となる冒頭部分「而今の山水は、古仏の道現成なり」を特に綿密にご講義いただきました。
・・・上手く訳せる自信がないのですが、一応、現代語訳すると・・・
”今この瞬間に、我々が目の当たりにしている山や水は、それ自体がすでに仏の世界を表した言葉で在り道理である”くらいでしょうか。
はい、何のことが全然わかりませんよね。いいんです。私も理解できてるわけではないので・・・(汗)
でも、佐々木中曰く「なんだか意味が分からない、納得できず気持ち悪い」と感じることこそ本当の文であり、本当の読書である、ということらしいので、これからも研鑽していきたいと思います。
講師をお勤めいただきました先輩、並びに会場主さま、各方面でご加担いただきました会員諸師にこの場をお借りして御礼申し上げます。素晴らしい眼蔵会でした。ありがとうございました。
さて、先日、私の所属する東三河曹洞宗青年会(東三河の曹洞宗青年僧侶=40歳以下、60名ほどで構成される組織)主催の『正法眼蔵』講義が行われました。
正法眼蔵とは、”しょうぼうげんぞう”と読み、曹洞宗の宗祖、道元禅師が書かれた書物です。よく「日本最初の哲学書」なんて言われていたりもします。また、タイトルは”仏教の正しき教えを見ききし集めた”くらいの意味(だったような・・・)です。
いろんな編集形式がありますが、一口にいって95巻からなる書物で、一巻一巻にタイトルが附され、その教えが記されております。
そして、我が街、豊橋のお寺に、実は道元禅師の御真筆、要するに写本ではない、本物の正法眼蔵が蔵されております。
今回、特別にその正法眼蔵「山水経」(さんすいきょう)を拝見させていただき、引き続き、この「山水経」についての講義が行われました。これに併せて、私の属する会だけではなく、県内の他のエリアの青年会、岐阜、三重、静岡などの隣県の会にもお声掛けし、50余名が集まりました。

ちなみに、この正法眼蔵山水経は重要文化財です。私も、数年前に豊橋市美術館で1度拝見したのみ。当然、ガラス越しですし、1ページ分(冊子のようになっているため)しか見られなかった。
かつて私が師事していた書家の先生は「とにかく本物を何度も見ること。そして絶対にガラス越しではだめだよ」と仰っていました。
まさにこの日、間近で正法眼蔵を拝見することができ、法悦(ほうえつ・・・仏教の教えに触れる喜び)とはこういうことなのか、と本当に感激しました。
曹洞宗で江戸時代最大の学僧と呼ばれた面山瑞方禅師も、真筆をご覧になられたとき
「方に今、真蹟を拝読し、告誡の始末に感激す。」と書かれています。
うまく言えないのですが、やはり書というのは人柄がでるような気がします。もちろん時代によって字勢とか運筆とか違うわけですが、道元禅師の書はとにかくキレイ。綺麗といっても我々が想像する「きちんとした楷書」という意味では無く(そもそも、宋時代のスタイルなので)、線がとても繊細で、一見壊れそうな雰囲気。しかし、繊細と言っても、逆に迷いのない、まるで研ぎ澄まされた小刀のような字。たぶんお人柄がにじみ出ているのでしょう。
その日は、拝覧の後にそのまま講義をいただきました。講師は私の尊敬する先輩であり、曹洞宗の研究機関におつとめの方。何度も書いていますが、”平成の面山様”と私が常にお慕いしている方です。
特に今回は、山水経の中でも最も勘所となる冒頭部分「而今の山水は、古仏の道現成なり」を特に綿密にご講義いただきました。
・・・上手く訳せる自信がないのですが、一応、現代語訳すると・・・
”今この瞬間に、我々が目の当たりにしている山や水は、それ自体がすでに仏の世界を表した言葉で在り道理である”くらいでしょうか。
はい、何のことが全然わかりませんよね。いいんです。私も理解できてるわけではないので・・・(汗)
でも、佐々木中曰く「なんだか意味が分からない、納得できず気持ち悪い」と感じることこそ本当の文であり、本当の読書である、ということらしいので、これからも研鑽していきたいと思います。
講師をお勤めいただきました先輩、並びに会場主さま、各方面でご加担いただきました会員諸師にこの場をお借りして御礼申し上げます。素晴らしい眼蔵会でした。ありがとうございました。