2011年03月27日

結構致命的な、ホントは隠したい私の弱点

泰明の苦手なもの・・・それは「法話」

坊さんなのに・・・face07

実は私は「法話」というものが苦手です・・・。
「法話」というのは要するに、仏教をからめて僧侶がするお話のことなんですが、自分自身が”有り難くない僧侶”(笑)だからか、どうにもこういう”ありがたい話”ってのが苦手で・・・。何か”お涙ちょうだいモノのドラマ”、みたいに感じちゃうんですよね。あ~~こんなこと書いたら偉大なるご先輩方に怒られるんだろうなぁ・・・。すみません、不謹慎で。
でも、一般の方にとっては、この”ありがたい話”こそ、僧侶に対するニーズってのも分かるんです。

何でこんなことを書いているかというと、昨日、葬儀を終えたばかりの檀家さんがお寺に来られました。四十九日(忌明け)の日程などを話して、その後で”中陰”(ちゅういん)の話になりました。「”中陰”というのは何か?」というのは難しい問題ですが、今はごく単純に”亡くなってから四十九日までの間”とご理解ください。
そこで檀家さんとしばらく話をさせてもらったのですが、つくづく自分は”1対1のトークが気楽にできるタイプ”だ、と気づきました。(自分で言うのも何ですが・・・)

どういう事かと言いますと、最初にお檀家さんが「四十九日って閻魔様の裁きを受ける日ですよね?」と聞いてこられたことで、”中陰”の会話がスタート。

もしこれが普通の僧侶なら、中陰についてきちんと勉強してますから、たぶん、学術的な説明(四有とか含め十王思想など)をしたり、或いは逆に「地獄ってのはこういうもので・・・云々」すると思うんですが、私の場合、どうしても知識が浅いというのも手伝って、一方的に滔々と自説を開陳することが出来ず、コール&レスポンス的トークになってしまいます。つまり、この場合、相手がどういう事象を信じているのか、どういうことを知りたくて、どういう事柄までを理解しているのかを、相手の表情や素振りを無意識に判断して話していると思うのです。かっこよく言えば、「相手に合わせて」話しているのでしょうが、たぶん、私の力不足がそうさせているのだと思います(笑)

前にも拙ブログで『魂ってあるの?ないの?』という記事を書きましたが、これなんかもそうで、結局、”ある”と信じている檀家さんにはそれ様に、”ない”と信じている檀家さんにもそれ様に話を変えると思うのです。このように書くと、すごく不誠実な感じがしますが、でも実際その存在の有無を議論しても意味がないというか、そこに本当の仏教があるとはどうしても私には思えないのです。つまり、これは実証実験でもなんでもなく、ただ単に信仰の問題なので、日常生活を送る上で度が過ぎてなければ、或いは他者に目に見えて被害をあたえていなければ”あってもなくても”どっちだっていい訳です。

話が飛びました・・・。今回は2人での会話ですが、もちろん、こうしたシチュエーションでも「法話」とは呼べます。ただ、普通「法話」と言った場合、檀家さん大勢の前でする話を指していて、(当たり前かもしれませんが)ほとんどの僧侶はそれができると思うんです。でも私は苦手。苦手というより敬遠しているというか。で、何でそうなんだろう?と自分で分析してみました。思い当たる節は3つ。


1.最大公約数的な話をしてしまう
・・・仏教の特色って、前にも書きましたが「対機説法」です。対機説法というのは、相手の立場に合わせて話の内容をコントロールして、順々に高度な思想を語っていくというブッダ以来の伝統的スタイルなんですが、逆に一般的な法話というのは不特定多数の前で話をします。
すると、”最大公約数”つまり、誰が聞いても当たり障りなく、まぁいい話が前提になってしまいます。これ、私苦手なんですよね。なんか胡散臭い気がしちゃうんです。
もちろん、そんな「いい話」なんてせずに、もっとディープだったり、観点が違ったりしている話もNGって訳じゃないと思うんです。でもね。やっぱりニーズってあるじゃないですか。それを無理に追うと苦しくなってしまうんです。

いつも思うのですが、私が好きなのはたぶん、マイケル・サンデルの授業みたいに「今日は”縁起”について話してみよう。身近な問題として”何故私は今ここに生きているのか?”を”縁起”の教えを通して考えてみたい」的な法話(法話と呼べるのか不明ですが)、すなわち定理(や教理)が前提としてあって、実践的にコール&レスポンスありの会話スタイルと申しましょうか・・・ま、でもとにかく私が勉強しないことには絵空事にすぎませんが・・・。


2.酔ってしまうことを恐れている
これは、もしかしたら司会をされている方とかもそうかもしれないんですが、大勢の前で自分だけ話をする(=アナウンスをする)というのは、みんなが聞いてくれることや、指示通りに動いてくれることに”自己陶酔”しやすいんじゃないかと思うのです。端的に言えば「私がしゃべったことをみんなが真剣に聞いてくれている。もっとしゃべらなきゃ」という感じ。(マイクも使っているから余計に)
真剣に聞いてくれていることに対して真摯に向き合うことは間違っていないんですが、それ以上の変な責任感に燃えるのは間違いだと思います。
だからこそ、それを自戒し警戒してそう思っています。
私事、何故か結婚式の二次会の司会とか幹事とか、今まで何度も何度もやっているんですが、どうしても自分にはその「司会をする(=大勢の前で話す)ことで得られる間違った自己陶酔」を僅かでも感じ取った過去があるので、余計にそう思うのかもしれません。


3.自分がそういう話を望んではいない、のかも。
これはそのまんまの意味です(笑)法話は、質問なしでただひたすら僧侶の話を聞く、というだけではナンセンスな気がしています。
つまり、仏教ってのは、「これこれこういう教理があって、こういう思想があって、こうすればこうなります」的な教えじゃないと感じています。そんな簡単なものだろうか?(違っている可能性大ですが・・・)
「これこれこういう教理があって、こういう思想があるから、今までこうしてきた。だから、とりあえず踏襲してこうしてみる。そして躓いたら考えてまたこうしてみる(以下繰り返し)」が仏教じゃないかと思うのです。(発心修行菩提涅槃というべきか・・・。)


あ・・・今回も偉そうなことをたくさん書きました。ごめんなさい。不説過戒を犯してしまった。反省。

  


Posted by 泰明@西光寺 at 15:02
Comments(8)ぼ~さんの日常